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21st BIFFから/ニューカレンツ部門の「Someone to Talk to(一句頂一萬句)」 [中国]

THHAD配備問題の中での中国映画の上映。2016年10月10日。ニューカレンツ部門にノミネートされていた、中国=香港の合作「Someone to Talk to(一句頂一萬句)」(2016)の上映前に紹介を受けて登壇したのは、ドレスアップした若く美しい女性。Liu Yulin監督なのだと紹介された。簡単な挨拶の後に観客と一緒に作品を観るということで、僕のすぐ後方の席に座られたが、たまたま空いていた僕の隣席を映画祭の公式カメラマンが占領し、身をよじらせてバシャバシャと撮るので、女優も兼ねているのかしらと思ってしまう。さすがに映画本編が始まると、迷惑な撮影行為はおさまった。
長編第一作とのことだが、若い監督にしては男女の関係性の重さ加減を知り尽くしたような描写力を備えた、いい作品だ。中国の地方都市が舞台だが、現代どこの国でも見つけられそうな、二組の男女が対比的に登場する。靴の修理工をしている夫Aiguoと製糸工場で働く妻Linaには祝福されて結婚した10年前の仲睦まじさはもはやなく、幼娘も心配するほど。妻が愛人をつくって家庭を顧みなくなってしまったからで、まるで父子家庭のようになっている。そこに出入りしてくれているのが、通りで屋台を営んでいる未婚の、夫の姉。その姉はコックをしている男やもめと親しくなり、人生も折り返しを過ぎた中年期らしいお付き合いを始める。
夫Aiguoは刃物を忍ばせて妻の跡を追うほどのギリギリの状態に陥るが、最終的には未来に向けての決心をする。そこには、並行して描かれる姉たち中年カップルが自分らの再生のためにゆっくりと回し始める歯車が、動力源になっているようにも感じられるのだ。
あとで知ったが本作は、馮小剛監督からも映画化されるような、中国のベストセラー作家の小説を原作としていて、Liu Yulin監督はその作家の娘なのだそうだ。
(2016年12月12日)

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アジアフォーカス2013/400字レポート ⑨ 「夢にかける女」 [中国]

アジアフォーカス2013/400字レポート ⑨
「夢にかける女」(2012) イギリス中国 コンラッド・クラーク監督

いつからだろうか、我々にとって馴染みのあまりないような海外の土地にまでも日本人が住んでいて、そこで相当な努力をして困難を乗り越え、ユニークな活動や変わった仕事をして生活しているその姿を追うテレビ番組をよく見かけるようになった。えっ、こんなところにまで日本人が、という意外性が確かに面白いが、それは、そのような生き方は島国の日本人にはなかなかできはしないだろうという感覚とはギャップのあるそのたくましさに、つい驚かされるからだろう。では、これがもしも中国人だったら…。
本作は、そんな想像を形にしたようなドラマだ。しかしUAEのドバイは、海外からの労働者が多く流入している土地であるので、中国人コミュニティがあることじたいは不思議でも何でもない。しかしそこで単身、茸の栽培に励むという主人公の女の生き方は、雑に見えるからこそ現実味があり、中国人気質にもあふれている。わざわざ菌床を中国から持ち込んで人工で育てられる茸が、異国で生きることにちょっと重なる。なかなかうまく進まない。そんな彼女が劇中で笑顔をみせる場面は唯一で、それは過去に恋人と海岸で戯れていたときのこと。彼女に笑う日は来るのか。
(2013年12月30日)
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アジアフォーカス2012/400字レポート⑩ 「ミスター・ツリー」 [中国]

アジアフォーカス2012/400字レポート⑩
「ミスター・ツリー」(2011) 中国 韓傑監督

東京フィルメックスでまず日本に紹介されたこの「ミスター・ツリー(Hello! 樹先生)」は、とても不思議な魅力をもった作品だ。ニュータウン開発の進む炭鉱町で暮らす青年シュー(「樹」の字)は、霊感が強いのか? それともトラウマの記憶なのか? 死んだ父や、その父に樹に吊るされて死んだ兄の幻覚をみる。それも一目惚れして結婚した按摩屋の娘シャオメイとの初夜に。また、頼み込んで働くようになった塾の雑用仕事の最中に。
一方で、鉱山事故や地下水の断水といった、縁起でもないことを言い当てる予言者として評判になる。妻シャオメイは彼の奇行が原因で家を出てしまう。しょぼくれてしまったシューの落ち着く場所は樹の上だ。もう、いいことも何もなさそうだが、彼が樹の上にいる限りは悲劇では片がつかない。彼の眼には、今度は戻ってくる妻の姿が映っている…
クレジットから、賈樟柯がエグゼクティブ・プロデューサーで、音楽は林強が担当していた。シューがみる不良だったという二十歳で死んだ兄の幻。その兄は恋人を引き連れ、ノーランズのヒット曲「セクシー・ミュージック」(それも中国語バージョン!)にあわせて、狂ったように弾けて踊り出す。全体からすると、相当浮いているこの場面から、シューの内面の危うさもうかがえるのだ。だから、だけど、悲壮感がないのだ。それは彼が、少々痛んでも根を張ってしっかり立っている「樹」だから?
(2012年10月27日)

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アジアフォーカス2012/400字レポート⑤ 「時空の扉」 [中国]

アジアフォーカス2012/400字レポート⑤
「時空の扉」(2011) 中国 郭帆監督・李陽監督

二国間に摩擦が生じているなか、朝日新聞が日中両国に対して実施した世論調査の結果を発表していた。中国で知られている日本人として、高倉健と並んで10位に入っていたのが、現地で活躍している俳優・矢野浩二氏だが、わたくしを含め、彼のことをよく知らない人が大半だと思う。主人公が日本から招いたゲームコーチとしてのゲスト出演的な感じだが、その矢野氏の姿を拝見できることが、本作のポイントだろうか。逆にいうと、他にこの作品から何かを見い出されるだろうか。
アクション場面になると、まあまあ出来のいいアニメーションに映像が切り替わるため、主人公役の、ジャッキー・チェンの息子ジェイシー・チェンは、草食系のイメージを保ったままで派手な立ち回りはない。時間拡張症というらしい、不治の心の病に罹っている主人公の、「ワン・チェン(女性)を救え!」という夢の話について、まるで彼のつぶやきにつきあうかのような90分間だ。時間について、起点は終点、円と同じということから世界を行き来するタイムトラベルを要素に、ゲームを枠にしたドラマの構成はややこしく工夫されているが、感覚的なはずの心理世界には常に理屈がつきまとっていて、つきあい切れないというのが率直な感想。姜武も出演。
(2012年10月17日)

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アジアフォーカス2011/400字レポート⑪ 「冬休みの情景」 [中国]

