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20th BIFFから/「Dark in the White Light」 [スリランカ]

人の生と死に関しては、誰だって夜も眠れないほどにその真実について考えを巡らせて悩んだ日があったと思う。これは、そういう気持ちが作品全体に浮遊している、謎めいたアートフィルム。複層的な物語構成の中には、その説明も台詞も少なくて、理解には、冒頭で剃髪している青年、要所で描かれる修行中の彼のモノローグに依るところが大きいが、彼は子どもの頃から死を怖れ、その疑問から医学生となった、しかしそこで身体については学んだものの、死のもつ意味については依然わからない。自殺未遂の果てに、仏門に入ったのだという。
しかし物語は、どうも闇で腎臓売買をやっていると思われる中年医師の断片的な行動が、そのほとんどである。痩せたスキンヘッドのこの医師は、お抱え運転手に夜な夜な車を走らせては、女性を車中で犯したり、酔いつぶれたりと、会話は一切ないが、捨て鉢な生き方をしていることがみてとれる。運転手も感情が読み取れず、その行動だけが異様に写る。
駄洒落になってしまうが、瞑想と迷走が二重写しになっているよう。とうとう中年医師は、臓器ブローカーの男に掘らせた林中の穴に飛び込むと焼身自殺を遂げてしまう。突然の医師の行動に驚いて山から慌てて下りてくるブローカーの車が修行僧のそばを横切るところが、静かなふたつの世界の、唯一の接点。
僕には、作品中に印象に残った、ふたつの自然現象の場面がある。ひとつは物語が始まる前の、冒頭の波打ち際の岩場の風景。乾いた岩場にザーンザーンと波の音が聞こえてきて、一瞬で岩の隙間に水が溜まっていく。もうひとつはブローカーの車が修行僧の傍らを横切る、ラスト近くの山道の俯瞰の遠景。それまで晴れていたのに、山から麓へと日影の線が、走るように下りてきて、一瞬で曇天となる。
これら、マジックのような自然の瞬間は、一体何を暗示しているのだろうか。これこそ、監督の死生観なのではなかろうか。生について、死については不眠症になってしまう僕にとっては、本作は謎だらけである。終わり頃はこれ、何だろう、犬の吠え声が何度も響く。この謎の出題は、Vimukthi Jayasundara監督から。スリランカ=フランス合作で、作品名は「Dark in the White Light」(2015)。
(2015年10月20日)




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17th BIFFから/リンタン・セーマゲー監督の最新作「Nil」 [スリランカ]

クレジットではスリランカと米国の合作になっている映画「Nil」(2012)の、第17回釜山国際映画祭でのワールドプレミアを観た(10月6日:Lotte Cinema Centumcity 7)。脚本・監督、そして主演はリンタン・セーマゲー。ああ懐かしい名前だなあ。製作・脚本・主演も務めた監督作「スリ」や、役者としての出演作「白い影」の上映にあわせて、2002年のアジアフォーカスで来福している。舞台俳優出身だと言われていて、とても芸術家肌の人物だったと記憶している。釜山の映画祭カタログの監督プロフィールでは、今は米国で生活していると書かれている。
この最新作は、また随分と芸術志向の強い作品である。ナレーションが付いて始まるので上映事故でないことは明らかなのだが、出だしの、映像アートのような、男が見え隠れする沿岸の風景場面は現場の音もなくまったくの無音である。それが街のストリートに変わった途端、復旧したかのように音楽が中途半端な感じで入り出す。
あとからわかるが、このスリランカ人の男の名はKumara。リンタン・セーマゲー監督じしんが演じている。正面からのカットが多く、相当に芝居じみた舞台劇のようなやりとりを、彼は出会う人々と繰り返す。“イングリッシュマン・イン・NY”じゃなくて“スリランカン・イン・USA”といった感じだ。詩のような言葉も多く、自分じしんに酔ったような作りには少々参る。しかし、作品に刻まれたメッセージは肉太で、やや説明的だが、現在と過去に映像は自由に行き交う。
最後まで観終えれば、この作品の全体的な計算高さがわかり、すべてはおおむね理解できる。ジャーナリストである男は政治的な理由から命を狙われ、祖国に家族を残して米国に来ている。5年も会っていない子どもから、赤いリボンが届く。それを伸ばすと成長した子の身長と同じ長さになるのだという。望郷の想いを募らせるKumaraの心はもう絶望的な状況に置かれており、“いる風景”と“いない風景”、“在”と“不在”が比喩比較され、やがては彼じしんの不在も暗示していく。
ラストになって冒頭と同じ場面に戻る。そこでやっと最初にみせられた光景の意味が、じんわりとわかってくる。スリランカにいては殺されてしまうKumara、一方で家族なしでは生きられないKumara、彼はいるのかいないのか、いたのかいなかったのか、そこに横たわる男の体は、白い布で覆われている。
実際にあった話なのだそうだが、実話に基づいたその究極の問いかけに対し、リンタン・セーマゲー監督は自作自演の力をもって映像で答えを返した。いや、年頃の娘役や息子役はセーマゲー姓なのだが、一家でステージプレイのようなパフォーマンスで演じたのだろうか。
(2012年10月31日)


