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18th BIFFから/心理とその葛藤に切り込んだ「Mirror without Reflection」 [タジキスタン]

※ 結末にふれています

第10回NHKアジア・フィルム・フェスティバルで紹介された、タジキスタン映画「トゥルー・ヌーン」のNosir Saidov監督の最新作「Mirror without Reflection」(2013)のワールド・プレミアを、10月7日にCGV Centum City 3で観た。
「トゥルー・ヌーン」が、ソ連崩壊前のタジクの山あいの村を舞台に置いたローカル色あふれるものだったのとは対照的に、この最新作は人間の心理とその葛藤に切り込んだものであり、その背景に特別の地域性はなく、そこは見知らぬ同士が暮らす都会である。日本の「そして父になる」と遠く離れた中東の「もうひとりの息子」の間で近似の主題が見出せるように、「Mirror without Reflection」もまた、世界で共有できるドラマとして語られている。本作に原作があるのかどうかは不勉強だが、そこからは罪人に対する憐みの眼差しが感じられ、ロシア文学の潮流にあるかのような物語だ。
出だしから、孤児として育った青年Romishと、仕事熱心な溶接工の父に男手ひとつで育てられた青年Shahzodの様子が、交互に描かれていく。
Romishは心筋症で余命数ヶ月、NGOのケースワーカーからは心臓移殖が必要と言われている。日ごとに増してくる苦しみに対して自暴自棄になっていて、銃を振りかざすチンピラ仲間とつるんでいる。一方のShahzodは父親と睦まじく暮らしている。デートを重ねてきたフィアンセを父親に紹介し、結婚もまもなく秒読み段階である。
ここまで対比されてきたその青年ふたりが偶然に交錯するのは、夜の街。肩が触れたことで口論になり、Romishの構えた銃から放たれた弾が、思いがけずShahzodの命を奪ってしまった。起こした事の重大さに恐ろしくなり、Romishはその場から逃げてしまう。
現場に急行した救急車をたまたま見かけたShahzodの父親は、我が子に起こった悲劇をその場で知ってしまって激しく動転する。観ていてとてもつらく、いたたまれない場面だ。担ぎ込まれた病院で、父親は脳死状態のShahzodの心臓をドナーとして移殖提供してはどうかと担当医からとどめのひと言を進言される…。
ここから先、父親とRomishがそれぞれどのような運命に身を置くことになるのかは、観客がすでに見抜いているとおりで、皮肉にも、被害者Shahzodの心臓が、加害者Romishに移殖されるのである。
手術は無事に終わり、逃走した犯人を捜し出したい気持ちの一方で、息子の体の一部を受け継いだ同い年ぐらいの青年Romishに対して、父親の関心が静かに少しずつ向けられていく。息子を失い失意のどん底にあった父親の愛情は、そのままRomishへと注がれる。一緒に食事をしたり、釣りに行ったり、まるで実の親子のような親密な交流が積み重ねられていく。このように幸せな関係が築かれていくのは、父親がRomishに対して息子の死因も顔写真一枚すらも明らかにしていないため、またRomishもそれを求めようとしないため、互いに被害者の親であること、加害者であることを知らないからに他ならない。
やがてRomishは家に泊まって帰るようになる。眠っている彼の胸の鼓動を、耳を押しあてて聴き、父親は嬉しそうな表情をみせる。…ついに、一緒に暮らそうと父親が切り出す。
しかし観客は、この関係がいつか破綻することがわかっている。そして、その日が突然くる…。息子Shahzodの写ったフォトスタンドを偶然に見つけたRomishは、そこで事実のすべてを知ることになるのだ! 何も言えず、黙って父親の胸に泣き崩れていく場面が、本作のなかでも最も感動的で美しい。そう感じてしまうのは、わたくしがこの若き罪人を赦してしまっているからなのだろう。そう思ってしまうと、父親がRomishの罪を知りながらも、赦しの気持ちをみせる終わり方は受入れられる。
Romishの収監された刑務所を訪れ、差し入れを差し出した父親は、どちら様?と訊かれ、父親だと答えるのである。それは、心臓という臓器が、自分の血を受け継いでいるというような意味ではない。
この作品は、我が子を愛しているすべての父親に捧げられている。
(2013年12月7日)

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アジアフォーカス2010/400字レポート⑫「トゥルー・ヌーン」 [タジキスタン]

アジアフォーカス2010/400字レポート⑫
「トゥルー・ヌーン」(09)タジキスタン ノシール・サイードフ監督

時代としてはソ連解体の直前だろう、タジキスタンとウズベキスタンの境に突如、鉄条網が張られることになる。舞台となる山岳地帯のふたつの村では、いきなり往来ができなくなってしまい、上の村の娘と下の村の青年の婚礼が二日後に予定どおりできるのかという話である。
登場するのは善良な人物ばかりなので観ていて共感は得られるが、同じ境界ものでも、イスラエルに占領された旧シリア領ゴラン高原の境界線を描いた「シリアの花嫁」(イスラエル映画)や、イスラエルとの国境を舞台としたレバノン映画「ラミアの白い凧」などと比べると、どうしても対立の関係や政治的な緊張の状況が背景としてみえてこないだけに、本作で後半になって出てくる地雷の存在がちょっと唐突でもある。厳しい監視兵が張り付いているわけではないし、50キロ離れているというのはさすがに遠いが、検問所を通れば往き来はできるらしいし、ひかれた“国境線”の説明が、兵士による“上からの命令”というだけで、それに対して意地で結婚式を決行するというのでは、物語がちょっとシンプルすぎる気もするが…。何も知りえない村人たちの考えは甘かったというのが現実なのか。
深刻でない場面から、タジキスタンらしい空気は十分味わえた。善良な人々と書いたが、花嫁になる年頃の娘ニルファが、自分の両親(母親は娘の婚礼前にニルファの弟を出産する!)がイチャついているところを垣間見てほくそ笑むその表情は、日本映画では絶対にお目にかかれない、とても自然でいい顔なのである。「コシュ・バ・コシュ」や「ルナ・パパ」も観ているが、それだけがタジキスタンではないということを教えてくれた作品。
(2010年10月29日)

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