So-net無料ブログ作成
検索選択

18th BIFFから/ベトナム人花嫁の物語「Thuy」 [韓国]

※結末にふれています

「Thuy」(2013)という韓国映画のワールドプレミアを、10月6日にMegabox Haeundae Table Mで観た。Kim Jae-hanという監督の第二作(公式カタログによると、超低予算にして未完成のデビュー作に続く、初めての完成作とのこと)で、作り手の極めて挑戦的な熱意が感じられるもので、おそらく本作も低予算の作品だろうと思う。韓国の人気スターを起用する余地もないような方向性の作品で、題名のThuy(トゥイ)は、ベトナムの女性の名前。韓国に嫁ぎ、必死に生きる女性トゥイの姿を描いている。
本来は幸せなケースも多いのだろうが、夫の暴力に苦しむベトナム女性が傍らで描かれていたり、カメラは外国人花嫁のつらい境遇を突きつけてくる。主人公のトゥイは海辺の漁村で、夫の両親とも同居して暮らしている。福祉センターで熱心にハングルを学び、村のアジュマたちに混ざって海辺で働き、痴呆の義母の下の世話も笑顔でこなす、健気な女性だ。同年代の若い韓国女性では、きっと務まらないようなことだろう。
夫が交通事故で亡くなり、未亡人となっても、トゥイの生き方は変わらない。それは淡々と続く。義母は息子を探して徘徊を繰り返す。苦労は増すばかり。「もう好きに生きていいぞ」と義父に語りかけられても、「私たちは家族だよ」とトゥイは返す。本作は、外国人花嫁という今日の韓国社会に対する視点に限らず、老親介護にも切実に向き合っていて、そこにも自然と眼がいくが、しかし本作はさらに事象を複眼的にみせていて、ミステリアスな物語として、夫の交通事故死を不審に思うトゥイに対して行動を起こさせる。
トゥイの夫は事故の前の晩、家に帰って来ず、その夜、ガラの悪い男たちが夫を探しにやって来ていた。加えて事故はバイクの飲酒運転と処理されるが、夫はバイクの運転ができないためトゥイは納得がいかない。村に新しく赴任してきた警官のリーも、トゥイ同様にこの事故に疑問を抱いているらしく、二人は協力して調べ始める。
夫は、ギャンブルで無理やり借金を背負わせられていたらしい。聞き込みで証言を集めていこうとするが、トゥイも警官もよそ者、村にはまるで「黒く濁る村」のような、閉鎖的な空気が充満している。リーの上司の警察署長も、村の名誉を守ることが警察の仕事だ、みたいなことを言い、口封じのために村の自警団だったろうか、トゥイを拉致する。そのトゥイを救い出すのがリーだが、そのリーが、何とトゥイを絞め殺してしまうという、最大級の衝撃が待っている。
夫が残したビデオ映像、そこには一緒にギャンブルに興じるリーの姿が映っていたことが暗示されるが、そのリーも首を吊り、トゥイの義父も痴呆の妻と心中してしまう。外国人花嫁トゥイの悲劇に終わらない、韓国の片田舎での様々なできごとが、ものすごい筆圧でぐいぐいと書き殴られていく。やや粗削りだが、よくできた脚本だ。
僕の知識レベルで、スターは出ていないと書いたが、名脇役で知られるミョン・ゲナムが、トゥイの舅役で作品を締めている。俳優活動だけではなく、韓国映画業界の役職も務める人物だったと記憶する。そして、トゥイ役を熱演する、ベトナムから出演している女優はNinh Duong Lan Ngoc。第15回釜山国際映画祭で観たベトナム映画「Floating Lives」(10)で、ダスティン・グエン(Dustin Nguyen)演じる男の、年頃の娘役を演じていた。
さてこの作品、多くの人の眼に触れられるのだろうか。
(2014年4月17日)


nice!(1)  トラックバック(0) 

アジアフォーカス2012/400字レポート⑬ 「バラナシへ」 [韓国]