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アジアフォーカス2012/400字レポート② 「やさしい女」 [スリランカ]

アジアフォーカス2012/400字レポート②
「やさしい女」(2012) スリランカ・インド プラサンナ・ヴィタナゲー監督

夫と妻、それぞれが、冷静な口調で回想する。そう聞こえるのは、映像が寒色でコーディネートされているからかもしれない。服にスカーフ、タオルにカーテン、扉の色も青っぽいし、白い壁までも何となく青く映る。不幸な境遇のタミルの女性を、金貸しの立場を利用するかのようにして娶った、質屋の男はちょっとマニッシュに見える。バイクライダーで、シーナやビッグショーによるWWEのプロレスを黙ってテレビ観戦しているからだ。しかし実際は、彼はかつて軍にいて、タミル人を弾圧する立場だったという過去を言えないところから、頑固というか口数少なく、無愛想にも見えるのだ。彼は、彼女に惹かれていると同時に懺悔の念を抱いていて、彼女を愛することで過去を清算することも望んでいて、けれども彼女が自分との間に感じている壁を二人して乗り越えることができるという強い確信は持っていない。じっさいに、彼女がくだす結末には赦しがない。
タミルとシンハラの民族対立を背景にはしていても、大きなサイズの物語ではない。具体的に衝突するような流血の場面があるわけでもない。けれど夫と妻それぞれの経験が、個々の心の中に蔓延っていて、だから絶対的な恋愛で心を温めることのできない、冷たい世界がこの映画では最後まで残される。ふたりそれぞれの冷静な振り返りが、民族対立に希望を見出せない現実を浮き彫りにしている。そして、わたくしはその映像に哀しく酔う。
下敷きになっているのはドストエフスキーの短編小説で、ヴィターナゲー監督によると、インドのマニ・コウル監督も映画化しているそうだ。
(2012年10月14日)

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16th BIFFから ~ New Currents部門のスリランカ映画「August Drizzle」 [スリランカ]

