So-net無料ブログ作成
検索選択
エジプト ブログトップ

エジプトで撮られたドキュメンタリー「僕とコプトとマリア様」 [エジプト]

※結末まで書いています
フランス=カタール合作の「僕とコプトとマリア様(The Virgin, the Copts and Me)」(2012)は、Namir Abdel Messeeh監督が、じしんのルーツのあるエジプトに渡って撮った面白ドキュメンタリーだ。第4回になる、MyFrenchFilmFestival(2014年1月17日〜2月17日)で二度観た。
「あんにょんキムチ」や「ディア・ピョンヤン」のように自己のルーツをたどることになる本作は、撮り始めるきっかけの説明からスタートする。ドキュメンタリーの映画監督である青年ナミールは、エジプトから移住してきた両親とパリで育ち、暮らしている。
「1968年の聖母マリアの顕現」を見た!と繰り返して言う母シハムはコプト教徒。「2000年の顕現」の場面を捉えたとされている、とてもボンヤリしたVTRテープを前にしても、自分の眼には聖母の姿がはっきりと見える!と主張して譲らない母に向かって、ついにナミールは、じしんの長編第一作として「聖母マリアの奇跡」をテーマにドキュメンタリー映画を撮る!と宣言した。
そしてナミールは15年ぶりに祖国エジプトへと飛んだ。まずは聖母が何度も現れたとされているカイロ郊外ザイトゥーンの街の教会を訪問。その教会の屋根に、夜空に光り輝くマリアの姿が何度か目撃されたらしい。しかしそこでは、映画製作の許可も協力も得られなかった。
1968年顕現の目撃者を募る新聞広告を出すが、「聖母をみて麻痺の患者が立ち上がった」「当時、ナセル大統領もみたらしい」程度の情報しか集まらず、現地取材はうまく進まない。スカイプのやりとりで母親から、故郷の村にいる私の一族だけは絶対に撮るな!と釘を刺されながらも、ナミールは母の親戚たちに会ってみた。地方の暮らしぶりをそこで知り、母親が、田舎の貧困や無学を恥じていたことがわかってきた。しかし、コプトをテーマとした作品のはずが、展開が親戚訪問記のようになっていくと、ナミールはついにプロデューサーから、降板するとの通達を受けてしまったのだ。
ここから先、わたくしには、監督の母親シハムがこの作品製作にとっての聖母であり、奇跡にみえてしかたなかった。というのも、「クソ映画」と言いつつも、かつてカタール大使館で経理を担当していたというこの母親が、プロデューサー代わりとしてエジプト滞在中のナミール監督のもとまで、すっ飛んできたのだ。
言動がけっこう明け透けな彼女の協力もあって、本作のテーマは「奇跡の再現」と定まった。つまりはヤラセである。親戚たちを顕現目撃の証人役にキャスティング。聖母マリア役は若い女性を対象にオーディションを開催し、カメラテストを繰り返した。
聖母役をロープで吊るして飛ばせる姿を切り取って、背景シーンにはめ込むというCG合成も行う。そのロープを男たちに引っ張らせるところは、まるで素人相手の、特撮のワークショップのようだ。
コプトのアイデンティティ、ルーツ探しのような出だしから、いつの間にかフィクション映画を作るドキュメンタリーになってしまったことで、エンターテイメントの味わいがくっきり付いてきた。監督の母シハムも、馬車に乗ってハンドマイク片手にエキストラ参加を村中に呼びかけるなど、ノリノリで指揮をとっている。
そして再現場面が完成、野外での披露試写会が始まった。映し出されるスクリーンには、夜空を見上げて「聖母様だ!」と叫ぶ群衆のシーンが映しだされる。年寄りから子どもまで、緊迫感ない表情で嬉しそうにみつめる先には、CG合成の聖母が現れる。
村人たちがその試写スクリーンをみつめる視線と、完成作品の中で聖母顕現をみつめるキャストたちの視線がやがて混在してくる。彼らがみている「奇跡」とは果たして、聖母顕現なのか、それとも、手作り映画の待望の完成なのか。いやそれは、いまやそのどちらでもいいような感じになって、重なり合っていく。
繰り返すけれども、わたくしにはこの監督の母親こそ聖母にみえ(ラストのカットにナミール監督と母シハムを見守る聖母らしき姿がちらり写るが)、その彼女の撮影現場への登場によって、本作が奇跡の仕上がりを得たのだと信じたい結末と受け入れた。エジプトで撮ったドキュメンタリーだというのに、ちょうどその時期に民衆が蜂起した「アラブの春」も、エジプト国内少数派であるコプト教徒の差別迫害の問題も出てこない。しかしそのことについて、ほんとうにいい意味で裏切られた。
第62回ベルリン国際映画祭パノラマ部門出品作とのこと。
(2014年2月16日)
nice!(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