アジアフォーカス2011/400字レポート⑪
「冬休みの情景」(10) 中国 リー・ホンチー(李紅旗)監督

退屈そうな日常のひとコマひとコマを描いても、決して退屈には映らないのが映画の持つ力のひとつだと思う。なぜなら「退屈そうな」は第三者からみての「そうな」であって、その見方というか、描写のされ方しだいだから。特別な事件が起きるわけでもない、人々の冴えない日常を静かに描くリー・ホンチー監督の映画スタイルは小津安二郎を源流とする系譜にあるものと思われ、とくに斬新というわけではないが、距離をとって固定した長回しのショットで、とぼけた会話ややりとりを繰り返させては、観客の笑いをじわじわと引き出す。
この90分ほどのドラマには、中国北部のとある町の、冬休みのティーンエイジャーやその家族が登場する。少年とそのガールフレンドの間、ソファに座ったじいさんと孫の男の子の間などで、ちょっと間の抜けたような会話が繰り返される。特にユーモアを感じるのは、市場で野菜を値切る場面や、少年たちの恐喝の場面、主人公の少年がガールフレンドをふろうとする場面などなど。
値切る場面では、白菜の品定めをしている女が、外側の葉を何枚も何枚も剥いで細くしてから野菜売りに向かって、「いくら?」「(目方を計って)二元三角」「二元にして」「三角がもうけだ」「じゃあ二元一角にして」「…わかった」「(財布をみて)二元しかない」「…仕方ない、いいよ二元で」。で、女は剥がした葉までを持って帰ってしまう。と、全体的にこの調子だ。これらは、コントのコンビのボケと突っ込みのやりとりのよう。演芸場の舞台を中継しているカメラのように固定されている構図が、余計にそう感じさせるのかもしれない。
最初に「退屈そうな」日常と書いたが、最後まで見終えるとその裏側に、ある種の悲哀や絶望感が横たわっていることがわかる。多くの国際映画祭で好評を博すとともに、2010年の第11回NHKアジアフィルムフェスティバルで上映された。
(2012年1月8日)

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アジアフォーカス2011/400字レポート⑥ 「鋼のピアノ」 [中国]

アジアフォーカス2011/400字レポート ⑥
「鋼のピアノ」(10) 中国 チャン・メン監督

製作総指揮クァク・ジェヨン(「猟奇的な彼女」の)、中国の新人チャン・メン監督による傑作エンターテインメント。絶え間なくふんだんに多様な音楽を取り入れ(ロシア民謡に長渕剛の「乾杯」、「幸せなら手をたたこう」のコーラスにフラメンコ調のダンス、そしてマリオテレビゲーム音まで!)、ドラマとしては少々粗削りなところもあるが、にぎやかで明るいトーンを失うことなく、自由な発想で場面、場面を組み立てた人情ある喜劇だ。離婚を迎えた男グイリンが、愛する娘を引き取りたいがために昔の工員仲間たちの力を借りて、鉄だけを材料にしてピアノを作ろうと奮闘! という筋はとても単純である。グイリンは、今は楽団でアコーディオンを弾き、地域の冠婚葬祭で演奏をしたりしている。その仲間で、元女工のボーカル・シューシエンはとくに味があるキャラで、紅一点ということもあって、全編を通して本作の物語展開を盛り上げている。決して若くはないが、終盤になってド派手なピンクのコートを着たりするところがちょっとカワイイと個人的には思う。グイリンは彼女と再婚したいようだが、この彼女の存在が、この音楽ドラマのバックグラウンドの軸になっている。
そしていよいよピアノが完成。場面はシューシエンを中心として、フラメンコ調の曲にのって踊りながらの行進が始まる。拍手喝采といきたくなるクライマックスのひとつなのだ。
時代背景は、赤字続きの国営工場が閉鎖され、労働者たちが失業を迎えた90年代始めということだが、そういう労働者階級でも、一人っ子だからか、愛娘にテレビゲームを買い与え、ピアノを習わせるという理想的生活があり、ピアノは彼らの幸せの象徴にもなっている。それを自分らの力で手に入れようとする、荒唐無稽な挑戦…。
最初に本作は粗削りと書いたがそれもじつは魅力で、図面をひいて鋳型を作り…という、鉄のピアノづくりという夢のドラマにはふさわしい。
(2011年9月22日)

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王兵監督の「名前のない男」という実験映画について [中国]

イメージフォーラム・フェスティバル2011福岡(福岡市総合図書館映像ホール)で6月5日に観た「名前のない男」(09)は、「鉄西区」で知られる中国のドキュメンタリー作家・王兵が、注目の劇映画「The Ditch」(10)の前に撮っていたドキュメンタリー。
内容を書くと、人を食ったような作品のように聞こえるかもしれないが、撮影だけで少なくとも1年はかかっている不思議な力作である。退屈せずに一気に観てしまう96分である。
原題は「無名者(Man with No Name)」。中国の、一体どこかもわからない土地に棲んでいる男の一年間を、迫ってみたり、傍観したりとカメラがただ追いかける。その土地は廃墟のようであるが、とにかくよくわからない。男は原始人のようにして洞窟で暮らしている。背中が曲がっているが年齢も何もわからない。わからない、わからないと繰り返すのは何故ならば、彼以外には誰もこの土地にはいないので登場せず、したがってこの男は最後まで一言も発しないからである。時折聞こえてくる自然の音の他は、サイレントである。
男がちょっとカメラ目線になったり、カメラマンに向かって何か呟いている風なところもあるが、映し出される映像以外には何の情報もない。だからこそ、観客としては、その情報だけを頼りに、そこに何か哲学があるに違いないと深く考え、とくに人の生活というものを一生懸命考えてみたりする。
耳を澄ますと遥か遠くに車が走る音が聞こえるようでもあるが、それも大して重要なことではない。重要な情報はただひとつ。この男が、独りで自給自足のサバイバル生活を送っているらしいということが示されるということだ。それはとてもすごいことである! ということがひしひしと伝わる。衣服も靴もボロボロで穴だらけ。都会の浮浪者と見た目は変わらないが、決定的に違うところは、都市社会に寄生して生きるのではなく、自分の力だけで生きているということである。荒れ地にうっすらと雪がみえる冬の季節から、雑草が地にへばりつく夏、収穫の秋までの一年間にわたって、この男は生きている。
荒れ地に種をまき、羊か何かの糞を集めてきたりして野菜や穀物を育てている。食事は、ブンブンと蝿が集るなかで、雨水などをすくってきたりし、子どものままごとのようにして作った料理を食べている。正直観ていて気持ちはよくない。
しゃべらないから、この男の人生観、何を考えて生きているのかさえもわかりかねるところだが、ひとつヒントになる場面がある。歩いていて石に躓いて、必要以上に怒って、その石を拾い上げて怒鳴りながら叩きつける場面である。おそらく、自分は何者にも邪魔されたくない、そんな強い信念が、男をこのような生活に向かわせたのだろう、と想像してみる。
この男は自由奔放な生き方をしているのかもしれないが、それは観る限り「生きる」というラベルを貼られた重労働なのでもある。
第67回ベネチア国際映画祭で、政府の許可を得ていない作品であるためにサプライズ上映された、同じ王兵監督の初の劇映画「The Ditch」を、昨年10月の釜山国際映画祭に足を運んだときに観た。これは1950年代に反右翼活動に参加したと見なされて、多くの男たちがゴビ砂漠で強制労働させられたという悲劇の史実を内容としたものだった。乏しい食糧だけで厳しい開墾の仕事に従事させられ、男たちは死んでいく。上海から夫を訪ねてきた妻の「夫の墓に連れて行け」と泣き叫ぶ声が、耳から離れない…
「名前のない男」の男の生き方を観ていて、その「The Ditch」における男たちの姿を、重ねてみないわけにはいかなかった。
イメージフォーラム・フェスティバルでは、上映前の作品紹介で、王兵監督のフィルモグラフィーにおいて、「名前のない男」は「The Ditch」(「溝」として昨年11月の東京フィルメックスでも上映された)と対をなす作品だと説明され、「The Ditch」の方は、劇場公開が予定されていると補足された。ならば、そちらももう一度観ようかと思う。そう思わせる王兵監督の描く世界である。
(2011年6月7日)

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「小さな中国のお針子」のダイ・シージエ監督の講演会 [中国]