アジアフォーカス2012/400字レポート⑬
「バラナシへ」(2011) 韓国 チョン・ギュファン監督

無造作に場面場面が並べられ、筋がはっきりしないようにみえて、じつは巧妙にして計算高いのだが、見た目がイケているわけでもない中年不倫男女の本能むき出しの露骨な性描写に観ている側が怯んでしまって、そういう緻密さには最初はなかなか気付けないかもしれない。しかし監督には、自己の演出スタイルに自信と確信があるとみえた。昨年上映の韓国のインディー作品「昼間から呑む」同様に、底力を感じる作品だ。
中年の夫と妻、それぞれが互いに秘めた日々をおくっているまではいいが、そこに、韓国で暮らすアラブの男たちが意外な形で絡んでくる点が、前述した一見にして無造作的な体裁からしても、観客を興奮させるところである。近年の韓国映画には結構に外国人労働者が登場するが、どちらかというと色眼鏡でみられていることに対する人権擁護的な視点の描かれ方が多いように思う。しかし本作はずばりテロリズムで、レバノン出身のムスリムの男によろめいた妻が、バラナシ(インドのベナレス)という、それまで接点もなかった土地へよろよろと吸引されていく様が異色で衝撃だ。
(2013年1月9日)

nice!(0)  トラックバック(0) 

アジアフォーカス2012/400字レポート⑫ 「ダンシング・クイーン」 [韓国]

アジアフォーカス2012/400字レポート⑫
「ダンシング・クイーン」(2011) 韓国 イ・ソクフン監督

お決まりのプロットとシークエンスで勝負しているわりには、コメディとして興行的に成功している作品で、よくまとまっている。選挙戦を扱ってはいるが、たとえば監督ジョージ・クルーニーの「スーパー・チューズデー」のような、社会的なドラマ運びはここにはない。むしろ、夫がソウル市長選、妻が芸能界デビューと、それぞれに頂点をめざす姿を平行線的に描く構図が、選挙の立候補というものはパフォーマンスで、ダンス歌手活動とそれほど大差ないものであるということを再認識させてくれる。人命救助から一躍有名人になってしまったタレント候補を支持するということは、AKB48のようなアイドルに声援を送ることとそう違いがない、ということを。
安定した職を捨てて突然に出馬を決心したことで、夫婦仲が悪くなって離婚に陥るというのは現実としてよく聞く話だが、この作品のように逆に絆が深まるというのはファンタジーだけれども、前述のとおり政治と芸能に大差はないということで、この夫婦については説明はつく。
ところでこの作品は「日韓シネマエクスチェンジ」というプロジェクトにより、T・ジョイ博多で12月8日から2週間、限定公開もされた。折しも韓国の大統領選挙、そして日本でも衆議院の解散、総選挙という絶好のタイミングだった。しかしながら、それを追い風とするような宣伝をしていなかったのは、本作の社会性のなさを悟っての正直な姿勢からだろうか。
(2013年1月8日)

nice!(0)  トラックバック(0) 

第61回ベルリン国際映画祭の短編金熊賞受賞作「ナイト・フィッシング」 [韓国]