16th BIFFから ~ エジプト革命をテーマにした10人の監督のオムニバス [エジプト]

今年の第16回釜山国際映画祭で、観るのを特に楽しみにしていたのがエジプト映画の「18 Days」(2011)。今年5月のカンヌ国際映画祭でお披露目された作品らしいのだが、非暴力の民衆がムバラク政権を倒した、1月の“エジプト革命”をテーマにした、エジプトの10人の監督による10編のオムニバスである。
革命じたい、2011年1月25日のデモから始まり、日々の展開を経て、2月11日には大統領が退陣表明に走るという18日間の短いできごとである。それを題材にして、もう5月には完成しているという、時事に対する素早いアクションには、まず驚いてしまう。エジプト革命についての岩波ブックレットが5月に出版され、すぐに買って読んだわたくしだが、それは日々のウェブニュースを再録したものだったので、この映画の製作は目をみはるスピードである。
観ていて、一部の場面では、デモ風景などの資料映像を活かしているのか、劇として再現したのか、それとも、18日間の革命の間からもう映画のためにカメラを回していたのか、いずれか分かりかねるようなところもあったりするのが、さらに興味を湧かせるところである。
とにかく映画の力はすごい。“9.11”、“SARS”、“3.11”などと危機が起きるたびに、それをテーマに、映画人の才能が終結して、短編オムニバスを生んできた。それらは大傑作とまでは呼べないにしても、社会へ問題を訴求するという、映画の持つ役割は十分に果たしたものである。アラブ諸国の政治の変革については、時がたてば、歴史の視点から、もっと消化されて踏み込んだ作品が作られていくことだろう。逆に今回は、即興的に製作された(だから短編)ものだろうから、作品の質は一様ではなかったという印象はある。
しかし、それ以前に! 10月8日、会場のMegabox Haeundae 4 では、上映前に「申し訳ございません、予定が変わって今回英語字幕はありません」とアナウンスされてしまった。弱ってしまった。アラビア語はさっぱりだし、韓国語字幕も、「1.25」「1.26」といった日付や、「ムバラク」なんかのハングル文字を読むのがせいぜい(それくらいならその前に耳でわかる)。ただし、どの短編も時間の経過が重要で、日付がわかるだけでもありがたかった。作品によっては、十分に理解できていないものがあることを最初にお断りしたうえで、順番に、内容を簡単にご紹介しておきたい。

(1)言葉がわからないため、面白そうなのに内容がつかめないのが悔しくて、いきなり先行き不安となった作品。精神病棟のような地下室に7人ほどの男。テレビが映し出す1月25日のカイロのデモのニュースを見て、それぞれが声を荒げている。手を振りかざして室内で一緒に行進し始めたり。翌日からはテレビはずっと砂嵐状態で、男たちは皆じっと見つめ続ける。そして2月11日、大統領の退陣表明がテレビに流れたときには、全員疲れていびきをかいていた! 「テロリズムとケバブ」(92)が福岡でも上映されているシャリーフ・アラファ監督作。

(2)いつもどおり母親から見送られて出勤。街の通りのコーヒー(ティー?)スタンドで働いている若い娘。実際の民衆デモを撮ったものではないかと思われる映像が交錯して登場し、彼女も行進を扇動する人々に取り囲まれてしまう…。いつの間にか、一緒に拳を突き上げている娘。酔ったような表情で行進に加わり、警官隊と衝突する。彼女も棒で激しく打たれ、気づくと頭から血まみれになっている…。印象に残るラスト。

