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ヤスミン・アフマドの世界 [マレーシア映画]

もうずいぶん前だが、1月18日~1月27日に福岡市総合図書館映像ホールで「ヤスミン・アフマド監督特集」として、ユーロスペース等でパッケージとして組まれていた6作品が回顧上映された。どれも一度は観ているが、とくに「オーキッド四部作」は、発表の都度に観ているだけで、なかなかまとめて振り返ってみる機会はないので(一部はDVDを持っているが)、足を運んだ。
今回観直すのにあたって、絶好のタイミングでアミール・ムハマド著の「Yasmin Ahmad's Films」が、海を越えて届いた。2009年、ヤスミンの訃報に直面した友人のアミール・ムハマド監督が、ヤスミンの残した6本の長編といくつかの短編を再び観直して、作品ごとの章立てでヤスミン・ワールドを解説した、回顧上映にはもってこいの、いわば副読本なのである。
国際的な資料になることも意識してか英語で記されていて、宗教や風俗文化の視点から、またドメスティックな解釈にも触れていて、マレーシア・ニューウエーヴの立役者のひとり、ヤスミン・アフマド監督に捧げられた248ページである。映画監督の眼による、同志の作品に対するミクロな解釈やコメントはたいへんおもしろかった。ポイントとなるキーワードごとに、コラムという形で別枠にしている点でも読みやすいし、何よりアミールの、ヤスミンとの交流の記憶に基づいて、彼女の人となりや彼女の考えも、悪意なくフレンドリーに綴られている(アミール・ムハマド監督は、監督作「ビッグ・ドリアン」(03)の映画祭上映や日本財団のフェローシップで何度か来福もしている)。
今後も名作として語り継がれるだろうヤスミン作品を紐解くにあたっては、この本に書かれていることのすべてが、あまりにも見事な指摘、分析だけれども、しかし、だからといってそれをいちいちこの場で書こうとすると、もう全訳するしかないわけだが、そんなことはできないので、トリビア的に書かれているネタを、ほんの少しだけ拾ってみた。

「ラブン(Rabun)」(2003)
●「ラブン」はもともとTVドラマとして作られた。ウ=エイ・ビン・ハジサアリ監督の「放火犯」(93)のように、マレーシアでは映画よりもTVドラマの方が優れていることが多い。それは商業的な締めつけが少ないから。本作はカメラマンの意向で、ベータカムではなく16mmフィルムで撮影された。
●「ラブン」を初めて観たのは2003年。アミール監督は試写に遅れてしまったが、ヤスミンはまだ当時それほど親しくもなかったアミール監督に対してDVDを渡してくれた。
●1930年代から50年代にかけてのマレー映画界では、おもにインド人が製作していた。ヤスミンのお気に入りの10本のひとつは、ラージ・カプールの「ボビー」(73)。アミール監督は、あまりインド映画は観ないけれども。
●ヤスミンの映画の多くは、彼女の記憶にもとづいているが、オーキッドは彼女の妹の名前。
●「ラブン」には、ヤスミンの親友ホー・ユーハン監督がエルビス役で出ている。「ムクシン」では、オーキッド一家のソファを運び出そうとする三人組の一人として出演。
●オーキッドの両親が一緒に入浴する場面があるが、これはヤスミンの両親が実際にやっていたこと(TVではカットされた)。
●ベッドの上の孤独な未亡人のシーンは、ツァイ・ミンリャン監督「ふたつの時、ふたりの時間」へのオマージュ。ヤスミンは、ツァイ・ミンリャン作品がマレーシアで初めて上映されたときにゲストで来ていて、彼に熱く質問していた。

「細い目(Sepet)」(04)
●マレーシア映画は普通、“In the Name of God”では始まらない。しかし「細い目」はこのオープニングに加え、冒頭の数分間にマンダリン、広東語、マレー、ベンガル語と登場する。
●なぜオーキッドという名前を選択したのか。アミール監督の推測は、フェミニンであり、マレー語、英語の両方で表現できるから。
●「細い目」は民族間のロマンスだが、マレーシアではこの手のドラマは多くはない。P・ラムリーで2本ある。しかしいずれも成功していない。ヤスミンはP・ラムリーのコメディは好きだが、ドラマはあまり好きではない。
●オーキッドとジェイソンの二人が、湖のほとりで背を向けて並んで座っているシーンがあるが、これは「細い目」のポスター(二人が並んで座っている正面からの写真)の逆アングルになっている。
●ヤスミンは携帯電話をふたつ持っていて、メールが好きだった。映画の進捗状況をアップデートしては知らせてくれた。アミールが最後にヤスミンから受け取ったメールは「誰か私をこの悪夢から目覚めさせて。そしてこれがこの国で起きたことではない、Teoh Beng Hockは、自宅で家族と一緒に安全にしていると言って」。(マレーシア汚職摘発委員会の取り調べを受けていた、元議員秘書のTeoh Beng Hock氏がビルの階下で死亡しているところを発見され、死因は自殺と結論付けられた事件のこと)。
●間違っているかもしれないが、「細い目」は豚肉が出てくる初めてのマレーシア映画。
●民族を越えた恋愛としていえば、ヤスミンの最初の夫はインド人。二番目はチャイニーズ。
●「細い目」を撮ったのはイポーの街。フレンドリーな土地柄で、交通渋滞もなく映画製作に取り組みやすかったから。
●ヤスミンからラット(マレーシアの漫画家)のことを直接聞いたことはないが、「細い目」を観ると、アミール監督はラットの作品「Town Boy」を思い出す。
●「細い目」のラストシーンは、解釈としてミステリアス(元は別のオリジナルのエンディングがあった)。

