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トルコ映画「Meteors」 [トルコ]

第70回ロカルノ国際映画祭でプレミア上映されたという,トルコ=オランダ映画「Meteors」(2017)は,トルコ・イズミール出身Gürcan Keltek監督の長編第一作だそうだが,ちょっと変わった作品。
全編モノクロで,全体は6つのチャプターから成るが,山中の狩りの風景が望遠で延々と納められたフレームあたりは,何とも実験的。また,兵士たちが進軍していくところは,観ていてまさにドキュメンタリーだ。そして,作品全体の大きな幹となるところは,政府軍とクルドの衝突を描いた真ん中部分のパートになるが,ここでは一人の女性を中心人物iに置き,そのナレーションを全体的に活かしたドラマだ。しかし,そのなかでは村人たちへのインタビューも織り交ぜられていて,社会的,政治的な表現である。演じているのか、リアルなのか…。不思議なパックワーク的構成の最後には,作品題となっている流星が降り注ぎ,幻想的に村のすべてを彩っていく。
さて、全編は一時間半足らずだが,ものすごく短く感じながら観終えた。「あれよあれよという間に」という表現は,こういう時にも使おう。
じつは,モノクロ映像なので,前半から中盤に映される砲火や煙などが,最初は花火なのか何なのか呑み込めずに反芻しながら観てしまっていて,だから最後の流星の雨も,その題名から,正体がじわじわとあとから呑み込めてきた。これが監督の術なのかあ。(2017年9月3日)

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トルコ映画「Nekro」(2015) [トルコ]

トルコ映画の「Nekro」(2015)。
İhsanという、大病院に勤務する用務員の男の常軌を逸した奇行を描いたドラマである。この男、たいへん陰気で仕事もろくにできない。周囲からも馬鹿にされ、つまはじきにされている。
そういう彼が女子更衣室に潜んで看護師たちの私物を勝手にいじるぐらいは序の口で、最大の楽しみは遺体安置室に忍び込むことである。若い女性の全裸の遺体を抱いては、性的な快楽の頂点を味わっているのだ。
その中でもひときわ美しい一体に心を奪われ、墓場から泥だらけの遺体を掘り出してしまった彼は、独り住まいのアパートにそれを連れ帰ってしまう。そして常識外れの、死者との同棲生活が始まるのである。
専門的にはよくわからないが、İhsanは薬のようなもので遺体の手入れを繰り返していて、変色も硬直もあまり進まないようだ。だから美貌を保ったままの遺体を抱き、買ってきたドレスやアクセサリーを付けさせ、真夜中に屋外に連れ出しては二人っきりのデートまでも楽しんでいる。
まあ、もっともよくわからないのが、彼はどうしてそこまでの変態になってしまったのかということだ。この病院にはドラッグ中毒の女性看護師なども登場し、病んでいる病院勤務者の描写には事欠かないのだが、そういう行動が提示されるだけで、作品じたいから心理的な深みはみえてこない。奇人の行動をビジュアル重視で描かれても、ちょっと消化不良。İhsanが異常であることは、不気味なメイクを施すことで、観客に理解させようとしている。
まあ、隣部屋で孤独死があっても、人を監禁していても、なかなか気づかれないような時世で、都会では自分のそばにこういう人物が潜んでいてもおかしくはないし、また逮捕されたとしてもその動機の解明は保証できないことは、極めて現実的なのだが。
本作では、さすがに遺体の異臭も激しくなってきて、İhsanの行動を不審に感じたアパートの大家が警察に通報しようとしたところで、観念した彼は、死、すなわち彼女のいる世界へと向かうことを選択する。これも取って付けたような行動だなあと思う。
Pınar Sinanという女性の監督の長編デビュー作。
(2016年4月7日)



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トルコのインディペンデント映画「Köpek」 [トルコ]