今ちょうど、ベルリン国際映画祭が開催中で、それにあわせてWOWOWで過去の受賞作品を放送しているが、そのなかに、なんと昨年第61回の短編金熊賞の受賞作「ナイト・フィッシング」(2011)があった。昨年6月の「ショートショートフィルムフェスティバル&アジア2011」において、「波瀾万丈」というタイトルで招待上映されているが、まさか、この30分ほどの短編が放送されるとは思わなかったので、観られて幸運だった。すごく面白かった!
筋を、前後入れ替えてまとめてみる。ピチャピチャと水をはった桶の中の、イ・ジョンヒョン演じる巫女に、悪天候に釣りに出かけて死んだ男が降りてくる。その男の魂をまつる祭祀が執り行われているようだ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…。シャンシャン、シャンシャン…。男は残された幼い娘のことが気がかりで、巫女の体を借りて、小さい娘を抱き締めて離さない…。いまどきの韓流映画界で巫女を演じられるのは、イ・ジョンヒョンをおいて他にいないのではと思えるほど、恐いくらいみごとにハマっている。
と、短編の前半に話を戻す。釣具を持った男が霧深い森の奥へと入り、川辺で釣りを始める。なかなか魚が釣れず、夜になってしまう。すると釣り竿に付けた鈴がシャンシャン激しく鳴り出し、竿が大きくしなる。しかし男が引き上げたのは何と、ピチャピチャと濡れた喪服姿の女性イ・ジョンヒョンである! 腰を抜かしてしまう男。携帯ラジオからは、付近の大雨予報を知らせるニュースが流れる…。そして場面は前述の、霊呼び出しのトランス状態の儀式へ…。
その両方の場面の橋渡しをするかのように、フレームの中で存在を主張するのは、狂ったようにシャンシャンと鳴り響く鈴の音と、生きているかのようにピチャピチャとほとばしる水。観ていて、昔の韓国映画によく出てきたシャーマニズムの世界が思い出された。その非科学的な神秘性にちょっぴり震えながら観たものだ。この30分の短編にも、それらと同じように、当時ホラーよりも恐く感じた精神世界が、叙情豊かに鮮烈に描かれている。
この作品が特に話題を集めたのは、全編、iPhoneでビデオ撮影して製作しているということだそうだ。けれども我が家の40インチの液晶テレビで観る限りは、そんなことはまったくわからない。夜釣りのシーンはきちんとライティングされているし、クレーンを使ったような俯瞰の絵もある。なによりも映像は高い技術でVFX処理されていて、サウンドや音楽も素晴らしい。
そういう大胆で実験的な映画づくりをしたのは、パク・チャヌク監督とその弟パク・チャンギョン監督(共同監督作品)。パク・チャンギョン監督は、長編作「浄土アニャン」がアジアフォーカス2011で上映されているが、そのなかには、ムーダンや仏教という本作との共通性を見出すことができる。
最近は、短編に限らず長編までも、携帯電話で撮った映画がいろいろ登場してきているようだが、この「ナイト・フィッシング」は、テーマ、表現力、完成度と、ちょっと別格だと思う。
(2012年2月14日)

nice!(1)  トラックバック(0) 

東アジア市民共生映画祭2011(九州大学国際ホール)のレポート [韓国]

昨年と微妙に事業名(前回は「東アジア移住共生映画祭2010」)が変わっているが、昨年、熊本での本祭とは別に、北九州市の九州国際大学(KIUホール)の方でも頑張って運営されていたのを観て感心したので、今年は福岡市が福岡会場だと知って、11月23日、九州大学国際ホールまで足を運んでみた。
前回の北九州では「家族の誕生」の韓国キム・テヨン監督の短編「走るチャウン」が取り上げられていて、中学生の少女とフィリピン人の継母が親子として理解し合っていく様が、「家族の誕生」と同じまなざしで撮られているのだという発見があったが、今年はどうだったか。会期は一日で上映も3本だったので、簡単にまとめよう。