福岡で行われている本のお祭り「ブックオカ」のいちイベントとして、11月10日に西南学院大学のコミュニティーセンターホールで、ダイ・シージエ(戴思杰)氏の講演会があった。
日本語で書いた小説によって文学界新人賞を獲ったイラン人のシリン・ネザマフィ氏や芥川賞を獲った中国人の楊逸氏と同じように、中国生まれのダイ氏は、移住先のフランスで、母国語以外の言葉であるフランス語の作品を発表し、ベストセラーにもなって受賞も果たしている珍しい存在の小説家である(ノーベル文学賞の高行健は亡命して仏国籍を取得した作家だが、確か、母国中国語で書いている。ダイ氏はこの講演で彼は友人と述べている)。
この春先に作品をひとつも読んだこともないタイの若手作家ウティット・ヘーマムーン氏の講演を聴きに行って、なかなか馴染めずにちょっとつらい経験をしたが、正直に言うとこのダイ氏の作品もひとつも読んでいない。しかしじつは、彼は映画監督という顔も持っていて、作家としてのデビュー以前から映画製作活動を行っていた。代表作は「小さな中国のお針子」(03)「中国の植物学者の娘たち」(07) など。監督作品ならばわたくしは観ている。
講演前に監督作「小さな中国のお針子」の上映も併せてあり、この作品は、ダイ監督が、じしんのベストセラーを映画化したもので、そのあたりの関係性もお話しいただけるようなので、それを楽しみに足を運んだ。
ちなみに講演はフランス語によって行われた。イベントの主催は九州日仏学館で、集まった観客のほとんどはフランス関連のネットワークで集まった感じがする(質問もやたらフランス語が織り交ぜられていたし)。小説(映画)の舞台は、文化大革命真っ只中の中国なので、通訳者が中国の地名、人名などの日本語訳に苦慮されているようだった。
映画は封切り時以来の二回目なので、今回は監督じしんの下放経験に基づいた自伝的な物語ということを特に強く意識しながら観た。映画は、文革中期の1971年、再教育のために奥深い山村へ送られたふたりの青年、マー(リウ・イエ)とルオ(チェン・クン)と、そこで出会った文盲のお針子の女性(ジョウ・シュン)との、禁じられた西洋文学を絡めた物語である。
では以下、講演より…。ダイ監督じしんは登場人物マーに投影されている。映画どおりに親は医者で、文革で“人民の敵”とみなされて逮捕されたため、当時12歳だったダイ監督は無一文になり、非難中傷を浴びて散々な目に遭った。下放されて再教育を受けたのは1971年から74年。監督らが送られた時期は文革も中期になり、両親が逮捕された時期に比べると激しさはなくなってきていたそうだ。実際は、ふたりではなく4人で村に送られた。彼らが読み聞かせるバルザックの小説を好きになっていく村の少女も実在した。本当は農民の娘だったが、ミシンのシーンを入れたくてお針子にしたそうだ。
中国での撮影にあたっては、中国政府側の検閲との戦いがまずあり、シナリオを10回は書き直し、撮影許可を得るのに1年を要した。しかし、やっとのことで送られてきた許可文書には、削除せよという場面が列挙されていて、例えばそのひとつに樹の下での男女の恋愛シーンがあった。それは、水の中で男女がじゃれあうというシーンに置き換えた。当局からはさらに水の深さまで細かく指示されたが、フランス人には性的な場面だと眼に映っても、中国人にはそうは見えなかっただろうと笑うダイ監督(観客から、原作小説の方では、樹の下も水の中も両方ありましたよねという声があった)。
わたくしも今回「小さな-」を観直していて、水の中の場面から、同じように恋人たちのイチャイチャぶりを水中撮影したシーンから始まるイラク映画「Herman」を思い出した。ちなみにもちろん、本作「小さな-」は中国では公開されていないが、海賊版DVDはよく出回っているそうだ。
原作小説は文学への愛という抽象的な内容なので、その映画化にあたってはいろいろ考えたとダイ監督は語った。わたくしが本作で特に興味深く感じているのは、ふたりの青年が、町に行って観てきた映画を、帰ってきて村人たちの前で再現するようにして語るところである。ここも実話で、ダイ監督らは再教育時代、2時間の映画を観てきては、戻ってきて2時間かけて村人たちに説明するということを繰り返しやってきた。たいへんな経験だったが、その後の映画人としての製作活動に活かされたと述べている。なるほどなるほど…。それまで映画というものを観たことがなく、のちになって映画を初めて観たときに、本物の映画よりもむしろ監督らが熱演した映画説明の方が面白かったと言う村人がいたというのは、笑えるエピソードである。
当時から西洋文学に勤しみ、中国語の小説にも短編で挑戦しており、両親の友人である作家・沈従文(と通訳者は言った?)にもみてもらっていた。文革中期は、文学と出会い好きになった時代でもあり、いずれ中国語で書いた作品を中国で出版することが夢であるとおっしゃる。
ダイ・シージエ監督にとっては、今振り返ってみれば、当時の下放経験に対してノスタルジーがある。もちろんそれは、この自伝的映画を通して十分に感じられることなのだけれども、ご本人からそれを生の言葉で聞くことのできた、貴重な機会であった。
さて。話は飛ぶが、1週間かけて、邦訳されたインドネシアのミステリー小説「殺意の架け橋」(講談社)を読み終えた。日本で訳されているインドネシアの小説はごくわずかなのでは? 生年経歴不詳のS.マラ・Gdという女性作家の、1985年から続く、東ジャワ州警察本部のコサシ大尉と部下ゴザリの名コンビが活躍する人気シリーズ30冊の第20作にあたるものだそうだ(この20作目だけが日本で出版された。一番出来がいいから?)。捜査の経過をコサシ大尉が自宅で家族にいろいろ話すのは、なんだか変な感じもしたが、第1作から通して読めば、レギュラーのキャラクターや人間関係もわかって違和感ないのだろう。ミステリーとして十分楽しんだ。
(2010年11月13日)

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アジアフォーカス2010/400字レポート⑨「豆満江」 [中国]

アジアフォーカス2010/400字レポート⑨
「豆満江(とまんこう)」(10)中国韓国フランス チャン・リュル監督

やはりまた、チャン・リュル監督は中国の朝鮮族に焦点をあてている。舞台となる村は、豆満江を隔てて北朝鮮と接している。双方への人の往来はあるが、北では貧困のせいで餓死も増え、北の人間が入り込んで盗みなどの悪さを働くようになり、この村も物騒になってきた。中国政府も脱北者には懸賞金をかけるようになった。少年チャンホは、口の利けない姉スニと祖父、三人でここに暮らしている。この一家を軸にしたドラマが綴られていく。
この映画では、さまざまな場面から「対」の構造が浮かび上がってくる。大きくみると、朝鮮半島が北と南というひと組の対であり、河を挟んだ両側の土地がまた、対になっている。豊かさと貧しさもそうであるし、男と女であってもそうである。しかしそれらの間には、眼には見えない絆のようなものが存在することにはたと気づかされる。それは例えば、チャンホとスニという、きょうだいの対から感じ取れる。
離れている二人、しかし。祖父とバスで街に向かっている弟チャンホが車中でうたた寝をしていて、姉が言葉をしゃべる夢を見る。その瞬間に一人で留守番をする姉のスニは北から逃げてきた男にレイプされているのである。
その堕胎のために病院ベッドに横たわる唖のスニは、突然弟の名前を叫ぶ。その瞬間に弟のチャンホは、連行されようとしている親友の北の少年を守るため、高い屋根から身を投げているのである。
世の中にあるひと組のものには、眼には見えない関係がじつはそこにあって、決して無関係ではない。そういう世界観がみえてくると、映画が与えてくれる自由勝手な解釈の機会に思わず感謝したくなる。
(2010年10月5日)