トルコ=スイス映画「Köpek」(2015)は、ボスポラス海峡を見渡せるイスタンブールの街で繰り広げられる3つのドラマで構成された作品だ。どの物語も、朝の始まりから日が暮れるまでの一日の出来事を同時進行で描いていて、いつもどおりの普通の一日のようにして幕が開くものの、すべてがすべて悲劇的な結末を迎える。それぞれのストーリーの登場人物は、物売りの少年、村出身の女性、世間から眉を顰められているトランスジェンダーと、いわゆる社会の弱者ばかりで、ダイナミックな活力を持つ大都会の中では、非力な彼らの存在が否応なしに運命づけられていく。
飲んだくれの父親がいるものだから、学校にも行かずに、警察に追っ払われながらチリ紙を売って歩く少年。スターバックスやマクドナルドが並ぶ街中を巡りながら、母犬に死なれて取り残された一匹の仔犬に出会う。こういう境遇の少年にしか、命の尊さが理解できないという、都会の冷たさ。仔犬を足蹴にする高級居住地区の警備員に我慢ならず、少年はその警備員を刺してしまう。夕暮れにパトカーのサイレンが響き渡る…。
バス運転手をしている夫、8歳ぐらいの娘と、家族三人で平凡に暮らしている主婦。突然の連絡で呼び出された彼女が再会したのは、10年前に故郷の村で付き合っていた恋人。兵役で命を落としたはずの彼がじつは生きていて、彼女の居所をやっと知り当て、出てきたのだという。復縁の申し出を固辞して家に戻った彼女は、他の男性と密会していたことを知って逆上した夫に言い訳を聞き入れてもらえず、一方的に腹を刺されてしまう…。
遠目からみるとスタイル抜群のグラマラスな美女、しかしその正体は、男っぽい顔つきが完全には隠せないトランスジェンダー。街中では美女としてちょっかいをかけられ、または異端な存在として疎ましく扱われている。かつてのボーイフレンドのことが忘れられない彼/彼女は、女性と結婚してしまったその男を追い回すものの復縁はありえず、飲んだくれた挙句、夜の酒場の男たちに暴行を受ける…。
Esen Işık監督という女性監督による第一作だが、ところで、作品の冒頭で故Pippa Bacca氏に捧げるとクレジットされていた。この人物って誰?と、観終わってネット検索した結果、花嫁姿で中東を目指してヒッチハイクの旅に出るというパフォーマンスを試みたイタリア人の女性前衛芸術家で、イスタンブールで消息不明となったのち、トルコ国内で埋められた全裸遺体となって発見されていたことがわかる。イスタンブールでの暮らしでは、ただただ泥だらけになるしかすべがない登場人物たちの人生の暗示が、ここに意図されているのだろうか。
振り返ると、劇中に、このPippa Baccaを思わせる花嫁姿の女性ストリートミュージシャンが、登場人物たちも往来する広場に立って、ギターを手に熱唱している場面があった。行き交う大勢の人々に対して、自分という存在を、一人でもいいからと何とか印象付けようとしているかの如く。
今年2月から3月にかけて開催された第15回ifイスタンブール・インディペンデント映画祭の上映作品のひとつ。
(2016年3月7日)
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20th BIFFから/「Mustang」 [トルコ]

トルコ=仏=独=カタール合作の「Mustang」(2015)を観た。
トルコの海辺の村に住む、はじけるほどに溌剌とした、5人姉妹の想定を越えるみずみずしさに、出だしからノックダウンさせられてしまう。初潮前からお年頃までのティーンの5人の少女たちは、制服を着たまま、下着が透けるのもお構いなく、男子たちと海に入って大いに戯れる。この少女たちは姉妹。両親を失くしているようだ。彼女たちの面倒をみている、トルコの伝統を重んじて厳格な祖母や叔父は、彼女たちの破廉恥な日常を厳しく責め、処女検査を受けさせた挙句、学校にも行かせずに家に閉じ込めてしまう。外との接触を避けて電話もパソコンも外してしまうのだ。そういう状況に陥った5人姉妹の物語が、とくにヤンチャな末娘Laleを軸に描かれる。
しかし彼女たちはめげていない。室内でのじゃれ合いも、ガールズの魅力に満ち溢れている。壁もベッドもピンク一色の部屋はポップで、ホットパンツにタンクトップで、下着までもカラフル。ベランダで肌を焼いたりしちゃう。トルコの自然背景にも負けない鮮やかさだ。
三女がこっそりボーイフレンドと密会するぐらいは当たり前。けれども5人揃って部屋を抜け出して、バスに乗って街へサッカー観戦に行ったのはいいが、応援席で熱狂する姿がテレビ中継に映ってバレてしまい、ついに家には頑丈な門扉や格子などが取り付けられて、少女たち曰く〝牢獄〟のようになってしまう。
最初は、トルコ版「海街Diary」かと観始めたがそうではなかった。トルコの伝統に従って何とか孫娘たちを結婚させたい祖母は、次々に見合いを仕掛け、長女、次女と、顔も合わせたことのないような男の家に嫁がされ、ついに5人姉妹がひとりずつ欠けていく。カラフルな虹から一色ずつ抜けていくような寂しさがスクリーンから伝わってくる。
婚礼についての風習は、レイス・チェリッキ監督の「沈黙の夜」でも描かれているとおり。しかし、大きな抵抗もせず結婚を受け入れた姉たちと違って、三女は自ら死を選んでしまった。次は適齢期を迎えた四女の番だが、こっそり車の運転を覚えていた末娘Laleの機転で、家に残された少女ふたりはイスタンブールへの逃亡を試みるが…。
BIFFの公式カタログに載っているDeniz Gamze Erguven監督のフォトは、女優のように美しい。女性監督らしい題材からも、世界各地の女性映画祭のプログラマーが取り上げたくなるような作品。
(2015年10月25日)