(3)部屋で目隠しをされた青年が、拷問を受けながら尋問されている。何かを否定しているのか、激しく殴られる。1月26日、27日と時間は経過し、青年は衰弱してしまう。それでも口を割らずに終わる。アラビア語ではさすがに内容はよくわからず。エジプト映画史上最大の予算とオールスターキャストで話題を呼んだ「ヤコービエン・ビルディング」(06)のマルワーン・ハーミド監督による。

(4)この短編はちょっとコミカル。主人公の店の前で、ムバラク支持派と反ムバラク派が対立している。支持派と思われる男は、縄で括られて木からぶら下げられている。反ムバラク派が優勢だ。主人公は、商売のため、民主化を求める旗づくりを始める。集団は、その旗を振り上げて群れをなして歩いていく。

(5)おじいさんが車を運転して、孫の少年と二人で家に帰ろうとしている。途中の道で軍に迂回を命じられる。けれどもどっちにまわっても、道はすべて封鎖状態。夜になってしまい、目の前をデモに参加する人たちが通り過ぎたりして、動けないうちにとうとう翌朝を迎える。二人が目覚めると、それまで道路をせき止めていた戦車がついに動き去ろうとしていた。

(6)分厚い眼鏡の男は、繕いの店をやっているのか、警官から制服の補正を頼まれる。紅茶を入れ、さて仕事に取り掛かろうかとしたとき、店の前が騒がしくなる。催涙弾なのか、噴煙が上がる。慌ててシャッターを下ろし、ラジオのスイッチを入れるが、放送が流れてこない。男はラジカセに言葉を録音することに。店から出られず、その翌日も、翌々日も…。記録レポートなのだろうか、外の事情もわからない彼は毎日しゃべり続け、2月11日、やっと外に出られる。しゃべっている内容はわからないが、おそらく何か勘違いをモチーフにしたコメディ。

(7)貧しそうな若い夫婦の生活。幼い子が二人いるうえ、妻は身重のようである。明らかに生活に困っている。しかし夫は何か仕事にありつけたようで、紙幣を前払いしてもらい、出掛けて行く。浮かれてちょっと豪華な夕食を作った妻は、帰りの遅い夫を探しに行く。街頭のテレビでは、大統領支持派と民主化デモの激しい衝突のニュース。悪い予感。やがて夫は、血まみれになって帰ってくる。金で雇われて、大統領勢力に加担してきたということ。なるほど。

(8)アパートの一室に住む青年。コンピュータのフェイスブックでは、デモ参加の呼び掛けが、絶え間なく入ってくる。携帯で撮った映像もいくつも投稿されている。青年は決して出掛けることはないが、窓越しに見える下の階の若い女性は、毎日プラカードを持って出ていっている。彼女に気がある様子で、煙草を吸いながら悩む青年。やがてコンピュータが繋がらなくなる。窓の外からは人々の呼び掛ける声がする。そして翌朝。向かいの女性の動きに誘われるように、青年は外に出ていく。そして二人は向かい合って…。ちょっとイイ感じのナイーブな作品。

(9)まだ若いが、かなりリッチな生活をしているカップル。ペットを飼っていて、食料もたくさん買い置きしている。夫は政治には興味はなく、デモを伝えるニュースよりも、テレビドラマに熱心である。しかし妻は立ち上がり、デモに参加していく。妻を捜しに出た夫は、デモ隊の渦の中に妻を見つける。そして、勢いに飲まれたのか、ともに拳を突き上げ始める。

(10)床屋を営む男。1月25日、反政府デモが始まる。銃声が上がり、慌てて店のシャッターを下ろす。止まない銃声に、様子をうかがうため、一度シャッターを上げると、負傷した人がいるではないか。招き入れて怪我の処置をしているうちに、次々と怪我人が運び込まれるようになり、床屋は一転して、治療所のようになってしまう! 男は成り行きで医者のまねごとをすることに。頭部の裂傷治療のために散髪をしたり、傷口を縫ったりのくだりがユニーク。そして2月11日が来て、店内は大歓声。18日間開けっぱなしだった店のシャッターをやっと下ろせる日がきた。男の妻は自宅のテレビで、夫が英雄のようにインタビューを受けるニュースをみて、惚れ直す。お腹には赤ちゃんが? これまたすっきりしたイイ話である。