短編がひとつで、ウクライナの「レオニーズ物語」(2011)。1986年4月のチェルノブイリの原発大事故。避難によって数多くの村が消えたが、住民のその後については25年たって、今また多くのマスコミ報道で焦点があてられている。この短編は、レオニーズ一家の場合を、アニメーションを多用して描いた真実である。アニメだけだと、遠い話のようにも見えてしまうが、当人たちも実写で登場するので、現実として伝わってくるところがある。
続く68分のドキュメンタリーは、ドイツの「ソーラータクシーで世界一周を」(2010)。エリク・シュミット監督。太陽光をエネルギー源にして走行できるソーラーカーじたいは、環境問題の範疇だが、これは、それに乗って世界一周しようというエンターテインメント的視点の作品。前の席に座っていたご婦人たちがつぶやいていたとおり、“TOKIOのソーラーカーで日本一周”と基本的には同じ。エコを認識させるのはスタートラインまでで、走り出したら、後は“日テレの海外ロケバラエティ番組”にように、その成り行きを観て笑っておけばよいのだ。
ここまでの2本を観て、今年の映画祭のテーマは混沌としている感じがした。昨年は「移住共生」が明確に伝わったが、今年は「市民共生」だという。昨年とどこが違うのかよくわからないが、自然共生、共生社会みたいな太い話に対して、今年用意された3本の矢は弱かった。
その3本目は韓国のドタバタ娯楽映画「バンガバンガ」(2010)。伊のベルルスコーニ前首相のブンガブンガとは何の関係もなく、昨年までの映画祭テーマの延長線の、不法の外国人労働者たちの話である。就職できない韓国の青年が、その顔立ちを利用してブータン人に成りすますことで、家具工場に何とか就職。そして、そこで同僚のバングラデシュ、インドネシア、ベトナムといった外国人たちの実情を知ることになる。その様子をコミック調に描いたもので、“バンガバンガ”は、彼の考えたブータンのデタラメあいさつ言葉だ。
韓国映画では近年、外国人労働者を扱ったものが目立つと思う。日本映画の場合、密輸だとか裏社会の犯罪映画、暴力映画にまとまっていく傾向があるが、韓国ではそうとも限らない。カザフだとか北とかも含めて、本作のように笑ったり泣いたりできる庶民的なものが案外多い。
これがさらに東アジア各国のスターの顔合わせによるコラボ作品だったりすると、かっこいいアクションものや歴史大作になっていくのだが、この「バンガバンガ」は、韓国の二枚目スターは不在で、出てくるアジア人も皆、普通の素人だ。
監督のユク・サンヒョ氏は熊本会場のゲストだったようで、福岡会場には、同僚役のひとりを演じた、バングラデシュのカン・モハマド・アサヅズマン氏が登場した。この人はプロの俳優ではない一般人で、15年ほど前に韓国に渡り、昨年には韓国籍を取得したとのことだが、いまも普通に建設現場か工場かで働いているそうだ。韓国のテレビ番組ののど自慢で優勝した経験があって、それが本作の出演につながったよう(劇中では何度も美声を披露する場面がある)。
そういうプロフィールの人に、経済格差に抗議するウォール街のデモについて、なんていう質問は相当、無茶ブリにみえた。出稼ぎ労働の実態や青年の失業問題など、専門家でもないご本人にとってはつらい質問が続いたのではなかろうか。だからかもしれないが、歌を何曲も用意してきていて、最後はもう、ティーチ・インというよりも歌謡ショーのようになってしまったのだが、案外そこが、多文化共生を考えるのに、一番のハイライトだった。プロの歌手というわけでもないのだけれど…。
(2011年12月2日)