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アジアフォーカス2014「私は彼ではない」 [トルコ]

「私は彼ではない(I'm not him)」(2013)
トルコ/ギリシャ/フランス
タイフン・ピルセリムオウル監督

観る者をひたすら考えさせることに長けている映画は、国際映画祭から好まれ、世界を巡回していくことになるが、本作もそのようなひとつで、おそらく各地を迷わせながら、福岡にまで辿り着いた。問いかけるタイフン・ピルセリムオウル監督は、解釈という、観客が下すそのどのような答えに対しても否定をしないような撮り方をしていて、そういう点での完成形である。
アイデンティティーというものは、他者の関与のなかで確立するもの。都会であっても、まるで無人島で生きるかのように、家族や親友ももたずに孤立したまま人生も折り返すと、誰からも呼ばれない自分の名前がどうだろうと意味は無くなっていき、それを証明することさえも危うくなる。
主人公の二ハットもそのような一人だろう。若い女性同僚から自宅への招待があり、ソファの隣に座るよう誘われたり、目の前でいきなり水着に着替えたりという、およそ現実的ではない展開は、二ハットが彼女に向けて日々送っていた、粘りつくような視線の生み出した妄想だろうか。そして妄想が妄想を生み、自分を彼女の夫役に置いてしまい、果てには彼女の存在を娼婦にまで変えてしまう…。小説「ドグラ・マグラ」の最初と最後に出てくる『ブーンブーン』の音のように響く、始まりと終わりにでてくる留置場の場面の、檻を靴底で打ち続ける『コンコンコン』の音に挟まれた世界が、主人公の脳内を覗いたものではなかろうか。I’m not Himという題は、言い替えれば、私はここにいる自分だということなのだろうか。
(2014年9月28日)


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アジアフォーカス2013/400字レポート ③ 「沈黙の夜」 [トルコ]

アジアフォーカス2013/400字レポート ③
「沈黙の夜」(2012) トルコ レイス・チェリッキ監督

いかにもマニッシュなトルコ男を象徴するような面構えの老年の花婿役イルヤス・サルマンの顔からその自慢の髭を剃ってしまったら、はっきり確認できるのは、大笑いさせられた20年前のトルコ映画「メルセデス、わが愛」の愛すべき悲劇の主人公。(過去に佐藤忠男氏解説のNHKアジア映画劇場でも放映されたが、局の事情から題名は「いとしのハニーちゃん」)。その名優の、14歳の花嫁が初夜のいとなみから身をかわすためにはぐらかそうと持ち出す蛇女の民話やあやとりを真正面から受け止める様には、小娘相手に無理に優しく振舞おうとするトルコ男の滑稽さがある。しかし花嫁も、この老花婿とそう年の変わらないだろう自分の父親の家父長ぶりを身をもって知っていて、花婿が窓の外を気にして時折見せる荒々しさ、また彼が何十年も刑務所暮らしだったことからも、眼の前で紳士的にふるまう男にはきっと裏の顔があるはずだと信じて疑わない。
そういった二人のやりとりが繰り広げられる室内の一晩を、腰を据えて描写する監督レイス・チェリッキの語り口は名匠のそれ。このうえない完成度をもった映画である。一族の名誉に恥じぬ結婚を設定された男と、一族の名誉を背負って嫁ぐ女。祖父と孫ほどの年の差があろうとも、夫婦関係のすべての拠りどころとなるのは、両家の名誉。男にとって真っ白なままで終わる初夜のシーツは不名誉でしかない。まだ少女の花嫁は部屋の灯りを消すことが怖かったし、花婿は名誉をけがすことが怖かった。怖い者同士が饒舌に過ごすが、其の実は沈黙の初夜、そして。昨年の釜山国際映画祭でも上映されていたし、その後の東京では最優秀アジア映画賞を受賞している傑作。
(2013年9月16日)

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アジアフォーカス2012/400字レポート⑨ 「未来へつづく声」 [トルコ]