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中国実験映画事情~イメージフォーラム・フェスティバル2010から [中国]

「イメージフォーラム・フェスティバル2010」の福岡会場(福岡市総合図書館映像ホール)の6月6日のプログラムのひとつは「中国実験映画事情」。表現に制約のある国情のなかで活動している中国インディペンデント作家による、5分から10分ぐらいの映像アート10作品をコレクションしたものである。

「民国の風景(民國風景)」(07)チウ・アンション(邱黯雄)監督
 伝統的な音楽にのった、水墨画風のモノクロのアート。絵の中の人や生き物などには動きがあるアニメーションである。静か、しかしダイナミックな描写で、農村の風景から、近現代へ…と経過する。その流れの中では、変わらない田舎のたたずまいが強調されていて、いかにも中国テイスト。

「裏庭(后花園)」(08)リー・ミン監督
 お屋敷の庭なのか、庭園の大きな池を舞台にして、ふたつのグループに分かれていると思われる警官たちが、ゲームのように銃の撃ち合いを演じている。ただし、男たちが手にしているのは水鉄砲である。池の中にまで入って、びしょぬれになって、水という液体を飛ばし合っている。休憩時間のひとコマなのか、勤務中なのか、想像があれこれと頭をめぐる。

「櫛(梳)」(08)リー・ミン監督
 クレーン機が建物を解体している。一枚の壁を突き破ると、その向こうに、長い黒髪の女性の後ろ姿がみえる。居座っていて微動だにしないその女性の黒髪に向けて、巨大なクレーンの手が、櫛のような動きを繰り返す。もちろん真似事であって、じっさいに髪をといているわけではない。ロボットの手のようにも見えて、ばかばかしくもある。

「終わり/あるいは始まり(雨谷)」(06)ニー・カーユン(倪珂転)監督
 ぼんやりと観たが、ところで陸上に登場する巨大な船は何?

「炭色の呪文(黒色呪語)」(08)スン・シュン(孫遜)監督
 上映前の紹介によると、スン・ シュンは世界的にも評価を得ている新進の映像作家で、アーティスト・イン・レジデンスの一環で横浜に滞在し、新作の制作に取り組んだばかりだそうだ。本作は、赤だけを強調した単色調のアニメーションだが、テーマは産業の発展、もしくは資本主義なのだろうか。

「太初の起源(太初)」(08)チアン・チー監督
 星のようにも、天の川のようにもみえるのは、夜空で広がる打ち上げ花火のスロー再生や逆再生の、ズーム映像。その花火の音は、宇宙という生き物が脈打つ鼓動のように聞こえてしまうというと、ちょっと言い過ぎだろうか。

「子宮」(05)ガオ・シーチアン(高世強)監督
 モノクロのイメージ映像。おそらくこの作品タイトルの世界を、ドレスのような白い服装の若い男を登場させて、ややキッチュに描いている。白い風船や綿のようなものが敷き詰められた、ふわふわした空間は、あまり先端な表現には感じられないのだが。

「啓蟄(蟄驚)」(03)ドン・ウェンシェン(重文勝)監督
 最後の3作品は、同じ作家のもの。春から夏にかけての季節感を、一貫した感性で綴っている。本作はユーモアのある、シュールな作品。固定された画面。男が現れて、大きな木にのぼり始める。手にはカバン。そこからピンク、赤、白といった花を取り出しては、枝ひとつひとつに括りつけだす。おおよそ、この木全体が“満開”状態になったところで、白いひもを枝に括り、男は首を吊って、だらりとぶらさがるのである。

「梅雨」(03)ドン・ウェンシェン(重文勝)監督
 雨の日の風景。傘を持った人々が通りを歩いている。雨は石畳を激しく打ちつけ、水がたまっていく。池の水面にもボツボツと穴をあけるように降り続く。池には橋がかかっている。その橋に、傘をさして腰かけている少女。長いスカートの足元がアップになると、股から流れてきた血が線を引くようにして、ポタリと池に滴を落とす。これもまた、ひとつの、巡る季節である。

「小暑」ドン・ウェンシェン(重文勝)監督
 熱い夏の日。白いブリーフ一枚だけの男ふたりが、ひとつのベッドで昼寝している。どちらも、下着の前の部分が、尖がった形で勃起している…。目覚める気配は全くない。やがて…、ふたりの、膨らんでいた部分は小さくなってしまい、前の部分を濡らして、丸い跡を残した。これぞ生命力である。

以上、上映順に。セリフもなければ字幕もない映像が、脳裏に残した残像イメージ。
(2010年6月11日)

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女優ユー・ナンの演技が光る「紡績姑娘」 [中国]

「大阪アジアン映画祭2010」では、インド映画「デーヴ D」の他には、日本語が堪能なのに今回が初来日というデイヴ・ボイル監督がジャパニーズアメリカンをイジりにイジる、奇怪なコメディー「ホワイト・オン・ライス」や、韓国のB級のにおいを放つ珍品「チャウ」などノーマークだった作品にも出会え、けっこう刺激的だったが、これらをより深く味わえるのも、アート系の作品があってこそ。
自分的には、アート系が主食で、「ホワイト・オン・ライス」や「チャウ」はスナック菓子といったところかしら。
中国・王全安監督の「紡績姑娘(Weaving Girl)」は、釜山映画祭で観たかったのだが、他に観たいものと時間が重なっていて観られずに終わっていたので、これが今回大阪での目当てでもあった。
筋は単純なので、ひたすら主人公の心の奥底を、スクリーンを通して触れるということになるし、また複雑ではないだけに、王監督の演出の力量がいっそう際立つ。
紡績工場の女工・李麗は、10年程前、同僚でアコーデオン弾きの趙魯寒と愛し合っていたが叶わずに、市場で魚売りをする胡と結ばれ、今は息子の兵兵と三人で暮らしている。ある日突然、李麗は白血病で余命もわずかと医者から宣告された。夫婦で二千元も稼げない貧しい暮らしでは、何十万元もする治療を受けられるはずもなく、死を迎え入れる運命しか彼女にはない。
女工仲間の呉が勧めてくれたナイトクラブでのアルバイトも、李麗の心には何の希望も与えてくれなかった。李麗は北京に行く決心をする。それは、10年前に転勤で西安を去った、かつての恋愛の相手・趙魯寒に会うためだったが、再会した趙は、くたびれた中年男でしかなかった。李麗からの手紙が一通も手元に届かないというすれ違いから彼女へのあてつけで結婚した彼も、2年前の事故で重い障害が残った妻との生活を送っていた。
なぜ衝動的にかつての恋人を訪ねたのか…、李麗は、単に過去の思い出を振り返りたかったのではなく、自分がいかにして不幸へとつながる道のりを歩んできたのか、それを最後に確認したかったのだ。だからこそ、線路という決められたレールの上を疾走する李麗のシーンがとくに印象的に登場する。
結末は避けられない。李麗を支える魚売りの夫の物静かな優しさが、救いである。
人々の人生も、工場で作られる製品のように、決められた工程を淡々と流れていくものだったとしたら、それはあまりにも哀しい。歴史スペクタクルではない、こうした小さな中国映画、人の心に正直な映画をもっと観たいと思う。
(2010年3月31日)

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映画大国をめざして激変する中国大陸 [中国]