nice!(0)  トラックバック(0) 

16th BIFFから ~ 核実験が生んだ(?)1967年の韓国映画「怪獣ヨンガリ」 [韓国]

とある国が中東で核実験を行い、それによって起こった地震で大怪獣がめざめ、朝鮮半島の地面下を北から南下してきて、ついにソウルの街に登場! という「ゴジラ」をなぞったような話だが、原発事故が起き、核開発という科学技術への信頼が揺らぐ今だから、日本の特撮映画ブームに乗った、1960年代という韓国映画黄金時代の娯楽映画の一本とはいえ、ある意味、ゴジラから発信された、文明への警告という視点がここにもあったのではないかとあらためて考えてしまう。いまも同様に、福島の原発事故から、世界へと警告が発信されているように。
今年の第16回釜山国際映画祭・韓国映画レトロスペクティブ部門で焦点があてられたキム・ギドク監督(「サマリア」等の監督とは同音名の60年代の監督)のフィルモグラフィーのひとつとして上映された、1967年製作の「Monster Yonggari」を観るにあたっては、わたくしの頭の中では、前記のような意味づけが後から勝手にくっついた(10月8日、Busan Cinema Center内のCinemathequeにて)。
上映プリントは韓国フィルム・アーカイヴからの提供だが、オリジナル版は失われてしまっているのか、使われたのは何と英語吹替え版。よって、登場人物たちが話しているはずの韓国語は字幕投写され、大半の観客は、字幕を追いながら40年以上前のチープな映像とあり得ないシチュエーションに大爆笑しながら楽しんでいた。わたくしも、物語は大袈裟な絵解き展開であるし、吹き替え英語も聞き取りやすく、しかし、ちょっと不思議な感じで、この総天然色(なので粗もみえやすい)の映画を楽しんだ。
さすがに、怪獣ヨンガリの登場するまでの溜めが長い! 宇宙ロケットセンターの所長の娘と、高名な科学者の息子の結婚式から映画は始まり、この息子(宇宙飛行士)は、緊急指令でハネムーン先から呼び戻される(すごく旧式の携帯電話で)。そして彼の乗ったロケットが発射される。特撮は模型で、「キャプテンウルトラ」が思い出される。目的は核実験の監視調査らしいが、彼の乗ったカプセルは一時通信不能になったりして、心配した嫁たちまでがセンターに入り込み、国家施設とは思えないゆるさがある(のちにこの両家の家族は大活躍することになる)。
カプセルが無事に帰還してきて、ほどなく「怪地震対策本部」が設置される。地下深く、大陸から朝鮮半島へと、何かがソウルを目指して移動しているというのだ。地球規模の大惨事を、机の上ひとつ程度の特撮で表現するような、いろいろと安っぽい盛り上げがあって、ついに愛嬌ある顔つきのヨンガリがソウルに登場する。街は戒厳令、ヨンガリは口から火を吐き(ひょっとして放射能?口をあけると噴射ノズルがむき出しで丸見え!)、ビルを壊し、戦車を踏みつぶし、人々は逃げまどう。模型によるソウルの街並みはおそらく、市庁前や南大門。ヨンガリが“北の象徴”として仮想敵になっていることは明らか。神を信じろという宗教者が現れたり、ゴーゴー・クラブで世紀末だと踊り狂う若者たちの姿は、世相を真面目に反映しているはずなのだが、会場は爆笑の連続。
…と、この調子でストーリーを最後まで追いかけていくわけにもいかない。結末を書くと、ラストは「怪獣退治記念パーティー」の会場の場面で終わる。この会場には、小学生ぐらいの少年(新郎か新婦の弟)が立っている。生物学者を夢見るこの少年が、「Monster Yonggari」の主人公で、怪獣退治に活躍するのである。この少年の勝手わがままなというか、勇気ある行動でヨンガリの好物は石油で、弱点はアンモニアだということが分かる。軍は奴を北の方へ誘導し、アンモニア薬品を使って倒そうと試みるが、かゆい程度なのか、ヨンガリは音楽にのってゴーゴーを踊り始める。そして再び南下してきてヨンガリの逆襲が始まる。ならばと、新婚夫妻にその妹カップル、そしてこの少年の家族5人は一機のヘリコプターに乗り込み、開発してパワーアップした薬品を使って、ついにはこの怪獣を退治する!
軍は脇役でしかなく、怪獣と、勇気ある家族の戦いである。少年や妹カップルは、何の違和感もなく対策本部に出入りしているが、そういう馬鹿馬鹿しいところ(この手の物語では、普通の小学生が怪獣や悪者と戦うのが、よくあるパターンなのだけれども)も含めて、何から何まで、現代の韓国の観客たちには大受けだった。
わたくしも、キム・ギドク監督(過去に東京のフィルムセンターで監督作「南と北」の一本を観ただけ)の回顧上映という趣旨はすっかり忘れてしまっていて、初めて入った釜山のシネマテークの新ホールの雰囲気もうかがいながらのタイムスリップ体験となった。
(2011年11月3日)

nice!(0)  トラックバック(0) 

アジアフォーカス2011/400字レポート⑧ 「浄土アニャン」 [韓国]

アジアフォーカス2011/400字レポート ⑧
「浄土アニャン」(10) 韓国 パク・チャンギョン監督

アニャンは、安養と書く人口43万人の都市。ティーチ・インによると、APAP(アニャン公共芸術プロジェクト)という、アニャンのビエンナーレの企画のひとつとして、3か月という非常にタイトな製作期間でパク・チャンギョン監督に発注され、完成したのが本作だそうだ。アニャンを描くという命題で、寺にまつわる歴史や遺跡発掘、過去の工場火災や大雨による水害などのアニャンを表わす場所や出来事を、映像スタッフたちが辿るという設定で、ドキュメンタリー、劇、再現ドラマなどの手法をないまぜにして完成させた。地方選挙や安養川の竜王様の魂をまつる祭祀などは、たまたま製作中に撮ることができたネタなのだろうか。
兄のパク・チャヌク監督(「オールド・ボーイ」)と共同で撮った短編(iPhoneで撮影)で今年のベルリン映画祭受賞も果たしている実力ある監督だけに、やっつけで製作しているようなところは微塵もないが、テーマと納期があらかじめ決まっている芸術プロジェクトという制約だけに、いちいち深読みし過ぎることはどうかと思う。ともかく軽く観て、おもしろかった。着眼点が何となく気をひくし、構成が飽きない。即興性がちょっと感じられるところも逆にいい。料理の鉄人が、アニャンという材料を使って制限時間内に作ったという感じだが、その出来上がったものの味わいが、作るという過程そのものを味わうという二重の仕掛けになっていたところがなかなか憎いと思う。
ちょっと知りたいのは、この作品をパク監督に依頼したAPAP側の感想である。頼んでおいて酷評されてはたまらないが、海峡を越えて福岡で上映されたわけだから、満足されているに違いない。
福岡の街は海外の人たちの眼にどう映っているかというテーマで、福岡市が自治体として、わざわざ韓国のパク・チョルス監督に短編製作を委嘱したことがある。1998年春に完成しているが、そのときはあまり注目されなかった記憶がある。
(2011年10月4日)

nice!(0)  トラックバック(0) 