アジアフォーカス2012/400字レポート⑨
「未来へつづく声」(2011) トルコ オズジャン・アルペル監督

不明になった恋人を捜しにクルド地域に入っていくような作品を観たことがあるが、この作品は大学で民族音楽の研究をしている女性スムルが、アナトリア地方の鎮魂歌を収集するためにイスタンブールから到着するところから始まる。遺族団体から紹介された男性アフメットの協力で、歌だけではなく、クルドの女性の証言を記録したり、村の生活音まで録り始める。大勢が殺害され、また行方不明になった悲劇の現実が浮き彫りになる。スムルは、後になって旅の目的を晒す。それは3年前に姿を消した恋人ハールンのこと。もちろん、良い結末は用意されていないし、彼女はアフメットといい仲になるわけでもない。
劇中で繰り返し出てくる哀歌には、何も字幕は付かない。音に着目しているのだから、しかしそれで十分である。ついでに極論すると、犠牲者の遺族の泣き叫ぶ言葉にも翻訳はあえて要らない。このスムルという女性の集めた音は、そのまま土地の過去の重たい空気を封じ込めているのだから。監督によると架空の存在らしいが、虐殺の資料館が出てくる。けれどもこの悲劇は深い哀しみを歌や証言で描写することに絞り、例えば施設で具体的なものが登場しないようなことが作品の感性を保っている。彼女の集音と並行してビデオを回し始めるアフメットが映画マニアという設定で、彼の部屋にソ連映画の「怒りのキューバ」やユルマズ・ギュネイ監督の「路(Yol)」、黒澤監督の「乱」といったポスターが貼られていることは、おまけ。
(2012年10月25日)

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アジアフォーカス2012/400字レポート①「9月」 [トルコ]

アジアフォーカス2012/400字レポート①
「9月」(2011) トルコ ジェミル・アアジュックオウル監督

ジェミル・アアジュックオウル監督・脚本の、内面の世界を静かに描いた佳作。ボスポラス海峡が背景にちらりと出てくることと、名物の白い酒あたりがなければ、とくにトルコの街が舞台であることも意識することはない。言葉としての説明的なことは省かれていて、ユスフとその妻アスル、またユスフと若い女性エレナ、その両方の関係に絞り込んで、そこに自然と焦点が合う。
画づくりが秀逸である。場面ごとに一点、ひとつの色が主張している。入院している病室であればシーツのブルーだったり、室内ではソファーだったり、調度品だったり。着ている服の色もそう。ひとつひとつのカットの中で、いちいちそれが利いている。その分、人物たちの心は、灰色であるかのようだ。病気を抱えた妻も、その妻を世話する夫も、どちらも希望のない生活を送るしかない。だから言葉少ない。しかし希望がないという点では同じであっても、夫婦は心底からは通わない。その微妙な空気が、若く魅力的な女性エレナと絡むことで、ますます重たく感じられる。
(2012年9月15日)

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16th BIFFから ~ トルコ軍によるクルド弾圧を描いた「MESH(Walking)」 [トルコ]