「グブラ(Gubra)」(05)
●「ラブン」でオーキッドを演じた女優Noor Khiriahは、「グブラ」では別の役(若い聖職者の妻の役)
●「グブラ」の最初の10分間は、アミール監督が思うに、ヤスミンの、最も驚くべきフィルムワーク。コンパクトでリッチで…。
●「グブラ」で登場するオーキッドは、最初にまず母からの電話を受けイポーへ向かう。父の病気を伝える母の声は泣いている。「細い目」のラストでも泣いていた母とリンクしている。そしてそれは「ラブン」の最後にも繋がる。
●オーキッドが病院で出会う変わった男性患者は、「ポケットの花」のリュウ・センタック監督。「ムクシン」では、オーキッド一家のソファを運び出そうとする三人組の一人として出演。
●「細い目」は、検閲で9つのカット(トータルで1分以下)を受けたが、「グブラ」ではカットを受けなかった。
●父の入院している病院で、オーキッドは偶然に、ジェイソンの兄アランと会うことになる。しかし「細い目」におけるアランの存在は小さく、アミール監督も覚えていない。
●ヤスミンは、若くして亡くなったシンガポールのアスリートの半生を描く映画「Go, Thaddeus !」の製作を進めていた。
●オーキッドの夫の不倫相手が勤めている電器メーカーはPensonic(Panasonicではなくて。この「グブラ」のスポンサー)
●オーキッドが部屋でみているTVドラマは「ラブン」の入浴場面(それも。TV によってカットされた場面)
●「グブラ」のポスターのビジュアルで、オーキッドと抱き合っている背中姿の男はジェイソン。
●じしんの前夫とのエピソードにもとづいている点を、ヤスミンは後になって後悔していた
●アミール監督の撮ったレズビアン・バンパイア・ムービー(ホラー)「Susuk」(08)に、ヤスミンは看護婦役でカメオ出演している。
●この「Susuk」同様に、ちょっと不思議なシーンが「グブラ」にもあるが、それは聖職者役の俳優Nam Ronがヤスミンに提案したもの。
●四部作をオーキッドの年代記としてとらえた場合、オーキッドのシリーズ最後の登場場面は、ジェイソンの遺品をみて泣く姿。

「ムクシン(Mukhsin)」(06)
●「細い目」では香港映画のビデオを借りて観るオーキッドだが、広東語はできなかった。しかし、その7年前の世界である「ムクシン」では、オーキッドはチャイニーズ・スクールに通い、作文も得意なのである(マンダリン)。
●オーキッドが級友の男の子たちの鞄をスクールバスから放り投げる場面で、ヤスミンの夫が出演している。
●オーキッドの父(ヤスミンの実の父がモデル)とのシーンで、メイドのヤムが歌っているのは、ヤスミンの父親が作曲したもの。
●「細い目」「グブラ」でオーキッドを演じた女優Sharifah Amaniの、実の妹であるSharifah Aryanaが、「ムクシン」ではオーキッド役をしている。
●ついでに、彼女らの姉Sharifah Aleyaが、ここではオーキッドの母親役であり、“家族”をテーマにした映画づくりが、配役という点でも試みられている。
●ヤスミンはインドネシア映画がたいへん好きだった。とくに「Mendadak Dangdut」(2006)。Christine Hakim、Jajang C. Noer、Dian Sastrowardoyoとインドネシアの三人の女優を起用して新作を撮るプランも持っていた。
●凧上げの場面で、大人になったオーキッドとジェイソンがみえる。パラレルな世界に繋がっていくかのように。
●マレーシア映画のその年の審査委員長によると、「ムクシン」にはストーリーがないという理由で、ベストフィルムにノミネートすらされなかった(「細い目」「グブラ」は2年連続して入ったというのに)
●しかし「ムクシン」は、四部作の中ではマレーシア国内で一番ヒットした。アミール監督は、小さなカップルを描いているからと捉えている。
●そばを離れることになるムクシンによって、凧の尾に何と書かれてあったか、オーキッドが読んでいた内容は謎のままである。
●アミール監督は当初、終わりの大人になったオーキッドのボイスオーバーの声は、ヤスミンのものだと思っていた。だが実際は、この作品でオーキッドの母親役をしているSharifah Aleyaのものだった。
●最後は、ヤスミンと両親、妹(オーキッドという名)が、作品のクルーとともに「Hujan」という曲を楽しそうに歌っているところで締めくくられる。

友人のKさんから聞いた話“ヤスミンは男だった”(亡くなられた直後に、学生時代のクラスメートのコメント付きで地元のゴシップ紙に載ったネタ)については、この本には、当然ながら記述はありませんでした。
今回観直してみての、最大の収穫は、とても当たり前だが、この四部作は、オーキッドの時代を成長順に追っていく流れではなくて、製作順に「ラブン」「細い目」「グブラ」「ムクシン」と観ていくことに、とても意味があって、その都度に発見があることがわかったこと。それは、たとえばトルコのセミフ・カプランオール監督の三部作「卵」「ミルク」「蜂蜜」と同じように。
そこに気付くと、もう一度その順でオーキッドの話を観直したくなった。
(2012年5月10日)

「Yasmin Ahmad's Films」を読みながら、細かく記録していったメモ帳を失くしてしまって、しばらく落ち込んでしまいました。

Yasmin.jpg



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フィリピン映画の鬼才ブリランテ・メンドーサ監督の紹介番組を観た [フィリピン映画]