ひとつずつ、第16回釜山国際映画祭で観た作品を順に振り返ってきた。まだここで触れていないものがいくつかあるが、それは、心にあまり響かなかった作品が最後まで残ってしまったということ。
New Currents部門は、アジアの新進の監督の作品なので、正直言うと、当たり外れがある。10月10日にBusan Cinema Center Cinema 2で観た、Aruna Jayawardana監督・脚本のスリランカ映画「August Drizzle」(2011)も、じつはそう。
特別感謝としてプラサンナ・ヴィターナゲーの名が出てくるこのアート作品は、主人公の、中年にさしかかった女性Samalathaの日々を描いたものである。老いた母親から「お前が未婚なのが心残り」と言われているSamalathaは、いわゆる普通のスリランカ女性ではない。二人の男のアシスタントを抱え、田舎の農村で葬儀屋を経営している、キャリアウーマンなのである。
助手の男Piyasiriが墓穴を掘り、Samalathaが棺桶の中の白装束の仏さんの指を組ませて手を縛る。そして葬儀。作品に出てくるスリランカのおくりびと的な様式は、まずはたいへんに興味深く眼に映る。
仕事中心にみえる彼女は、しかし恋愛願望があるようで、新聞の結婚相手紹介欄をこっそりと見たりもしている。一方で助手Piyasiriは、毒蛇に咬まれて死んだ女性の葬儀を挙げた縁で、その女性の娘とデキてしまう。二人の様子をみるSamalathaの眼には、明らかに嫉妬がある。普段は仏さんを運ぶ車の後部シートで、Piyasiriと娘は求め合い、そして娘は身籠る。一台のバンの役割が、象徴的に描かれてちょっとおもしろい。
もう一人の助手の男は、彼女が建設を計画する葬祭場の設計を担当している。Piyasiriの結婚式が終わった夜、Samalathaは、この設計担当の男を連れ出して誘惑しようとする、欲深い夢をみてしまう。
だが、物話としては、恋愛感情とは別の次元で展開し、悲劇を迎える。Samalathaの事業は村の役人によって妨害され、最後に彼女は殺されてしまう。彼女が夢みていた葬祭場は完成するというのに。このメインとなるドラマ運びじたいは単純で、よく練られていないようにみえた。
しかし葬儀屋としての日常、たとえば、身籠った娘が象に襲われて死んでしまい、胎児用の小さな棺桶まで用意されたりというような場面とか、前述の一台のバンの役割など、生と死が交わり合うような場面には、ハッとさせられたりしたのだけれど。
同じ日の夜に同じ劇場で、New Currents部門の中国映画も観たのだが、これが、ご勘弁くださいと言いたくなるくらいにつらかった。Gao Zipeng(高子鵬)監督の「Lost in the Mountain(空山軼)」(2011)のことである。
昨今の時流なので、BIFFも16回目となると、HD、Digi Beta、D-Cinemaといったデジタル作品が主流と思えるくらいに目立った。アジアの新進部門となると、低予算作品のために特にそう感じる。
この中国映画で、つまらなさに拍車をかけたのが、英語字幕の文字のあまりの小ささである! 劇場後方からだと、右縦に付くハングル字幕を視力表0.1の大文字に例えて比較すると、下に横に付く英語のそれは、もう視力表1.5の小文字といったところなのである。あまりに小さすぎて読めない! 眼を凝らして、そこだけを集中して見つめていると、視野には入っていても、肝心の絵は見えてこないし。
半年前に失踪した仲間を、4人の男女が探しに山に登る話である。引きの絵ばかりで、同じような服装で、誰が誰だか区別がつかない。始まって15分までに、わたくしの席の周囲の外国人たちが何人も続けて、フーッとため息をつきながら退場していった。
季節は冬にさしかかる頃らしく、ふもとの炭鉱町の風景は冷たい。4人は学生時代の仲間らしく、廃墟を巡りながら登っていく。カメラはまるで記録映画かのように、人よりも風景をえらく丹念に撮っている。いまは2世帯しか残っていないという集落。途中の家で休ませてもらい、夜は火を囲んで歌を歌う。4人は、青春時代からはもう時間が経ってしまい、いまはそれぞれの胸に、封じ込められた想いがあるようである…。
最後まで頑張って観たが、この作品が抱く哲学はとうとうみつけられなかった。けれどもそれは英字幕の小ささのためでは、決してない。たとえばフィリピン映画の「Fable of the Fish」などは、読みにくくても、十分に伝わったし。
(2011年12月29日)

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民族融和を訴える映画「The Road from Elephant Pass」 [スリランカ]