舞台は1990年、シリアとの国境近くの街Nusaybin。トルコ政府軍はこの地のクルド人たちを抑圧し、ゲリラ活動を取り締まっていた。ここでは子どもたちも売り子や自転車タクシーをして働いている。ガム売りの12歳の少年Cengoと、初老の男Xeliloの出会いからドラマは始まる。
Xeliloは、村人たちから頭がおかしいと思われている。人が咥えているタバコを奪い取ったり、通りを何度も何度も早足で行ったり来たりを繰り返す。偏屈そうな態度で、決して言葉を発しない。この奇行がとても気になるCengoは、Xeliloの後をつけ回すようになる。頭がおかしいのか、それとも自閉症なのか…、Xeliloのふるまいはわがままな子どものようでもある。その彼が川で溺れそうになった子どもを助けたりしたことで、XeliloとCengoら子どもたちは心を通い合わせるようになっていく。
このあたりまでの展開はちょっとコミカルでもあり、人情ドラマ的な味わいもあるのだが、その後物語はだんだんと社会派の様相を強めていく。
ある日、CengoとXeliloは映画を観に行く。かかっているのはユルマズ・ギュネイの映画。と、そこにトルコ軍がやってきてスクリーンに向かって発砲、クルドの村人たちは逃げまどう。そしてその日から急に、村の目抜き通りにはひと気がなくなってしまった。その通りで、Xeliloが唾を吐きかけながら何度も行ったり来たりを繰り返していたのは、トルコ軍の駐留地のすぐ前であったことがわかってくる。兵士の口からタバコを取り上げたことで、蹴りつけられてしまうXelilo。彼には何か過去があるようだが、Cengoにはそれがよくわからない。もちろん我々観客も…。
やがてトルコ軍の抑圧はCengoの家にも及ぶ。役人がやってきてトルコ語を喋ることを強要する。Cengoは父と姉と暮らしている。兄もいるが、その兄はトルコ政府に対して抵抗活動をしており、どうやら軍は兄を追っているようだ。ついにはCengoの父親は撃ち殺されてしまう。
…しかし、被害は少年の父親ひとりだけでは終わらなかった。晩に、家の表の路上に落ちているだろう吸殻を探しに行ったXeliloは、兵士によってあっけなく撃たれる。Xeliloの無残な亡骸は翌朝発見され、集まった少年たちに見守られながら運ばれていく。グッと胸を刺されるようなエンディングである。
第16回釜山国際映画祭のFlash Forward部門10作品の中からは、この、トルコ=ドイツ合作の「MESH(Walking)」(2011)を、10月10日にCGV Centum City 4にて鑑賞した。イラクのクルド出身の新人Shiar Abdi監督の第一作で、釜山がインターナショナル・プレミアだった。
Xeliloというこの男。白い髭を蓄えているから初老と書いたが、口を閉ざしていて何も語らないから素性はわからない。実際、何も言えずに殺されていったクルドの人々は無数。Xeliloが歴史の主人公というわけではないが、彼のようなクルドの人々が住む多くの村落が破壊され、数えきれないほどの命が失われた。そういう事実を訴えている、刺激ある力強い作品だった。
(2011年12月17日)

MESH.JPG

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アジアフォーカス2011/400字レポート③「マジョリティ」 [トルコ]

アジアフォーカス2011/400字レポート ③
「マジョリティ」(10) トルコ セレン・ユジェ監督

自分の親から兵役に行け!と言われるなんて、われわれの生まれ育った環境からはちょっとびっくりするようなことだが、要は精神を鍛え直せということで、そう言いたくもなる21歳の主人公メルトカン(男の中の男という意味で父から名づけられた)のお気楽な日常である。しかし子どものころから、封建的な父親からことある度に叱咤と庇護を繰り返されてきては、ダメなまま成人しても仕方はなかった。少年時代、家政婦に八つ当たりして暴力をふるってきたところからも、それはもう想像できていた。
まだ若いのに腹の肉もシェイプされずデブデブしているようなメルトカンに対して、そんな彼の一体どこが良いのか、積極的に言い寄ってくるキュートな女性ギュルは、彼にとって、“生まれ変わり”の機会を与えてくれる神からの使者のような存在だったのかもしれない。しかし彼は、彼女のアパートに初めて誘われた日、上がり込んでいる間に車上荒らしに遭ってしまい、その夜に心配して掛かってきた彼女からの電話に対して、「さも、心配そうに!」と携帯を投げつける。映画のまだ前半の、そんな最低の行為ひとつからも、彼が“生まれ変わる”機会をみすみす手放すことは容易に想像がついた。
だから、父親が経営する建設会社の現場責任を任せられる終盤の場面になっても、メルトカンは労働者たちに対して激しい八つ当たりをみせている。セレン・ユジェ監督は青年のエゴと弱さを、希望をみせずに描写し、いつもと変わらない父と息子の一家団欒のシーンで結び、最後にタイトル「Majority」をもってきて終わらせる。それは一家にとってはまあ幸せな日常であり、しかしある意味、悪霊を根絶やしできずに終わるホラー映画のように恐ろしくて、音もなく心に迫ってくる結末でもある。エンディングからははみ出すことだが、兵役がこの先彼を変えるとしたら、それも恐いこととわたくしは思う。
(2011年9月19日)

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アジアフォーカス2010試写室レポート:トルコ映画「11時10分前」 [トルコ]