3月22日のNHK「ほっと@アジア」のアジア発おもしろTVのコーナーで、「フィリピン映画の鬼才・メンドーサ監督」と題して、隣国シンガポールのTV局メディアコープ製作の番組が紹介された。進行の吉井キャスターの「過激な映像スタイルで、いま最も注目されているひとり」という紹介はいいとして、「監督歴7年でそれほど作品数は多くはないものの」という修飾語はちょっと「?」マークだったけれども。
このシンガポールの番組は、フィリピンの映画監督ブリランテ・メンドーサの国際的な活躍を紹介しながら、彼の映画づくりへの思いにも迫るものだった。
2009年の第62回カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞した「キナタイ」(09)の映像を流しながら、タランティーノの「大胆で型破りな映画」という賛辞の言葉を借りて、この番組はメンドーサ監督の国際的躍進を伝える。(補:同年のコンペ部門はパルムドールがハネケの「白いリボン」で、他にパク・チャヌク監督「渇き」、ロウ・イエ監督「スプリング・フィーバー」、ジャック・オディアール監督の「預言者」、トリアー監督「アンチクライスト」に「イングロリアス・バスターズ」と粒ぞろい。)
「キナタイ」は、今度日本でもDVDリリースされるが、警察学校で学ぶ青年が、金を稼ぐために戸惑いながらも裏社会と関わるようになっていくさまを描いたサスペンス・ドラマだそうだ。女性の体を切り刻むなど暴力的な場面には賛否両論だった。(NHKで流される映像に問題となりそうなものは何もない。)しかしメンドーサ監督はこれらの批判も真摯に受け止め、「この賞のお陰で自分の信じる道を突き進めるようになった」と語るインタビューが流れる。
2005年の第58回ロカルノ国際映画祭で第一作「マニラ・デイドリーム」(05)がビデオ部門の金豹賞を受賞し、華々しいデューとなったメンドーサ監督は、キャリア7年で10本の作品を撮り、数々の世界的な賞に輝いたわけだが、映画づくりのきっかけは、それまで20年以上TVCMの美術監督として活躍してきたメンドーサ監督に、友人が30万円の資金を提供し、映画を作ってはどうかと挑戦を促したからだという。(補:この「マニラ・デイドリーム」は、東京国際レズビアン&ゲイ映画祭2006で上映されていることからもわかるとおり、貧しさから足を踏み入れた世界で官能に溺れていく青年を描いたゲイ・ムービー。)
「(一貫して社会的弱者を取り上げているのは、)貧困にあえぐフィリピン社会を知ってもらいたいから」。「リアルに作るようにしている。現実とかけ離れている映画ではなく、現実を反映した映画を常に意識している」。自然な姿を引き出すため、セリフは俳優のアドリブ。「キナタイ」の主演俳優ココ・マルティンは、「海外で、これはドキュメンタリーか?あなたは一般の人か?と訊かれた」と証言している。
番組はさらに、監督作「Lola」(09)の撮影風景を背景に流れていく。このようなドキュメンタリー風の手法は、メンドーサ監督を知らしめる作風となった。ついでに言うと、以前わたくしも観た、マニラのスラム街を舞台にした「Tirador」(07)になると、手持ち中心のカメラ・ワークは、内容とからいうことではなくて、激しいブレから船酔いするかのような気分の悪さもあった。
フィリピン映画の個性としては、ラテン気質から、情熱的で過激だとは以前から言われてきたが、メンドーサ監督は、「現実に目を向けてほしいから映画を作っている。暴力や性描写に批判があることはわかっている。けれども、そういった嫌悪感も意図していることだ。暴力を肯定しているのではない、暴力の存在を考えてほしいだけ」。「映画には真実を見つめ直す役割がある」と最後に結んだ。
最新作は、今年2月の第62回ベルリン国際映画祭で上映された第10作「Captured」(2011)。フィリピンで誘拐されたNGOの外国人活動家と、イスラム過激派のテロリストとの交流を描いた作品。フランスのベテラン女優イザベル・ユペールが主演を務めているそうだ。
(2012年4月17日)

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UAEレポートでの現地映画 [UAE映画]

2月21日放送の「地球テレビ/エル・ムンド」(NHK・BS1)ではUAE(アラブ首長国連邦)の映画を紹介していて、珍しい話題なので、ここに記録しておく。
この週では一週間、テーマ別にUAEの文化を取り上げていて、この日の話題は映画。公務員として働く一方で、同国の売れっ子俳優としても活躍している男性、ハビーブ氏を密着して紹介した。二つの顔を持つ兼業俳優とはちょっとヘンに感じるが、この国では、同じアラビア語圏だから海外作品が数多く入ってくるので、国内では産業としては小さく、俳優業だけでは食べていけないそうだ。逆に言うと、だから近隣諸国の外国人俳優が起用されることが多いそう。
このハビーブ氏も出演しているという、アリ・F・ムスタファ監督の「City of Life」(2009)が番組では流された。わずかなカットの紹介ではあるが、印象としては、ちょっと魅惑的。大都市ドバイの陰の部分をリアルに描いてヒットしたそうだが、当初はなかなか政府の上映許可がおりなかったそうだ。夜のバーのダンスシーン、テンポのいいアクションシーンなど、なかなか刺激的な映像が映し出された。酒や暴力におぼれて堕落していく若者が主人公。お涙頂戴やコメディが主流のUAEのなかで、飲酒や未婚の妊娠などのタブーに挑戦したという極めて野心的な作品に、公務員俳優が出演しているとは、それもそれで、剥き出しというか赤裸々な姿だ。
(2012年3月4日)

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年間製作本数2000本を誇る世界一の映画の都ノリウッド [ナイジェリア映画]