NHKスペシャルでは、「チャイナパワー」と題した、世界で影響力を増してきている中国パワーを追いかけた全3回のシリーズが組まれた。そのうちの第1回「“電影革命”の衝撃」は、映画界に焦点をあてて11月22日に放送された。
『中華文化を発揚し、民族共通の心の故郷を建設する』という胡錦濤・国家主席のコメント、『石炭や鉄鉱、電力同様に映画を世界一にする』という喇培康・映画管理局副局長のコメントを引用しながら、中国をハリウッドに対抗する映画の世界中心にしようという、官の支援体制と民の旺盛な活動によって、今中国で進められている文化戦略としての“電影革命”を紐解く。
ハード面では、北京に国家映画デジタル製作基地が整備され、そこでは今、ウィル・スミスの新作も撮られているらしい。(話が外れるが、先ごろ封切られた広末涼子主演「ゼロの焦点」の昭和30年代の金沢の街並みは韓国・富川ファンタスティックスタジオで撮影されたと知って感嘆した!)
ソフト戦略としては、作品の指向が、国際的なマーケットも視野に入れ、これまでのプロパガンダ映画、芸術映画から、パワフルな娯楽超大作へと明らかに変わってきた。中国映画界は2002年以降、毎年30%の成長を遂げてきたという。『世界に中国を示せ』のスローガンもあって、建国60周年を迎えた今、十数本もの大作が公開待機している。
このような勢いの裏側には、ハリウッドに進出した、香港・台湾も含む中国系の映画人の多くが、いま中国へと活動拠点を移しているという実状がある。
ジャッキー・チェン、ジョン・ウー、チョウ・ユンファ、ジェット・リーなど(香港の映画人ばかりだが)、例として何人もの名前をあげながら、番組は、北京に事務所を構えた、香港のピーター・チャン(陳可辛)監督の大作「十月囲城」の製作や配給戦略を中心に追う。
革命家・孫文の命を狙う清朝政府と、それを阻止せんとする8人の男女の姿を描いたという内容で、陳可辛監督は上海に100年前の香港の街並みを再現した巨大セットを組み、ドニー・イェン(甄子丹)やファン・ビンビン(範氷氷)ら豪華キャストを迎え入れた。
一昨年の中国No.1ヒット作「ウォーロード/男たちの誓い」(07)の成功もあって、北京で行われた華表賞のセレモニー裏では、黄暁明や台湾の林志玲、徐若瑄のような、陳可辛に対して映画に出たいと言い寄ってくる大物俳優もいる。このように、中華映画界全体の中で注目を集めている陳可辛は、大陸で映画を撮ることについて、「制度の範囲内でやれることをやり、状況が変わるのを待つ。作った映画が結果を出せば、制度もついてくる」と語る。
これと対比する形でインタビューに登場したのが、大陸では上映禁止となった「新宿インシデント」(09)のイー・トンシン(爾冬陞)監督だ。「大陸は上映基準が違い、政治や犯罪、性描写などのタブーが存在する。ゲームのルールに従って映画を撮るのかどうか。自分は同じような作品を撮りたいとは思わない」と、香港を拠点にした製作活動を変えない姿勢を見せている。
さて、陳可辛監督が足を踏み入れた中国映画界では、市場での成果がすべてである。そのための興業戦争が起こる。陳可辛は作品のプロデューサーでもあり、宣伝戦略を練りに練って、国内32のテレビ局とのタイアップを得た。
なぜなら、2010年の旧正月、陳可辛監督の「十月囲城」に公開をぶつけてきたのが、チョウ・ユンファ主演で儒教の開祖である孔子の生涯を描くという歴史大作「孔子」(監督:胡玫)だからだ。こちらは話題をとるためベルリン国際映画祭を狙い、その後アジアで一斉封切という戦略を立てている。世界中の国際映画祭からそれ以上に熱視線を受けているのが、張藝謀監督と江志強のコンビによる最新作。サスペンスという新境地に挑んだ意欲作だけに、陳可辛監督にとっては、興業上手強いライバルである。
経済が好調だと、映画も元気になるという構図で、マーケット狙いのため作品がエンターテインメント志向に変わっていくとしても、映画界に活気がでてくるということは喜ばしいことである。
これから隆盛が見込まれる中国映画界、その故郷の方に魅力がでてくれば、海を渡ったメジャーリーガーたちも、Uターンしてくるわけで、前にこのサイトで取り上げた「外国籍中国人俳優の愛国映画への出演を批判する世論」とあわせて考えると、特に興味深いものとなった。
(2009年12月10日)

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外国籍を取得した中国人俳優が建国60周年記念映画へ出演したことに対する世論について [中国]

NHK・BS1の「アジアクロスロード」の毎週木曜日は、香港フェニックスTVの時事弁論会をダイジェストにして吹き替えたものを放送している。10月8日放送のテーマは「外国籍中国人俳優の愛国映画への出演を批判するのは、度量の小さいナショナリズムか」。釜山国際映画祭に旅立つ前の日のことだった。
問題となっている映画は、第22回東京国際映画祭の提携企画「2009 東京・中国映画週間」でオープニング上映される中国オールスター映画「建国大業」 (09) 。これは題名どおり、建国直前の北京を舞台に、毛沢東をトップとする中国共産党と中国各民主党派が蒋介石の国民党の独裁に反対していくなかで、 心をひとつにして団結して戦い、最後は勝利を収めるという輝かしい歴史を振り返ったものだそうだ。
今年の建国60周年を記念するために中国映画界が総力をあげて製作したもので、10月1日の国慶節にあわせて封切られ、過去最高の大ヒットをとばしているという。東京国際映画祭のカタログによると、監督は韓三平、黄建新、陳凱歌、陳可辛。出演は唐国強、張国立、許晴となっている。しかしそれだけではなく、ジャッキー・チェンやジェット・リー、アンディ・ラウなど主役級のスターたちも、ワン・シーンだけといった端役などに、ノー・ギャラでボランティア出演しているという、とんでもなく豪華な顔ぶれなのである。
しかしこれに対し、出演している172名のうち21名が、中国籍を捨てて外国籍(香港を含む)を取得した俳優であるため、愛国映画にはふさわしくないと、中国ではインターネット上で映画のボイコット運動が起こるなど激しい批判にさらされている。
時事弁論会で具体的に名前を挙げて指摘していたのは、米国籍のチェン・カイコー(陳凱歌)やリウ・イーフェイ(劉亦菲)やチェン・ホン(陳紅)、香港籍のタン・ウェイ(湯唯)やチャン・ツィイー(章子怡)、スイス籍のスーチンガオワー(斯琴高娃)。(他に誰がいるのか21名の名をすべて知りたいと思った!)
そして3人のコメンテーターのうちのひとりが、女優ヴィヴィアン・ウー(鄔君梅)が発したというコメント「パスポートや国籍は単なる記号。私が中国人である事実は変わらない」に対して、あまりに虫が良すぎる!と猛烈に噛みついた。「国籍を与えた国に対して忠誠を誓うことは厳粛な法律上の問題じゃないか!」。番組は、米国で国籍を取得したときに読み上げることになっている宣誓文を中文で紹介するが、なるほどである。
この番組を観た翌日に釜山に渡り、釜山から帰ってきてすぐ、ちょうど封切られているハリソン・フォード主演のアメリカ映画「正義のゆくえ~I.C.E.特別捜査官」(08)を観たが、この問題とテーマが一致する社会派ドラマだった。イラン、韓国、バングラデシュ、オーストラリアなどからの米国への永住を目指した登場人物たちそれぞれのケースが交錯し、ある者は帰化でき、ある者は強制送還となり、ある者は命を落とす…。クライマックスは、アメリカ市民権取得式典への出席であり、米国への忠誠を誓い、国歌をともに高らかに唄う。
そういう映画を観たこともあって、「中国の国籍を放棄する選択をしたくせに」「愛国ではなく、中国の首脳に媚びようとする偽善だ」という厳しく放たれる言葉には説得力があり、第三者としての見方だが、まあ同意させられる。
別のコメンテーターが、孔子の時代の話や、A・シュワルツェネッガー、ニコール・キッドマンを引き合いに出して、世界的映画スターに国籍は関係ないのだという反論をするが、中国においてはこんな理屈は通用しないことは誰もが承知。
中国はほんとうに昔から、政府が、映画に政治的な問題を持ち込んできた。国際映画祭での上映キャンセルは有名で、しかしそれはもう過去の汚点かと思っていたが、最近でも世界ウイグル会議に関するドキュメンタリー映画の上映に対しての横やりが見られる。
しかし今回の騒動は、建国60周年記念の愛国オールスター映画への攻撃が、祖国を愛する国民の側から生じてきているところが、野次馬としてはなお、おもしろい。
(2009年10月20日)