ここ数年のアジアフォーカスでは、トルコの新しい才能がよく紹介されている。この「11時10分前」を撮った新人のペリン・エスメル監督もやがて、いま世界の批評家の注目を集めているイェシム・ウスタオウル監督に続くトルコの女性監督となるだろう。トルコにも、作品主体の映画監督が新星のように生まれてきていることがわかって、うれしい。
映画はちょっと身につまされる話で、収集癖のある者にとっては他人ごとではない。かく云うわたしも、長生きすればだが、1926年生まれというこの主人公ミトハトじいさんのような、独居老人になるのだろうか。(そう思えて仕方がない)。幼児期の絵本、学生時代からの映画雑誌などが詰まったわたしの段ボール箱たちは年々増殖を続けるばかりだが、一体どうなってしまうのだろう。それ以前に、わたしはこれらを将来どうしたくて残そうとしているのだろう…。そんなことまで自問自答させられる作品である。
大都市だからこそ情報が集まり、情報が集まるからこそ過去の記録にこだわることも可能になってくる。孤立したい理由づけとして収集に走るのか、収集熱が高じて孤立してしまうのかはわからないが、極めて都市的で現代的なテーマなのだ。
このミトハトの場合は、1950年からの新聞や、公私にわたっての録音テープなど、そのコレクションはもう常識を超えている。そのために妻は家を出てしまっているし、その妻と1966年にアンカラ=イスタンブール間でやりとりした電話や1960年のトルコ国軍の声明発表の録音テープなどを今だに聴いているのは尋常ではないし、トルコでは宅配ではない新聞の各紙を、ヨボヨボの体で毎日スタンドまで買い歩くのは恐るべき根性である。他にもこだわりの品々を集め続け、“193日間で10分遅れる時計”や“看護婦が失敗した注射器”などを、メモを添えて陳列している。
こう書くと、彼はいったいどんな家に住んでいるのかと思われるだろう。じつは豪勢な一軒家というわけではなく、ごく普通の古い共同住宅の一室である。だから部屋中、半端ないコレクションでびっしりで、一部は地下にも置いている。
他の住民たちは、彼の部屋の荷重や火事を心配していたが、ついには住民会議で「解体して耐震ビルへ建て替え」を決議し、ミトハトを残して全部屋とも出て行ってしまう。一方で、ミトハトは埃アレルギーから喘息を起こし、年も年であるし、体も弱ってくる…。
さて、このミトハト役の老俳優はとても不思議な魅力をまとっている。一般的には普通ではないことを極めて日常的にみせてしまう演技は、本当に収集に狂っている老人を描いたドキュメンタリーではないかと見紛うばかり。主人公の生活のリズムを本当の自分のものかのように見せてしまう点では、中国映画「胡同の理髪師」の主人公老人(自分をモデルにした自分を自分じしんで演じた)にとても近い。
そしてもうひとり重要な登場人物がいる。ミトハトの住むアパートの管理人として働いているアリは、彼よりもずっと若い。故郷に妻や幼い娘を残しているので、アパートが解体されるとなれば転職せざるを得ない。
他の住人が出ていくなかで、彼はミトハトの日々の新聞買い出しや収集物の整理などを手伝うようになる。しかしそれは、ミトハトに雇われてのことである。孤立した生き方を続けてきた老人にとって、他人に気安くお願いはできないから、アリとの間に当然お金を挟む。このへんが人間関係の現実性をうまく捉えた、じつに都会的な表現ではないか。
それぞれが抱える孤独感がそれとなく二人の間をつないでいた。アリはやがて転職せざるを得ないのだが、ミトハトが長年探し求めていた「イスタンブール百科」の第11巻を見つけてそれに対してとった行動によって、そのアリの心が感じられる終わり方がまたよかった。
(2010年8月30日)

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アジアフォーカス2009/400字レポート② 「黒犬、吠える」 [トルコ]

アジアフォーカス2009/400字レポート ②
「黒犬、吠える」(09)トルコ メフメット・バハドゥル・エル監督/マリナ・ゴルバチ監督

イスタンブールが舞台の裏社会もの。夢と野心から、他人のシマを荒らしてしまった二人の若者の悲劇である。ボスから独立してショッピングモールの警備業を獲得したいと主謀するセリムと、その相棒で血の気が多いチャチャは、クライム・ムービーでよくみるコンビ像である。他人の商売に手を出すから、セリムの恋人アイシェが襲われてしまうのも当たり前である。全体的にみて、映画として新奇性はない。
裏の組織とはいっても、香港映画のように公衆の前でバンバン銃撃戦を繰り広げたりはしない。人々の生活のすぐ裏側、駐車場ビジネスのようなところでしっかり息づいているところが怖いところ。そのへんが犯罪グループの現実的な有り様だろう。セリムがスラムの街で鳩を育てているところも、何となく、そうだろうと思ってしまうリアリティのある描写だ。ラスト場面で鳩が舞うのは皮肉である。一日に3万人も足を運ぶというショッピングモールが何度も出てくるが、そのリッチ加減は、転落していくスラムの人間にとってまた皮肉である。
(2009年9月27日)