2月20日にテレビ東京で放送された「未来世紀ジパング」という情報番組をみた。ナイジェリアの急速な経済成長に着目するのがこの週のテーマで、同国はBRICsに次ぐNEXT11(経済大国の予備群みたいなもの)のひとつで、今でもアフリカNo.1の人口(1億5千万人)は、2053年には中国、インドに次ぐ世界第3位に躍り出るという予測である。アフリカ西海岸(ギニア湾)に面した大都市ラゴスでは、西欧の投資による「エコアトランティック・シティ」という巨大プロジェクトが進行中で、数年後には姿を現すという超高層ビルで成り立つ未来都市のイメージは、まるでドバイのよう。世界有数の産油国であることも手伝って、アフリカ経済の中心になるべく、ナイジェリアは勢いづいているのだ。
そのことの、わかりやすい事象として、ナイジェリア映画がメインに取り上げられていた。ナイジェリア最大の都市ラゴスで製作される映画は、ハリウッドをもじって、ナイジェリアの「N」をとって「ノリウッド」と呼ばれていて、その製作本数は、インド・ボリウッドを超える年間2000本で世界一。
このことじたいは、他の情報番組や新聞記事などからでも知られていることだが、実際にこの「未来世紀ジパング」のカメラが現地に入ってのレポートは、貴重であると思う。
2000本と数える、その大量の映画の定義はさておき、これらは劇場ではまったく上映されていない。街にシネコンはあるが、そこでは、庶民には手も出ない入場料5000円という高額でハリウッド映画だけが上映されているそうだ。これに対してノリウッド映画はすべてDVDとなって、2枚で200円といった低価格で売られているのだ。国の経済の急成長は1999年の民政化以降だから、ノリウッド映画の歴史もたぶん相当に浅いのだろうと思うが、経済が活況とはいっても人口の7割は貧困層であり、しかし今ナイジェリア国民は、この安いDVDを買って、家庭で映画を娯楽として消費し、また堪能しているのだ。
ノリウッド映画は、ナイジェリア国内にとどまらず、アフリカ全土に流通し、また衛星放送でもみられている。イギリスには専門チャンネルもあるそうだ。これは在外の同胞の間で中国映画やインド映画がみられている形に近いのかも。
番組は、ノリウッドで人気トップのイマセウン監督の撮影現場にせまる。カメラは、動画も撮れるキャノンの一眼レフが使われている。ノリウッド1作品の製作費は150万円が平均で、恋愛や部族間の争い、汚職などのテーマが多いそうだ。国産映画が国民に愛好されているのは、彼らがエンジョイできる内容だからに他ならない。スタジオ・ゲストは同国出身のタレント、ボビー・オロゴン氏。ナイジェリア人にとって、この活況は誇りのようだ。
そして番組の現地ロケではもうひとり、コメディ俳優として100本以上の出演作を数えるアキという男優にも密着。その振る舞いや、周囲の扱いは、もう大スターそのものである。
単純にアフリカだからといって、巨匠ウスマン・センベーヌ監督の世界を想像していたら大間違いで、おそらく日本のかつてのVシネマのような、金太郎飴の低予算作品ばかりだろうけれども、熱烈に愛されている以上、その存在は世界的にも無視できない。何よりも、「未来世紀ジパング」は新興国としての期待の眼でナイジェリアをみていて、ノリウッドの映画製作を、100万人の雇用をうみ出す一大産業だと言い切っているのだから。しかし産業とはいっても、これはまた、アフリカの今の映像文化でもある。経済の飛躍に後押しされて、アフリカ、ナイジェリアの人々が世界規模で活動するような時代になれば、ノリウッド映画も中華圏やインド映画のように、流布していくのだろうか。

翌日2月21日放送の「地球テレビ/エル・ムンド」(NHK・BS1)ではUAE(アラブ首長国連邦)の映画を紹介していて、珍しい話題なので、ついでにここで。
この週では一週間、テーマ別にUAEの文化を取り上げていて、この日の話題は映画。公務員として働く一方で、同国の売れっ子俳優としても活躍している男性、ハビーブ氏を密着して紹介した。二つの顔を持つ兼業俳優とはちょっとヘンに感じるが、この国では、同じアラビア語圏だから海外作品が数多く入ってくるので、国内では産業としては小さく、俳優業だけでは食べていけないそうだ。逆に言うと、だから近隣諸国の外国人俳優が起用されることが多いそう。
このハビーブ氏も出演しているという、アリ・F・ムスタファ監督の「City of Life」(2009)が番組では流された。わずかなカットの紹介ではあるが、印象としては、ちょっと魅惑的。大都市ドバイの陰の部分をリアルに描いてヒットしたそうだが、当初はなかなか政府の上映許可がおりなかったそうだ。夜のバーのダンスシーン、テンポのいいアクションシーンなど、なかなか刺激的な映像が映し出された。酒や暴力におぼれて堕落していく若者が主人公。お涙頂戴やコメディが主流のUAEのなかで、飲酒や未婚の妊娠などのタブーに挑戦したという極めて野心的な作品に、公務員俳優が出演しているとは、それもそれで、剥き出しというか赤裸々な姿だ。
(2012年3月3日)



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第84回米国アカデミー賞の短編ドキュメンタリー部門のオスカーはパキスタンの女性監督へ [パキスタン映画]