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アジアフォーカス2009/400字レポート⑦「爆走自転車」 [中国]

アジアフォーカス2009/400字レポート⑦
「爆走自転車」(09)中国 寧浩(ニン・ハオ)監督

例えば「クレイジー・レーサー(瘋狂的賽車)」といった日本題であれば、前作「クレイジー・ストーン(瘋狂的石頭)」のシリーズとしてその位置付けがイメージできて一般的にはなお良かったかもしれないが、前作を越える、スピード感溢れる馬鹿馬鹿しさには、何の遠慮もなく腹の底から笑ってしまう。寧浩監督の非凡なコメディーセンスは、「香火」(03)から始まって、わたくし好みに進化してきた。このような才気ある、ハイテンションなドタバタ喜劇は、正直なところ、大好きである。
ドーピング疑惑で競輪界を追放され、今はトラック運転手をしているコンハオ。彼をハメたファラリ製薬のリー社長。その妻殺しを依頼された、頼りない義兄弟の殺し屋二人組。麻薬取引のため台湾から渡ってきたヤクザたち。この他にも葬儀屋に、警察に、タイ人の死体…。それぞれのストーリーがユニークに絡んでいくのだが、それを冷静な気持ちで整理してまとめるようなことはしたくはない。わたくし個人のクライマックスは、脳血栓で亡くなった元コーチの葬儀を盛大にしたいコンハオが、葬儀屋風に黒ずくめの台湾ヤクザと出会い、案の上予想どおり、遺灰が取引のブツと勘違いされていくところ!と述べておく。寧浩作品がこれから先さらにクレイジーな方向に進んでいくのかどうか、そちら系ばかりもどうかとは思うが、興味ある。
(2009年10月4日)


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「チャン・イーモウ 北京オリンピックを語る」 を観る [中国]

インタビュアーの、俳優・香川照之さんの「私は北京五輪の開会式を一本の映画として、作品として、見ました。感動しました。張藝謀監督のフィルモグラフィーに加えられるべきだと思います」のコメントに代表されるとおり、中継された映像を観た世界20億といわれる人々のいくらかは、2008年8月8日の第29回オリンピック北京大会(国家体育場)の開会式に対してそう感じたことだろう。わたくしもそのひとりだ。
昨年末の12月28日にNHK総合で放送された「チャン・イーモウ 北京オリンピックを語る」は、式典を総合演出した張藝謀監督に香川照之さんがインタビューし、その舞台裏やそこに注ぎ込んだ張監督の思いを語ってもらうというものだった(見逃していたが、昨秋にBS1で同内容の放送があったので、今回は地上波での再放送だったのかもしれない)。
開会式がひとつの映画であるならば、この番組は、映画DVDによく収められている「メイキング映像」もしくは「特典映像」のようなものだ。いまさらながらこの番組で、もう一度北京五輪の開会式を観直すとともに思い考え、改めて、張藝謀監督の発想とその表現法に感服した次第だ。
さて、冒頭に書いた香川氏の感想に対して張監督は「オペラやバレエの演出経験が、式典をつくり上げていくうえで役立った」と答えているが、一方で「3年あまりたずさわったが、困難は一本の映画の百倍はあった」と振り返っている。まずは、全体を貫き通すコンセプトを見つけ出す作業が最初の困難だったと思われるが、“中国五千年の悠久の歴史を浮かび上がらせる絵巻”という骨組みを選択してからは、“中国が世界に誇る文化に焦点をあてる”という視点で、2年間で数百のアイデアを練り上げて、最終的に28の演目を構成したのだという。
まずはフィールドに碁盤の目に沿ったかのように整列した2008の太鼓。ひとつひとつに男たち。それぞれが太鼓を打つと、それにあわせて個々の太鼓の明かりが点いたり消えたりし、それが数字を形づくり、浮かび上がったその文字でカウントダウンが始まる。3,2,1…、古くて新しい国・中国を象徴するような、アナログとデジタルの融合だ。
そして、花火が打ち上がる! スタジアム全体が破裂せんとばかりに。中国が生んだ火薬は、いまでは破壊行為に用いられるがもともとは古来、不老長寿の薬だったそうで、生命のシンボルでもあるという。過去のオリンピック大会すべてを合わせたその四倍の量の花火50万発が、この北京の式典では使われたらしい。とにかくエネルギー溢れる華やかさだ。花火の担当アーティストは、福岡アジア美術館にも作品がある蔡國強氏。
やがてフィールドには光が集まってきて、五輪マークができあがる。そこに天女が舞い降りてきて、その五輪マークは浮遊する…。
フィールドに広げられていく絵巻は147メートルにもわたるそうで、とてつもないスケールだ。
じつは、この絵巻物の装置はデジタルの産物だ。張監督は「中国の歴史を昔ながらのやり方で表現するのは、あまり魅力的ではない」と考えたそうだ。“新しい”と“古い”の組合せ、それが張監督の表現アイデアの根底にある。ゆえに絵巻物とみえるそれは、LEDが敷き詰められたものだ。リハーサル映像によると、張監督が厳しく発色をチェックする姿が映っている。
式典は続く…。巨大な半紙に、腕全体を筆にして、ダンサーたちが舞いながら水墨画を描いていく。そして…、古代中国の繁栄を支えてきたシルクロード、大海への航海…、昆曲の舞台を経て、12メートル以上の柱からなる宮殿の舞へと演目は進んでいく。衣装監督は外国映画でも活躍している石岡瑛子氏だ。
次に孔子の弟子たちが竹簡を持って登場。紙が発明される以前の時代だ。そこから、絵巻の中央部分が開いて、活版印刷の演目が始まる。活版印刷も中国で発明された文化のひとつだ。張監督自身、この演目が一番好きだそうだが、そのダイナミックな動きは強烈な印象を観客の脳裡に残す。仕掛けは簡単で、897人もの人民解放軍兵士がひとつひとつの活字の中に入っていて、重さ18kg、最も高く上に伸ばした状態で4.5mにもなる一本一歩の活字自体が、マスゲームのように一糸乱れぬ動きを成して、例えば「和」といった文字を、集合体として浮かび上がらせる。観ていて当初これらはコンピュータ制御なのかと思いきや、ラストにそれぞれの活字から桃の花が咲いて、続いてそれまでそれを操作していた兵士たちが、種明かしのように顔を出して手を振るのである。圧巻であり、感動である。特に、漢字文化圏である日本人にとっては記憶にも残りやすく、格別のパフォーマンスだ。
式典全体には1万5千人の役者が登場するそうだが、耳には皆イヤホンをつけ、指揮官の指示で動いて、自分の役割を務めた。
…やがて時代は、いくつかの演目を経て現代へ。闇のなかに現れた、人間たち一人ひとりが輝き始める。その光の粒は集まって鳩になり、天へと舞う。太極拳の技が披露され、宇宙飛行士も登場。絵巻の真ん中にはぽっかりと穴があいて球体が出現。それは地球へと姿を変えていく。その地表には人間たちが縦横に駆け巡る。地球の頂点の舞台で、北京五輪公式テーマ曲を劉歓とサラ・ブライトマンが高らかに歌い、フィールドには、世界中の子どもたちの笑顔がプリントされた2008本の傘の花が開く。夜空にはニコニコ、ピークマークの形づくる花火が何発も広がって、式典のアトラクション部分は締め括られた。
その後、式典会場は後半へと続いた。オリンピックの主役たちを迎え入れるのだ。各国・地域の選手団が入場するが、選手たちの行進の足跡でペイント画を描くという趣向もある。
開会式のフィナーレは聖火の点火式だ。屋根の高さほどもある壁面がスタジアムの内側にそびえ、ワイヤーで吊られた中国のランナー・李寧選手が一周する。巨大な巻物の形になっている聖火台手前までに到達すると、導火線に点火。聖火が灯ると同時に、国家体育場(鳥の巣)を中心に、北京の街全体が爆発したかのような花火が打ち上げられた!
北京オリンピック開会式の演出は、張藝謀監督にとっては、新たな表現への挑戦だったと思う。それは、ライブ・ステージとして観られると同時に、全世界へは映像として発信される。わたくし含め、ほぼすべての人は、ライブではなくて映像として観るわけであるから、スタジアムの観客席からの視点だけではなく、アップの映像などの計算もそれなりに必要だったはずだ。
政治的な制約もあるなかで、ひねりにひねった発想から出発して、絵コンテレベルのビジュアル、そしてそれをライブとして、中継映像として、実際のパフォーマンスへと具現化する力は、まさに張藝謀監督のマジックであり、映画監督としての力である。
「花火のCG合成」「少女の歌の口パク」「少数民族の偽装」といった批判については、この開会式をひとつの映画として観たわたくしとしては肯定するのである。