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アジアフォーカス09試写室レポート:トルコ映画「難民キャンプ」 [トルコ]

連続して観たトルコの「難民キャンプ(Refugee)」(07)と、インドネシアの「虹の兵士たち(The Rainbow Troops)」(08)。前者は“この作品を世界中の難民に捧げる”で始まり、後者は“インドネシアの憲法第31条では、国民にはみな教育を受ける権利がある”と締め括られる。どちらの作品も人権映画祭のプログラムにもなりうるものである。
まずは、レイス・チェリッキ監督の「難民キャンプ」から。チェリッキ監督が描く難民ということで、クルドの物語とばかり思っていたが、それにはとどまらない作品だった…。舞台の大半は、世界各地から亡命者が集まるドイツの難民保護施設である。
トルコ東部、カルス出身のクルドの青年シヴァンがこのキャンプに辿り着いた理由は、本当に災難だった。絵師について故郷の美しい風景を描くことを何よりも楽しみにしていた心優しい彼は、たまたま草原に居合わせたことで、ゲリラ一味が仕組んだ放火の犯人にされてしまったのだ。描いていた絵もテロの計画書に違いないと決めつけられ、警察の厳しい取り調べが続いた。シヴァンは氏族ギヴダンリの末裔で、一族は代々この村を治めている。彼の父シャホは息子を守るため、密航ブローカーを使って、ドイツへと逃がしたのだった。
そして舞台はトルコからドイツへ。戦後復興の目的で、旧西ドイツがトルコからの出稼ぎ労働者を積極的に受け入れてきた経緯もあって、今日では300万人前後のトルコ移民をドイツが抱えていることはよく知られていることだ。例えば、ファティ・アキン監督の「そして、私たちは愛に帰る」(07)は、その両国の実情を背景にして描いた人間ドラマの傑作である。
だが一方で、この「難民キャンプ」は、その移民とは全くの別物である、難民を扱った作品だ。しかしながら、入所した主人公シヴァンのまわりには、ひょっとしたら難民を装った移民希望者が混ざり込んでいるのかもしれない。もちろん何の確証もないし、クルドの村からやってきたシヴァンにとっては、言葉の通じない世界各地からの亡命者たちを見ても、ただ面食らうだけである。
難民条約においては「人種、宗教、国籍、政治的意見やまたは特定の社会集団に属するなどの理由で、自国にいると迫害を受けるか、あるいはその恐れがあるために他国に逃れた人々」が難民の定義であるから、うまく亡命申請が通って居住権を得ることができるよう、施設入所者たちは何とか認めてもらえそうな理由を作り上げようとする。施設には、トルコ、イラン、クルド、ロシア、チェチェン、アフリカと各地から集まってきていて、シヴァンは彼らの嘆きを聞かされたり、時には争いも目にする。
施設の中では、難民という型に自らをあてはめないといけない。クルドとして生きてきた自尊心も希望もすっかり失ってしまい、無口で内気なシヴァンは、無抵抗のままに、ますます闇の中へと迷い込んでしまう。何人かの仲間内のなかで、どうしてかシヴァンの亡命申請だけが却下されてしまう。彼を親切に世話してくれた法廷通訳のドイツ女性は、彼に対する親切があだとなって解雇される…。
世界には、紛争を原因として、納得できない人生を歩き続けなければならない人々がいる。そのためには、それまで生きてきた喜びも、記憶さえもすべて封印しなければならない。
何のいたずらなのだろう、見知らぬ土地に突然放り出されてしまった、クルドの20歳の青年の虚無感が、故郷の村があまりにも美しいだけに、リアルにそして等身大に、チェリッキ監督の手によって浮かび上がる。時折り不安定に揺れるカメラワークが、無意識のうちに事件性を感じさせる。
(2009年8月25日)

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アジアフォーカス08試写室レポート:トルコ・ギリシャ合作映画「天使の墜落」(05) [トルコ]