7月26日にNHK・BS1で放送された「クロスロードアジア」の街角レポートのコーナーから。「民族対立を越えて」というタイトルで、スリランカで話題の映画を紹介していた。チャンドラン・ラットナム監督の「The Road from Elephant Pass」である。
四半世紀以上にわたるシンハラ人と少数派タミル人の民族対立による激しい内戦は、昨年2009年5月にLTTEの完全制圧により終結したばかりだが、映画では、分離独立を目指すタミル人武装勢力とスリランカ政府との間で闘争が繰り返され、まだまだ緊張の最中にある。物語はスリランカ最北端のタミル人武装勢力の拠点、“象の小道”と呼ばれるところから始まる。検問所で、軍の兵士がひとりのタミル人の若い女性を尋問している。武装勢力の重要な情報を持っていると申し立てるため、兵士はこの女性を連行することにしたが、二人はその後、続く戦いの渦に巻き込まれてしまう。タミルの女性とシンハラの兵士は、戦乱から切り抜けるために協力し合うことで、いつしか恋に落ちていく…。
番組で紹介された場面から。
女性「タミル人はテロリストという政府の言い分を信じるの? あなたの考えを聞かせて」
兵士「タミル人は皆テロリストだと思っている。攻撃されたら、村ごと焼き討ちしてやる」
女性「あなたは一体、誰と戦っているの?」
このように最初は敵対していた二人も、9日間の旅を続けていくうちに、互いを思いやるようになっていく。なんとか二人は政府軍の拠点に辿り着くのだが、そこで重要な情報を持っているという女性の話は嘘だったことが判明する。しかし兵士は上官の前で彼女をかばい、ついにタミルの女性はカナダに移住できることになる。
スリランカで7年前に発表されてベストセラーとなり、文学賞も受賞した故ニハル・デ・シルバ氏の同名小説の映画化だそうだ。ラットナム監督が映画化の版権をとって準備を始めた矢先に、原作者シルバ氏はタミル側の地雷によって命を落としたのだという。何という巡り合わせなのだろう。
しかしもちろん、国内の混乱がまだまだ続く中で映画は製作された。しかしそして結果的に、劇場公開は内戦終結直後という絶好のタイミングとなり、大ヒットに繋がっていくための話題も大きく集めた。民族対立のために家族を失ったという悲しみを経験している国民も多い。そのなかでこの作品に批判的な人も当然いただろうが、民族の壁をなくし、憎しみを捨て、心をひとつにしようというメッセージが、恋愛ドラマという形をとっていることもあって、大衆にも受け入れられやすかったのだろう。
原作とは、エンディングが異なるらしい。タミルの女性は報復を恐れてシンハラの兵士と結ばれることを拒み、兵士は戦いの中で命を落としてしまう…という小説での結末を、映画では、兵士も女性とともにカナダに渡って二人で幸せに暮らす、という終わり方に変えたそうだ。そこにはラットナム監督の、過去にとらわれず未来に向かっていきたいという、強い願いがあったのだと思う。二人は一緒に暮らしました。などと文章で書いてしまうと、ずいぶん甘ったるく見えるかもしれないが、スリランカには今、これくらいポジティブな姿勢、考え方が必要なのだろう。

※ あとで知ったが、この「The Road from Elephant Pass」は、第82回米国アカデミー賞外国語映画賞のスリランカ代表作品。

(2010年8月3日)

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アジアフォーカス2009/400字レポート⑨「マチャン/大脱走」 [スリランカ]

アジアフォーカス2009/400字レポート⑨
「マチャン/大脱走」(08)スリランカ・独・伊 ウベルト・パゾリーニ監督

今年のアジアフォーカス上映作品では、実際の話やできごとを映画化したものとして、ダン・ニャット・ミン監督作品やレオン・ダイ監督作品があったが、本作もそのひとつである。ハンドボールのスリランカ代表チームと偽って、まんまとドイツに入国してしまった、コロンボの出稼ぎ希望者たちのサクセスをコメディ劇というアプローチで、イタリア人監督が撮ったものだ。アジアの社会問題や歴史的事件などを、欧米(非アジア)の作家がドキュメンタリーとして撮るという例はよくある。しかし今回はコメディのドラマという形で、フィルムメーカー側のセンスもよく活かされた。なかなかの出来である。ラジニカーントが流行って日本でもインド映画ブーム真っ最中のとき、インドの映画スタッフと偽った集団が日本に潜り込むという事件が起きて、その後、ビザ発給が厳しくなるということがあった。この「マチャン」も、まあそれと似たような悪巧みである。
前半はニセチーム結成までのごたごたが描かれる。監督や専属医師も入れて16名。人数を揃えたり、ユニフォームを作ったり、公的書類の偽造がうまくいくか、そういうところにハラハラさせられてしまい、これが国際犯罪だという意識も、観ていてすっかり失せてしまう。奇跡的にドイツ入国を成し遂げると、早速、試合が待っている。このイカサマ劇をもともと考え出したのは、ホテルボーイのマノージュと果物売りのスタンリーの二人。しかし出発直前にマノージュは旅のメンバーから下りてしまった。ルールを勉強してきた相棒(マチャン)を失ったスタンリー。国際大会で、初めてハンドボールをする彼らが勝てるはずもない。もちろん、初戦から72対0、51対0。しかし三試合目で14対1と、ついに1点を奪ったころには、またまた、彼らが犯罪者であることを忘れてしまっていた。2004年9月13日に、彼らは実際に姿をくらまし、いまだに捕まっていないという説明が最後に出てくる。製作者のねらいがこの事件の話で笑わせたかったのならば、成功である。社会背景は深刻なものであるので、笑っておけばいいということではないが、笑うしかなかった。彼らを通して笑ったのは、こんなペテンを成立させてしまった、お粗末な世の中の隙間である。
(2009年10月12日)


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スリランカの雄、プラサンナ・ヴィターナゲー監督の5年ぶりの新作 [スリランカ]