以上、長々と思い出してみた。ムバラク支配の30年が、民衆の力によってわずか18日間でひっくり返ったという“エジプト革命”について、我々のところには、これまで国際ニュースとしては十分に伝わってきたし、体制側と蜂起した民衆の、それぞれ当事者の姿や声はみてきた。けれども、エジプトの普通の人々の目線としては、それほどは届いていなかったと思う。エジプトの歴史が変わる18日間を舞台にしたこのオムニバスドラマは、それを補ってくれるものであり、いろいろとたいへん身になった。アラビア語は全く理解できないというのに、観終わった後は、充実感でいっぱいだった。
(2011年10月29日)

nice!(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:映画

エジプトにもアルジェリアにも、若者たちが輝く恋愛ドラマがある [エジプト]

エジプトの映画はこれまでそれほど多くは観ていないが、エジプトが“アラブのハリウッド”であり、娯楽映画を中心に、他のアラブ諸国にも影響を与えてきたこと程度は知っている。たぶん映画の黄金時代には、B級作も含め量産されていたのだと思うが、近年は産業的にも落ち込みが一時ひどかったと聞いている。今回のアラブ映画祭2008で観た、ムハンマド・ハーン監督作「ヘリオポリスのアパートで」(07)は、今時の若者たちの、ちょっとロマンチックな物語で、展開も雰囲気も甘いといえば甘いが、出来は悪くなく、筆者にとっては珍しくもあって記憶に残る作品である(アンコール・プログラムのアルジェリア映画「インターネットの扉」(04)も国境を越えて共感を呼ぶ、いきいきとしたラブコメディだった)。
「ヘリオポリス-」の主人公の女性は、地方育ちのナグワ、28歳。恋愛に晩熟な様子だが、それは修道女学院の生徒だったころ、尊敬していた女性音楽教師の影響のようだ。その教師は“男女の出会いは運命的なものである”と説いて、学校を解雇されたのだった。ナグワは卒業後もその教師タハーニーと手紙のやりとりで交流を続けていたが、ある時連絡が途絶えてしまい、タハーニーの住所地であるカイロの高級住宅街ヘリオポリスのアパートを訪ねることに。しかしそこにはタハーニーの残した荷物はあるものの、別の人物が住んでいた。
その男ヤヒヤーは投資会社で株取引をやっているエリートでイケメンで、おまけに美人恋人がいて婚姻に拘らない進歩的な関係を続けている。田舎娘のナグワとは、どう見ても不釣合いな感じだ。まあ、そんなナグワとヤヒヤーの間に、タハーニー先生の行方探しの過程で、運命的な恋愛の情が芽生えていく…というところが大筋である。
女と、男と、アパートの前の住人の秘密が絡んでというところから、行定勲監督の「クローズド・ノート」(沢尻エリカと伊勢谷友介)的な展開になるのかしらと途中思ったりもしたけれど、そんな衝撃的な展開にはならず。
都会に出てきて何とも頼りない田舎娘ナグワのことを、初老のタクシー運転手や女子寮の寮長などがたびたび助けてくれるあたりは人情ドラマでもある。一方でナグワの方も、特別にお節介でもなかろうが、自殺願望の少女や駅で産気づいた妊婦を助けたりする。その辺のナグワの映画的な人間臭さと、イケメン男ヤヒヤー自身が感じている、何不自由ない生活にいながらの映画的な人寂しさ。例えば、そのあたりの凸凹を埋め合わせるのが、この映画の主題である運命的な出会いなのかもしれない。
この映画、劇中のラジオのリクエスト曲がポイントのひとつになっているが、最後にクレジットで「永遠の歌姫ライラ・ムラドに捧げる」と出た。筆者には何も知識はないが、きっとアラブ歌謡(=アラブ映画?)の大物なのだろう。今回は映画祭での鑑賞なので、ビデオやDVDと違ってもう一度、頭から繰り返して、ということはできないが、映画の最初のシーンで、修道女学院のタハーニー先生が男女の恋愛を語るときに、有名らしい歌手のことを引き合いに出していたけれども…。ラストのこのクレジットとは関係ないのかもしれないけれど、確認したい気持ちが残っている。
(2008年4月17日)

nice!(0) 
共通テーマ:映画
エジプト ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。