第84回米国アカデミー賞の短編ドキュメンタリー部門のオスカー予想において、日本のマスコミは、東日本大震災直後の被災者の姿を追ったルーシー・ウォーカー監督による作品「津波そして桜」に大きな期待を寄せて取り上げていたが、結果的には、パキスタン映画「Saving Face」が受賞した。パキスタン初のオスカー獲得を果たしたシャルミーン・オベイド・チノイ監督については、ノミネートの段階と今回の受賞と、二度にわたって朝日新聞が記事にしているので、そこから。
タイトルは直訳すると“顔の救済”で、パキスタンでは、家庭内暴力や求婚を断ったがための報復などで、夫や恋人から顔に硫酸をかけられてやけどの被害に遭う女性が、NGOの調査でも毎年150人以上を数えるという。パキスタンにおける女性に対する暴力、顔を大きく傷つけられ社会生活ができなくなってしまう、かといって女性は法に訴えることも難しいという悲劇的な女性の実態を、米国で学んだシャルミーン監督は女性の視点から、米国人監督と共同で、ドキュメンタリーとして告発した。朝日の記事は、パキスタン政府も男性に対して厳刑を処する法制定にやっと動き始めたと結んでいる。
2011年のパキスタン大ヒット映画「Bol」も、長女Zainabの死刑執行を取材にきた女性のジャーナリストが、Zainabによる真実の告白を受けて、大統領の秘書官に、何とかして刑を止められないかと携帯を使って強く願い出る場面がある。結果的に政府は何も動いてくれないのだが、「Bol」と、この「Saving Face」に共通して強く感じられるのは、男性の暴力に対するパキスタン女性の、何とかしてほしいという心からの願いである。映画の大ヒットやオスカー受賞で、この問題が国際的に関心を集め、彼女たちの人権擁護に繋がっていけばと思う。
(2012年2月29日)

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パキスタンの2011年大ヒット映画「Bol」 [パキスタン映画]

9.11後のイスラム教徒の厳しい立場をドラマチックに描いた前作「Khuda Kay Liye」(07)が、2008年のアジアフォーカスにおいて「神に誓って」の題で紹介された、パキスタンのショエーブ・マンスール(Shoaib Mansoor)監督の二作目が「Bol」(2011)。これまた力の入った、たっぷりとしていて濃密な、2時間半の社会派ドラマである。
映画は、ラホールの刑務所から始まる。主人公はこれから死刑となる女性Zainab。その最期の時に母親や妹たちが駆けつけるが、泣き叫ぶ家族に向かって、Zainabは毅然と「ブルカを取るのよ!」と強く訴える。そして、数多くのマスコミが押し寄せるなかで、Zainabは「私は、殺しは働いたが、罪は犯していない」と語り始め、彼女が生きてきた、地獄のような物語が、ベールをとるかように映し出されていく…。
Zainabは、ムスリムの伝統を厳しく重んじるHakimを父に、長女として生まれた。一家は女性ばかりの7人娘。父親は女性を軽視していて、絶えず暴力をふるい、薬屋を営む家の中に妻や年ごろの娘たちを幽閉していた。一番下にできた待望の息子Saifeeは、南インドでいうところのヒジュラー(この映画の場合は性同一性障害?)で、Hakimの絶望した心はもう、どん底だった。
青年に成長したSaifeeは治安の悪い地区にアルバイトに行くようになったが、そこで、見るからに荒っぽい男たちに襲われてしまった。ボロボロになった状態で自宅前に届けられたSaifeeをみた父Hakimは、その夜中のうちに、寝ているSaifeeの頭にビニール袋をかぶせて、殺してしまう。その瞬間をZainabは目撃していた。
この父親、Hakimの行動は、みる限りすべてコーランにもとづいているようだ。息子を殺す前には、何度もページをめくって何かを確認するような仕草があった。また、通報があってHakimは警察で取り調べを受けることになり、警官から「コーランの前で嘘は言えまい」と言われ告白する…。結果的には賄賂を求める警官との間でカタがつくが、その金を工面するために、Hakimはコーランを教える仕事を引き受ける決心をした。
その仕事を依頼してきた男は、薬屋の客で、赤線地区の娼婦の斡旋業者Isaac。彼から受け取った謝礼の紙幣を一枚一枚石鹸で洗ってアイロンをかけるHakimの場面は、Hakimの宗教的潔癖さをも表している。
またIsaacは、さらに別の仕事も頼んできた。男の子ばかり5人を持つIsaacは、7人もの娘をうませたHakimに、自分の妻Meenaと寝て、娘を孕ませてくれというのだ! モスクの寄附金のことでも困っているHakimは引き受けざるを得なかった。しかしベッドの上でいざMeenaを前にして、コーランの前での約束だ何だと云々言い、なかなか往生際の悪いところからも、Hakimの信仰心はみてとれる。
父Hakimがその女と寝るために家を空けた晩に、Zainabは、妹Aishaとその恋人の結婚式を父親に無断で挙げてしまった。後になってそれを知ったHakimは激怒し、勝手なことをしたZainabの頭を鏡に打ちつけて血まみれにしてしまう。誰も何も言えない…、完全な家長中心の一家である。
そして…しかし、様々な思いの鬱積したZainabが、ついに父親に逆らう日がやってくる。
Meenaが逃げるようにして一家の元にやってきたのだ、それもHakimがうませた女児を抱いて。その後を追って、加勢の男たちを連れたIsaacが、Hakimの家の扉を破って中へと入ってきた! 袋小路のHakimは、とっさに女児を投げ殺そうとし、その女児の命を守らんとして、Zainabは父親を殺してしまったのだ…。
場面は再び、ラホールの刑務所に戻る。あまりにつらい人生を送ってきたZainabは「どうして殺すことは罪で、(私たち女性を)うむことは罪じゃないの?」と問いかけるが、とうとう死刑は執行される。
全体的に、救いようのないドラマだ。そのなかでサービスカットというか、つねに重たい展開の中で、浮いたように妙に輝いている場面がひとつ。Hakimに隠れて交際を重ね、結婚した妹Aishaとその恋人Mustafaの二人を描く部分だ。Mustafaは裕福な家の息子で、ロックバンドも組んでいる医者の卵。二人のデートのシーンはとてもハイソで、Aishaが飛び入りして二人で一曲披露するライブコンサートの場面は、とくにカッコイイ。ひょっとしたら、このMustafaを演じている男優はミュージシャンなのだろうか。
最後のエピローグも、ちょっと取って付けたよう。長女Zainabが犠牲になって厳格な父親がいなくなった一家は、家業だった薬屋をおしゃれなカフェに改造して、残った姉妹たちがいきいきと働き、そこにはMeenaとその女児もいるといった変わり様である。
本作は昨年2011年に封切られ、パキスタンの興行記録を塗り替える大ヒット作となったそうだ。ドロドロとしたメロドラマはパキスタン国民から好まれるものかもしれないし、海外の視点からしても、この映画のテーマは関心を惹くものといえるだろう。これでもか、これでもかという重たくて濃い演出が、ショエーブ・マンスール監督の持ち味。
(2012年2月27日)