これまでに刻んできたフィルモグラフィーが、そのままアジアフォーカスの歴史と重なる映画監督がいる。たとえばイランのマジド・マジディ監督あたりがそうだが、プラサンナ・ヴィターナゲー監督もそのひとりである。スリランカの中堅監督としては国際的に傑出しており、監督第二作「心の闇」(96)から引き続いて「城壁」(97)「灼熱の日々」(03)と福岡映画祭で取り上げられ、そのことが縁となってNHKが出資した監督作「満月の日の死」(97)もあって、日本においては現在のスリランカ映画界の代表格として知られている(日本未公開ではあるがデビュー作「Sisila Gini Gani」(92)もなかなか良い)。
そのヴィターナゲー監督の5年ぶりとなる最新作「Flowers of the Sky」(08)が、2007年のPPPプロジェクトだったこともあって、今年の第13回釜山国際映画祭でワールド・プレミアされた(10月5日/Primus Haeundae 4にて鑑賞)。この最新作には、特に福岡映画祭におけるスリランカ映画ウォッチャーにとっていくつかの見どころがある。まずスリランカのレジェンド女優マーリニー・フォンセーカが主演であること。近年も巨匠レスター・ジェームス・ピーリス監督作「湖畔の邸宅」(02)や「母」(06)で活躍しており、来福もされている。その大女優が今回、元大女優役を演じているのである。
それから、エグゼクティブ・プロデューサーがニンミ・ハラスガマであること。ヴィターナゲー監督の前作「灼熱の日々」の主演女優だった彼女は英国籍で、スリランカ・英国の両方で活動している。「灼熱の日々」上映時にはやはり来福されているが、その後は2005年に日本でも公開されたオリビア・ハッセー主演「マザー・テレサ」に出演して以降の近況は知らなかった。もちろん今回、女優としてもマーリニーと共演し、筆者のイメージを覆す役柄にも意欲的に取り組んでいる(以下、物語の結末に触れています)。
ヴィターナゲー監督はその劇作の中で、この二大女優の役柄の運命の糸を、まるで人形師のように巧みに操る。マーリニー・フォンセーカ演じるRaniは、引退した元大女優だ。いまやひっそりと森の中の一軒家に住んでいる。その彼女の後輩女優が男優と不倫スキャンダルを起こしたことでテレビ番組に穴があくというトラブルが生じ、緊急に元大女優Ramiをスタジオに招いてトークショーを放送することで事無きを得る(このトークショーで使われている映像は、実際のマーリニーの若き頃の映画が一部のようだ)。これで再び人気に火が付いてしまったRamiは20年ぶりにテレビドラマに駆り出されることになる。
一方、ニンミ演じる若い娘Priyaはバーで働いている。奔放で自虐的な生き方のなかで妊娠したとき、Priyaは自分の体がHIVに侵されていることがわかる。中絶手術をドタキャンした彼女は子を産もうと考えるが、同時にそれは親のエゴではないかとも思い、悩む。
大女優Ramiと若い娘Priyaのふたつの物語が交錯していく。Priyaは、当時人気絶頂期のRamiが照明スタッフとの間に作った子で、スキャンダルから逃れるために見捨てたのだった…。そしてその娘がいままた子どもを生まんとしている。RamiはPriyaの行方を捜す。Priyaが書き残した、母親あての手紙が人づてにRamiの手に渡ったときには、もうPriyaはこの世にはなく、しかし新たな命が誕生していた…。
因果があり、憎悪があり、許しがあり、母と娘の絆は切ろうとしても切れない。その母娘の関係の綾が運命的に描かれている。
◇       ◇       ◇       ◇       ◇
さて、本作オープニングのタイトルバックはソフトフォーカスになっているが、どうも男女の絡みに見える。この出だしをぼんやりと眺めていて、そういえば…と思い出した作品があるのでついでに記す。2年前にインドの第11回ケーララ国際映画祭でものすごいスリランカ映画を観た。「Scent of the Lotus Pond」(03)という作品である。愛と嫉妬の映画だったが、非常に大胆な性描写、特に主人公の貧しい女工の積極的なそれ(兵士をレイプしている?)に、スリランカ映画の表現としてはあまりにも過激に感じてビックリした。そのときビックリさせられた女優Kaushalya Fernandoが、この「Flowers of the Sky」にも出ていて、よりはっきりと思い出した次第である(ちなみに「Flowers of the Sky」にはそのような描写は一切ありません)。
(2008年10月26日)

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