一度観ている映画であることに気づかずに、もう一度観ることがある。多くの場合、邦題が別に付けられていてそれとは認識できないためだが、3月にイメージフォーラムで観た韓国映画「俺たちの明日」もそうだった。英題が「Boys of Tomorrow」なので、気づきそうなものだけれども…。
このトルコ・ギリシャ合作の「天使の墜落」(セミヒ・カプランオウル監督)もじつは一度観ていた(2005年の釜山国際映画祭がアジア・プレミア)。
この作品の冒頭は、切れないように切れないように糸を引きながら坂道を上っていく女性の、繰り返しのシーンである。この連続がしっかり脳裡に残っていて、すぐに、あの時観たトルコ映画かと思い出した。本当にいい映画は、二度目観てさらにその味わい深さを反芻することになるが、本作もそのような映画である。
ホテルのメイドをしている若い女性の生活。父親と二人暮らしで、昼間の仕事と家事に明け暮れる単調な日々のスケッチが、数少ない台詞とともに綴られていく。父親が彼女にとって抑圧的な存在であることが垣間見えてくる。そして何とも憂鬱な日々の重たさが伝わってくる。
別の町。妻以外の女性と情事を重ねている若い録音技師の男の生活。しかし突然妻が交通事故死してしまい、哀しみに包まれた葬儀を迎える。妻の遺品が結節点となって、物語は再び前段の女性に戻る。残された妻のドレスなどを録音技師から譲り受けた女性は、それを身につけることによって、自らの運命を大きく変えていく…。
独特の空気の、個性強い作品である。ラストシーン、バルコニーに立つこの女性の全裸の後ろ姿が、それまでと違って何となく凛々しく見えてくる…。
しかし傑作とはいえ、この3年も前の作品を映画祭で上映するのは、セミヒ・カプランオウル監督がいま新進の作家で、新作「卵」(08)の方も取り上げられるから。
ということで今年のアジアフォーカスは、幾つかのトルコ映画がパッケージされている。日本におけるトルコ映画の特集上映は、5年前に国立近代美術館フィルムセンターが「トルコ映画の現在」と題して、10作品をプログラムして以来。ヌリ・ビルゲ・ジェイランなどのニューウエイヴが出現してきていた当時と比べて、さらにカプランオウル監督のような野心的なアート作家が増えてきた今のトルコ映画界である。
(2008年9月4日)

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5年前の「トルコ映画の現在」では、ゼキ・デミルクブズ監督やヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督が取り上げられた。

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アジアフォーカス08試写室レポート:トルコ映画「インターナショナル」(06) [トルコ]

いまトルコ映画界で、世界からみた代表的なひとりといえば、たとえばヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督(今年の第61回カンヌ国際映画祭でも最新作「Three Monkeys」で監督賞に輝く)だが、過去に彼の監督作を、福岡のアジアフォーカス、大阪のヨーロッパ映画祭双方が取り上げていることからも、世界におけるトルコの位置づけはふた通りあるようだ。
地理的には、アジアかヨーロッパかという視点と、もうひとつ、旧ソ連に接するということからも、戦後トルコは西側の防波堤という立場もあった。この映画の題名になっている「インターナショナル」(映画は新人スッル・スレイヤ・オンデルと、ムハッレム・ギュルメズの共同監督作品)は、旧ソ連の国歌にもなった、もともとはフランスの労働者の団結・蜂起を高める歌であり、筆者ぐらいの世代だと、中国のロックバンド唐朝の「国際歌」としてなら馴染み深いかもしれない。
映画の背景はトルコが民政に移行する直前、軍によって治められていた1980年代の前半。反体制的と判断される楽曲の演奏や歌唱が禁止されたにもかかわらず、大きな誤解からこの革命歌「インターナショナル」を演奏してしまった民衆の悲劇を、とても滑稽に描いた秀作である。
女装をしたりして歌い踊って結婚式などで小銭を稼いでいる余興芸人たちは、軍によって取り締まられて、市民オーケストラとして再出発することになった。軍に所属する楽団として式典などに出向いて演奏するわけである。そのひとり、指揮者を務めるアブゼルは妻を早くに亡くし、一人娘ギュレンダムを男手で育てていた。年ごろとなった彼女は、革命家をめざす学生ハイダルに惚れて、彼の思想に感化されていく。ハイダルから借りた「インターナショナル」のレコードを繰り返し部屋で流していたある日、父アブゼルからこれは何の曲だと尋ねられ、彼女はモーツァルトに並ぶクラシックの名曲だとついつい答えてしまう。アブゼルの耳にはいいメロディだとそれが残って、これをアレンジして評議会議長の歓迎セレモニーで演奏することを思いつく。しかしそれはとんでもないことで、この演奏を軍幹部が左翼の陰謀だとみなすことは、物語の結末を追っていく観客にとっても明白なことなのである…。
ただ平和に音楽を楽しみたいだけで、政治の主義思想とは縁も何もない庶民たちが、異分子を許さない挙国一致の空気にのみ込まれていく有り様を父と娘の関係を軸に描いているが、全体的には明るくて楽しめるドラマである。ただし結末にはちょっとだけピリリとした刺激がある。
(2008年8月7日)

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