第84回米国アカデミー賞の短編ドキュメンタリー部門のオスカー予想において、日本のマスコミは、東日本大震災直後の被災者の姿を追ったルーシー・ウォーカー監督による作品「津波そして桜」に大きな期待を寄せて取り上げていたが、結果的には、パキスタン映画「Saving Face」が受賞した。パキスタン初のオスカー獲得を果たしたシャルミーン・オベイド・チノイ監督については、ノミネートの段階と今回の受賞と、二度にわたって朝日新聞が記事にしているので、そこから。
タイトルは直訳すると“顔の救済”で、パキスタンでは、家庭内暴力や求婚を断ったがための報復などで、夫や恋人から顔に硫酸をかけられてやけどの被害に遭う女性が、NGOの調査でも毎年150人以上を数えるという。パキスタンにおける女性に対する暴力、顔を大きく傷つけられ社会生活ができなくなってしまう、かといって女性は法に訴えることも難しいという悲劇的な女性の実態を、米国で学んだシャルミーン監督は女性の視点から、米国人監督と共同で、ドキュメンタリーとして告発した。朝日の記事は、パキスタン政府も男性に対して厳刑を処する法制定にやっと動き始めたと結んでいる。
2011年のパキスタン大ヒット映画「Bol」も、Zainabの死刑執行を取材にきた女性のジャーナリストが、Zainabによる真実の告白を受けて、大統領の秘書官に、何とかして刑を止められないかと携帯を使って強く願い出る場面がある。結果的に政府は何も動いてくれないのだが、「Bol」と、この「Saving Face」に共通して強く感じられるのは、男性の暴力に対するパキスタン女性の、何とかしてほしいという心からの願いである。映画の大ヒットやオスカー受賞で、この問題が国際的に関心を集め、彼女たちの人権擁護に繋がっていけばと思う。
(2012年2月29日)


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第61回ベルリン国際映画祭の短編金熊賞受賞作「ナイト・フィッシング」 [韓国映画]

今ちょうど、ベルリン国際映画祭が開催中で、それにあわせてWOWOWで過去の受賞作品を放送しているが、そのなかに、なんと昨年第61回の短編金熊賞の受賞作「ナイト・フィッシング」(2011)があった。昨年6月の「ショートショートフィルムフェスティバル&アジア2011」において、「波瀾万丈」というタイトルで招待上映されているが、まさか、この30分ほどの短編が放送されるとは思わなかったので、観られて幸運だった。すごく面白かった!
筋を、前後入れ替えてまとめてみる。ピチャピチャと水をはった桶の中の、イ・ジョンヒョン演じる巫女に、悪天候に釣りに出かけて死んだ男が降りてくる。その男の魂をまつる祭祀が執り行われているようだ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…。シャンシャン、シャンシャン…。男は残された幼い娘のことが気がかりで、巫女の体を借りて、小さい娘を抱き締めて離さない…。いまどきの韓流映画界で巫女を演じられるのは、イ・ジョンヒョンをおいて他にいないのではと思えるほど、恐いくらいみごとにハマっている。
と、短編の前半に話を戻す。釣具を持った男が霧深い森の奥へと入り、川辺で釣りを始める。なかなか魚が釣れず、夜になってしまう。すると釣り竿に付けた鈴がシャンシャン激しく鳴り出し、竿が大きくしなる。しかし男が引き上げたのは何と、ピチャピチャと濡れた喪服姿の女性イ・ジョンヒョンである! 腰を抜かしてしまう男。携帯ラジオからは、付近の大雨予報を知らせるニュースが流れる…。そして場面は前述の、霊呼び出しのトランス状態の儀式へ…。
その両方の場面の橋渡しをするかのように、フレームの中で存在を主張するのは、狂ったようにシャンシャンと鳴り響く鈴の音と、生きているかのようにピチャピチャとほとばしる水。観ていて、昔の韓国映画によく出てきたシャーマニズムの世界が思い出された。その非科学的な神秘性にちょっぴり震えながら観たものだ。この30分の短編にも、それらと同じように、当時ホラーよりも恐く感じた精神世界が、叙情豊かに鮮烈に描かれている。
この作品が特に話題を集めたのは、全編、iPhoneでビデオ撮影して製作しているということだそうだ。けれども我が家の40インチの液晶テレビで観る限りは、そんなことはまったくわからない。夜釣りのシーンはきちんとライティングされているし、クレーンを使ったような俯瞰の絵もある。なによりも映像は高い技術でVFX処理されていて、サウンドや音楽も素晴らしい。
そういう大胆で実験的な映画づくりをしたのは、パク・チャヌク監督とその弟パク・チャンギョン監督(共同監督作品)。パク・チャンギョン監督は、長編作「浄土アニャン」がアジアフォーカス2011で上映されているが、そのなかには、ムーダンや仏教という本作との共通性を見出すことができる。
最近は、短編に限らず長編までも、携帯電話で撮った映画がいろいろ登場してきているようだが、この「ナイト・フィッシング」は、テーマ、表現力、完成度と、ちょっと別格だと思う。
(2012年2月14日)