追記
昨年末のクリスマス・イブには、同じNHKのBShiで放送された、中国のドキュメンタリーの馮雷(フェン・レイ)監督による「空の見えない部屋~北京の団地の地下室に住む人々」を観た。オリンピック開催で転換期を迎える2008年の北京の姿をあぶり出す目的で、北京の高層マンション地下の、窓もない小部屋に暮らす若者たちの夢と現実をインタビュー映像で描いたものだが、そのなかで、ひとりのミュージシャン志望の出稼ぎ青年が、北京五輪の式典で太鼓を打つ仕事の話がまわってきたが、なけなしのお金だけを取られてしまった…と、嘆いていた。
文字どおり北京の“アンダーグラウンド”に生きる若者の失望の様を、豪華絢爛な式典の映像を観て感動する頭の片隅で思い出した。

(2009年1月7日)

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アジアフォーカス08試写室レポート:中国映画「愛の歯」(07) [中国]

中国の庄宇新(チュアン・ユイシン)の初監督作品で、タイトルは「愛の歯(愛情的牙歯)」。ひとりの女性が10年程の間に経験する三つの恋愛を描いていて、愛したがゆえに経験してきた心の痛みが、終盤、あえて自分の歯を抜くその痛みに象徴されていくから、主要な場面と場面の切れ目は紅く染まる。
構成としては、歯科医の治療椅子に座って語り始める中年女性の回想である。彼女の語るドラマを簡単にまとめると、一つ目は文革終結後の70年代末、クラスの男子からラブレターをもらった不良学生時代。二つ目は、妻子ある男との不倫・中絶を経験した大学での研修医時代。三つ目は、旧友の紹介でスタートした結婚生活と破局…。
ふつう、人は、色恋という点では、若き日のある時をピークにして齢を重ねるごとに輝きを失うと自分では思っていると思う。この映画もそんな感じである。歯の治療に来た現在の彼女はそうである。美人女優・顔丙燕(イエン・ビンイエン)の演じる主人公もスケバン時代が一番魅力的に見えて(ちょっとふけた学生だが)、青春学園ドラマとして切り取ってみると、結構引き込まれるところはあった。
それに続く、不倫から堕胎を経験するパートも、ストーリーとして恋愛が成就しないことはみえているが、緊張感がうまくただよう。研修医である主人公自身の手による自らの中絶処理がハイライトになるが、違法中絶を描いていて、最後の最後まで感情移入させられた、ルーマニア映画「4ヶ月、3週と2日」(07)程には比べられない。
スケバンも不倫中絶も、地下映画でなくて、国家がきちんと審査した映画に出てくるのだから、感慨深いところがあるが、同時にドラマとしての限度・節度もあるのだろう。
三番目のパートになると、彼女は、過去はあるが美貌もあるということで結婚に至るが、これが幸せで終わるも終わらないもそれは運命、となっていく。
主人公が語る「女の半生」の部分は、切ない恋物語であり、時代背景にもよく絡めて映画としては出来も悪くない。しかし、これは彼女が主観的に語った自分のドラマだったのだと、エピローグとして画面が再び治療椅子に座る中年女性に戻った時に、それを思い出させられて、なんだか空々しいものを感じた。ちょっと自分の過去を美しくしすぎているんじゃないの、と。もしも私がこの歯科医だったら、目の前の患者が語った話にどう返せばいいのだろう。
同じ話でも、構成が異なれば、感動はあったかもしれない。無理に、歯に関連付けすぎたのではなかろうか。
(2008年8月24日)

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中国映画「緑茶」で見つけた、福岡アジア美術館でお馴染みのスキンヘッド [中国]