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講座「タイで受容される日本の小説、映画、サブカルチャー」ででてきた映画 [タイ映画]

「タイで受容される日本の小説、映画、サブカルチャー」と副題のついた、入場無料の講座があることをその前日に知って、別にあった予定を変更して行ってみた(1月13日・福岡市文学館)。タイにおける、小説・マンガ・映画・アニメなど日本文化の消化吸収のされ方からみて、我々の知らないもうひとつの「日本」に迫ろうというものだ。
前半は、チュラーロンコーン大学の日本語講座講師を務めるナムティップ・メータセートさんによる日本語のトーク。日本語が非常に堪能なのは、彼女が「リング」や「博士の愛した数式」といった小説のタイ語版翻訳者であるからでもある(70年代に日本のアニメ「キャンディキャンディ」「アタックNO.1」などに触れて育った世代だそうだ)。
講座の主催が福岡市文学館だから、話の多くはまず文学になる。1980年ごろまで、タイでは三島、川端、太宰、夏目などの作品が紹介されていたが、それは英語などヨーロッパ言語からの重訳で、かなり歪曲されたものだったそうだ。2000年ごろになって、日本の現代小説が直接タイ語に翻訳される形で登場する。村上春樹や赤川次郎、宮部みゆきなどの作家の他、話に出てきた作品名を列記すると前述の「リング」「-数式」に加えて、「キッチン」「冷静と情熱のあいだ」「きらきらひかる」「世界の中心で、愛をさけぶ」「電車男」「OUT」「DIVE」「インストール」「蛇にピアス」などなど。注意してみると気づくことだが、どれも映画化されているもの。これらの小説がタイに輸入されていることはよくわかったが、はたして映画版はどうなのかというところまでは、残念ながら言及されなかった。
文学に限らない日本のポップカルチャー受容の流れを簡単にいうと、80年代までは消費、90年代は模倣、2000年ぐらいから創作という風に変遷していくのだそうだ。特に90年代以降は、インターネットで情報がリアルタイムで伝わるようにもなった。影響を深めることにより、文学界ではプラープダー・ユン、マンガではタムくんといった才能が出現した。いまではライトノベルもタイの作家によって書かれるようになり、コスプレショップもできて日本に逆輸入もされているらしい。
この手の講演は、喋りばかりだと退屈になってくるので、映像を用いることがよくある。ここでやっと映画の話が少し登場した。日本と結びつくものとして、最新のタイ映画からトレーラー2本をみせてくれた。
ひとつは「アヨータヤのサムライYAMADA」(2011)。山田長政を描いた作品で、国際マーケットを意識したと思われる格闘アクションがでてくる。日本のサムライが主役であるというのに、「マッハ」のようなムエタイものの印象。山田長政ゆかりの地・古都アユタヤの日本人町跡の記念碑がある公園を、過去訪れた思い出が蘇った。
もうひとつは、黒澤明監督作品「羅生門」が元になっている「Outrage」(2011)。タイの元首相で作家のククリット・プラモートが、芥川の小説ではなくて黒澤映画から翻案した小説を1966年に発表し(これこそ初期の日本文化受容)、それがさらに71年に同氏の脚本で舞台化され、それが映画となったわけだ。
ククリット・プラモートといえば、1990年の第一回福岡アジア文化賞を授賞され、来福している。そのときの授賞式で筆者もなまで見たことのある人物だが、じつはそのときに黒澤明監督も授賞(確か授賞式には黒澤久雄氏が代理出席したと記憶しているが…)。お二人の因縁の深かったことが今になってよくわかった。
映画はこれまた、香港映画のようなアクションもので、スター、アナンダ・エヴァリンハムの顔もみえる。登場人物それぞれの視点からドラマが語られる「羅生門」の話を今更ここで振り返る必要はなかろうが、この「Outrage」はその舞台をタイに置き換えていて、僧侶の存在が大きく描かれているそうだ。
まあ、「YAMADA」もこれもトレーラーをみせて軽く解説された程度なので、詳しいことは観てみないことには書けない。黒澤生誕100年記念のときのように、東京国際映画祭でこの「Outrage」を紹介いただければと勝手に思う。
さらに、映画についての補足を、後半の講演者・久保田さんのお話からお借りする。日本を描いたタイ映画の名作として1988年版の「メナムの残照」(ルット・ロンナポップ監督)のワンシーンをみせた後、日本映画に登場するタイとして、タイロケを当時敢行した、大映映画「山田長政~王者の剣」(1959)と、小林旭・渡り鳥シリーズの中の「波涛を越える渡り鳥」(1961)が取り上げられた。どちらも国際交流基金のタイ映画祭2003で上映されていたので、知識としては持っていたが、今回の講演では、どちらも映像のさわりを映した。「王者の剣」では、日本映画だったら馬であるべきところを、それを象に代えての合戦シーン。豪快のひと言である。
市川崑監督の「ブンガワン・ソロ」(1951)を観たとき、ジャワの村人たちを日本人俳優が演じていて(おそらくすべて日本国内での撮影)、真面目な話なのに苦笑した記憶があるが、こちらでは現地ロケであるのに市川雷蔵がタイ人を演じているところが珍である。
ついでに書くと、その後に映して紹介された「ハヌマーンと5人の蟻マン」という、子ども向けの実写ヒーローものが興味深かった。タイの“蟻マン”は、ビジュアル的にも日本の仮面ライダーを踏襲したというか、パクったもので、それも5人もいて戦隊を組んでいるらしく、バイク5台で並走するシーンはとても強烈。これをみていて思い出したのが、昔みたフィリピン映画の人造人間のヒーローもの。ペケ・ガリャガ監督だったと思うが、それこそ、仮面ライダーのように悪の組織によって人造人間に改造されるのだが、その描写が微に入り細に入りで、目ん玉を引き抜いたりとかフィリピン映画らしくてあまりにリアル、こりゃあ、R指定になってしまって子どもは観れないぞと当時思ったものだ。いかん、脱線してしまった…。
久保田さんが紹介されていた、近未来のバンコクを舞台に、エミコという日本人女性の名を持つアンドロイド少女が登場するというSF「ねじまき少女」を、今度読んでみようと思う。
(2012年1月21日)

タイで受容の日本文化.jpg

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アジアフォーカス2011/400字レポート⑫ 「カシミールの秋」  [インド映画]

アジアフォーカス2011/400字レポート⑫
「カシミールの秋」(10) インド アーミル・バシール監督

カシミールが舞台の映画だと、最近では、このホームページに前に書いたサントーシュ・シヴァン監督の「タハーン」(08)を思い出すが、他の国に生まれたならば青春を謳歌しそうな若者を中心に、ヘルプレスで無力感に満ちた世界を描いたものとして、この「カシミールの秋」は傑出している。1989年の独立運動の激化以降、この土地で8万人もの死者、1万人の行方不明者が出たことが冒頭で示される。分離主義者の武装ゲリラとインドの治安部隊の衝突が、一般の人々も巻き沿いにし、混乱に追い込む。主人公の青年ラティークとその仲間イシャク、アスラムたちの日常は、暗殺未遂や爆破テロなどと常に背中合わせである。行方不明になったラティークの兄が残したアサヒペンタックスの人物写真は、行方不明者家族の会と繋がっている。その兄を失ったことで、彼の父親は精神を病んでしまった…。
分離主義者でも何でもない普通の若者、携帯電話やバイクに夢中だったラティークたちは傷つき、そして最後には命を落とす。しかしそれはチンピラ映画のなかで無常に死んでいくやんちゃな若者たちとは明らかに違う。撃たれて路上に転がったラティークの体は、物語中盤にでてきたムスリムのイード祭の羊の生贄にようにみえてしまって仕方ないのだ。プロデューサーを兼ね、脚本もアーミル・バシール監督の筆によるもので、監督の父親に捧げられた作品であることがラストにクレジットされている。
どこかでみた顔と思っていたラティークの父親役は、「運動靴と赤い金魚」から「すずめの唄」までマジディ作品でおなじみの、同じイスラム圏のイランの俳優レザ・ナージ。エンドロールの謝辞にマジド・マジディ監督の名を見つけて、やっと頭の中で繋がった。出演のいきさつはよくわからない。
(2012年1月9日)

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アジアフォーカス2011/400字レポート⑪ 「冬休みの情景」 [中国映画]

アジアフォーカス2011/400字レポート⑪
「冬休みの情景」(10) 中国 リー・ホンチー(李紅旗)監督

退屈そうな日常のひとコマひとコマを描いても、決して退屈には映らないのが映画の持つ力のひとつだと思う。なぜなら「退屈そうな」は第三者からみての「そうな」であって、その見方というか、描写のされ方しだいだから。特別な事件が起きるわけでもない、人々の冴えない日常を静かに描くリー・ホンチー監督の映画スタイルは小津安二郎を源流とする系譜にあるものと思われ、とくに斬新というわけではないが、距離をとって固定した長回しのショットで、とぼけた会話ややりとりを繰り返させては、観客の笑いをじわじわと引き出す。
この90分ほどのドラマには、中国北部のとある町の、冬休みのティーンエイジャーやその家族が登場する。少年とそのガールフレンドの間、ソファに座ったじいさんと孫の男の子の間などで、ちょっと間の抜けたような会話が繰り返される。特にユーモアを感じるのは、市場で野菜を値切る場面や、少年たちの恐喝の場面、主人公の少年がガールフレンドをふろうとする場面などなど。
値切る場面では、白菜の品定めをしている女が、外側の葉を何枚も何枚も剥いで細くしてから野菜売りに向かって、「いくら?」「(目方を計って)二元三角」「二元にして」「三角がもうけだ」「じゃあ二元一角にして」「…わかった」「(財布をみて)二元しかない」「…仕方ない、いいよ二元で」。で、女は剥がした葉までを持って帰ってしまう。と、全体的にこの調子だ。これらは、コントのコンビのボケと突っ込みのやりとりのよう。演芸場の舞台を中継しているカメラのように固定されている構図が、余計にそう感じさせるのかもしれない。
最初に「退屈そうな」日常と書いたが、最後まで見終えるとその裏側に、ある種の悲哀や絶望感が横たわっていることがわかる。多くの国際映画祭で好評を博すとともに、2010年の第11回NHKアジアフィルムフェスティバルで上映された。
(2012年1月8日)

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