中国映画第6世代で中国インディペンデントの雄・張元(チャン・ユアン)監督の「緑茶」(03)が今月11日にWOWOWで放送された。実力派女優シュー・ジンレイを起用した恋愛ドラマ「ウォ・アイ・ニー」(02)と、第56回ベルリン国際映画祭で国際芸術映画評論連盟賞(CICAE賞)受賞の、幼稚園を舞台にした「Little Red Flowers」(06)は観ているが、この「緑茶」は張元監督のフィルモグラフィーとしては、そのふたつのちょうど間に製作された作品。未見だったので早速観た。
ヴィッキー・チャオが二役を演じる真面目な女子大生と小悪魔的なピアニスト。その二人の女性との間で、恋愛の駆け引きを繰り返す男(チアン・ウェン)。何だかフワフワした女と男の会話劇を、撮影クリストファー・ドイルの、ドイルたらしめる映像で映し出す。筆者にとっては特別な作品ではないが、ハマる人はきっといるだろう作品だ。
さて、今回特記したいのは、チアン・ウェンの友人の美術家役で出演している、結構出番の多い男のことだ。やや尖がったスキンヘッドのこの男、絶対に何処かで見た顔だと考えながらもなかなか思い出せない。しかし、映画に出てくるアート作品で、もしやと思う。そしてエンドロールの名前で確信する。
ファン・リジュン(方力鈞)。世界が注目する中国現代美術界の旗手のひとりである。では、なぜ何処かで見た顔だ…と考えたかというと、彼は自分をモデルにした作品を発表しているからである。福岡が誇るアジア美術の拠点・福岡アジア美術館は、彼の作品を美術展ポスターのメインにした(確かオープニングイベントのとき)。
青空を背景に、グレイブルゾンを着た、尖がりスキンヘッドのファン・リジュン(本人と瓜ふたつの絵)が何人も何人も、コピー&ペーストされたように重なりながら、歪んだ薄ら笑いを浮かべている。何とも印象的で不気味な絵なのである。筆者の脳裏には今だに、福岡アジア美術館・イコール・坊主頭の薄ら笑いという図式で焼き付いている。ファン・リジュンが張元監督作品に出ていることは、美術ファンの方、中国映画に精通している人には有名、ご存知のことなのかもしれないが、筆者にとっては今回、発見だったので書きました…。ただ、方力鈞と張元監督とは同年齢のはずだが、接点は存じ上げない。映像と美術、ジャンルは違えども、中国アート界を代表する奇才であることは共通だけれども(張元監督自身も「緑茶」に役者としてちょっぴり顔を出している)。
さて、最後に気になること。張元監督といえば、今年の1月、麻薬使用で現行犯逮捕された。国際映画祭での数々の受賞暦をもつ映画監督だけに報道でも大きく扱われた。同時期、他にも映画製作スタッフが相次いで麻薬所持で逮捕されたそうである。張元監督は日中合作映画も予定されていたので、今後がたいへん気になるところである。
(2008年3月25日)

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韓国・モンゴル・仏合作「Desert Dream」張律監督の生の声を聞く! [中国]

このブログで以前に絶賛させてもらった「Desert Dream」は、結果的に今年のアジアフォーカスで「風と砂の女」という題名で上映され、チャン・リュル(張律)監督も福岡映画祭参加を果たした。中国語通訳翻訳者として名高いY.Sさんのご配慮とご協力で、このたびチャン監督と一杯飲む機会に恵まれた(韓国、モンゴル、フランスといろいろな国名が出てきてややこしいけれども、監督は中国籍)。とてもいい方だった!
映画「Desert Dream」には第31回香港国際映画祭で出会った。同時開催されている香港フィルマート(フィルムマーケットのこと)の会場で、KOFIC(韓国映画振興委員会)のMs. An Cheong-sook委員長をつかまえて、この映画を撮ったチャン監督のことをいろいろ伺って、北京在住の朝鮮族と知り、いつの日かお会いしたいものだと胸を膨らませていたのだ、じつを言うと。映画の内容はこのブログの以前のページをご覧いただきたい。
チャン監督とはまず、共通の知人であるこの映画の主演男優バトウルズィー(モンゴルの映画監督・俳優)の話題で盛り上がった。バトウルズィーはちょうど1年前、監督作「あなたがいない時」でアジアフォーカスに参加しているが、そのころにこの「Desert Dream」は撮影が終わったタイミングだったそうだ。だからそのとき彼は髪を短く刈っていたでしょうとチャン監督。チャン監督は彼を起用することを最初から決めていたが、まずは俳優探しに協力してくれと言って彼を騙したという。モンゴル側のプロデューサーはバトウルズィー夫人のサラントヤーさん。じつはラスト近くでバトウルズィー演じるハンガイが飲んだくれる場面、食堂の女給として出演している(サラントヤーは女優としても活躍している人である)。それだけではない、ハンガイの娘役の少女は、バトウルズィーの妹のお子さんつまり姪御さんだそうだ。この場に酒豪のバトウルズィー本人がいたらもっと盛り上がったに違いない。裏話は他にもあって、日本でも封切られたモンゴルのドキュメンタリー「らくだの涙」(03)(厳密にはドイツ映画。日本語字幕はモンゴル力士の旭鷲山だった)に出ていた駱駝がチャン監督のこの作品にも出ているそうだ。そういわれても、駱駝じゃあ、よくわからないが…。それとモンゴルでの撮影では反町隆史主演の総製作費30億円の日本映画「蒼き狼」の大規模なロケ隊と鉢合わせになったハプニングもあったとか。
映画製作のキャリアを積まずに映画監督となったチャン監督のプロフィールは、聞く限りたいへんユニークだ(同じアート系の監督である北野武やキム・ギドクのようだ)。もともと文学の教授だったチャン監督は、あるとき友人の映画監督に頼まれて脚本を担当、その際に「映画なら自分でも撮れる」と豪語してしまったことから短編を一本撮影。これがロウ・イエ監督の目に留まって何とベネチア国際映画祭の短編コンペにノミネート。そこで一気に注目を集めて、続けて映画を撮っていく機会に恵まれたという。日本映画では小津安二郎、成瀬巳喜男の両監督に影響を受けたそうだ。
監督はもちろん中国籍である。なのでどうしてKOFIC(韓国映画振興委員会)の助成金を得て映画を撮ることができたのだろうと疑問に思っていたが、間に韓国の製作会社が入っているからということで納得した。ということは中国においては、この「Desert Dream」は外国映画扱いになり、輸入許可の問題で中国国内での上映はいまのところ難しいらしい。けれども、この作品は世界の国際映画祭をぐるぐる回っている。
ぐるぐる回っているといえば、とても印象的なのだが、ラストシーンのカメラワーク(カメラが360度回る)は、ドラマの中で脱北の母子がぐるぐる回る場面に重なっている。ストーリーの細部に触れるので詳しくは書けないが、そこのところを気をつけて映画を観ると、ラストの受け取り方が、観た人によって変わってくると思う。
来月の釜山国際映画祭でもこの映画は上映されるため、次は釜山で会いましょうと、明朝には北京に戻るチャン監督から携帯番号のメモをいただいて別れた。しかし、その次の作品もすでに準備が進んでいるとのこと。早くもそれも心待ちである。

※今回、記事のカテゴリーは中国映画に分類しました。
(2007年9月28日)


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死体入りスーツケースを巡るブラックコメディ「箱子」 [中国]

第31回香港国際映画祭の『中国電影新天地』部門でワールドプレミアされた傑作コメディ。関係者席に座る若い女性、てっきり女優だとばかり思っていたら、彼女こそがワン・フェン(王芬)監督だと上映前に紹介される(実際、モデル、女優の経歴の持ち主だそうだ)。監督作「不幸せなのは一方だけじゃない」が山形国際ドキュメンタリー映画祭2001でアジア千波万波・奨励賞を受賞して注目を集め(この受賞作品は福岡でもアジアの心実行委員会主催、中国映画フェスティバル2003で上映された)、本作「箱子」が劇映画のデビュー作となる。
物語の舞台は…中年夫婦が営む雲南の宿屋、ある日夫が河でスーツケースを拾う。こっそり庭に持ち込んで開けてみたところが、何となかには氷詰めの死体が! これはやばいと妻や妻の兄(警官)にもばれないように必死でごまかしを繰り返す。そんなとき洒落た都会の美女とその夫が宿泊客として訪れる。長年連れ添った妻に対してはもう何もときめかない宿屋の主人は、その美女に心を奪われていくが、そこにくだんのスーツケースが絡んでいって…。ドラマの着地の仕方に若干物足りなさを感じるものの、“ハコ”を巡る軽快なテンポで、幅広い層から楽しまれるだろう作品だ。
“ハコ”もの映画としては、インドネシア映画の2006年公開作に「Koper」(Richard Oh監督)という佳作がある。大金の入った鞄を拾った男の悲喜劇だ。あわせて観ると面白いと思う。
(2007年3月21日/香港太空館)


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