アジアフォーカス2010/400字レポート⑤「Eighteen 旋風」 [韓国]

アジアフォーカス2010/400字レポート⑤
「Eighteen 旋風」(09)韓国 チャン・ゴンジェ監督

大人へと成長途中のティーンエイジのころに交わす恋愛の行方は、結末として、成就してもしなくても、そこに至るまでの過程はそれなりにドラマになる。30歳すぎのチャン・ゴンジェ監督は、自らの経験をもとにこの長編デビュー作を撮ったそうだ。だから、男子生徒側からの目線が強い物語である。
ガールフレンドと二人だけで一週間の旅行に行ったことが双方の両親にバレてしまい、大学入学まで交際を禁じられたテフンの、彼女との未来を考えつつの、その後の彼の頑張りが描かれる。しかしそれは本当に彼なりの頑張りであって、アルバイトに対しての責任はないし、無免許運転で事故は起こすし、タバコも欠かせない。好青年ではなく、街でよく見かけそうな若者の一人である。女性側ミジュンの心が離れていったとしても、それはそれで成り行きである。
青春映画であれば、若い二人の間にその後どのような折り合いがつくのかが気がかりになるのだろうが、映画も終わりに近づくにつれ、時間が前後したり、省略があったり、夢想なのか何か観念的なイメージシーンになったり、ドラマも終盤になってこそ監督のプライベートな強い想いが出ているのか、わりとはっきりとした物語前半の骨格に比べると、最後の整理が行き届かなかった。それは、観客によっては受け取り方も変わるだろうということを織り込んだ、いさぎよい演出だったのだろうか。
(2010年9月30日)


nice!(0)  トラックバック(0) 

アジアフォーカス2010/400字レポート②「手のとどく限り」 [韓国]

アジアフォーカス2010/400字レポート②
「手のとどく限り」(09)韓国 ハム・ギョンノク監督

舞台は障害者の施設で、登場するのは、自己表現も機敏な動きをとることも難しい障害者たち。これが劇映画と知ってまず驚く(物語は事実がベースになっているそうだ)。主人公の少女キム・スヒを演じたのが、もともとは撮影時の指導者として監督がお願いしていた、障害を持つパク・ジウォンさん。最終的にプロの女優に演技させるのではなく、彼女じしんが役者として登場することになったそうだ。映画祭の舞台あいさつに立った彼女は、本当に映画の中のヒロインの人である。そういうことで、これは劇映画という枠の中で、主人公の人生は紛れもないドキュメンタリーであるということを認識させる力を備えたドラマとして仕上がった。
施設で暮らす彼ら彼女らから、その心の内側をつかむことは難しい。年頃となったスヒは同じ施設の少年ミンスと愛し合っている。二人の気持は、密会に使う倉庫の中での些細な仕草からつかみとれる。しかしスヒの妊娠が発覚したことで、彼女はレイプされた被害者として別の施設に送られる。
スヒを保護して親切に世話をするボランティアたちには当然に善意がある。しかし、その善意が本当の善意になっていない難しさがあることが、わかってしまう。ボランティアという行為が相手の気持ちに届いているのか、自己満足で終わっているのではないかと、観る側を萎縮さえさせてしまうような問題提起もここにはある。少なくともこの映画のスヒにとっては苦痛である。だから彼女は悲鳴を上げ続けるのだ。
エルボールーム.jpg
(2010年9月28日)

nice!(0)  トラックバック(0) 

「東アジア移住共生映画祭2010 in 北九州」のレポート その2 [韓国]

「東アジア移住共生映画祭2010 in 北九州」の九州国際大学(KIUホール)会場で観た中から、もう少し。
「Made in L.A.」(07)は、なかなか痛快な長編ドキュメンタリーだった。舞台は東アジアではなくてロサンゼルス。中間搾取されて低賃金かつ長時間働いている縫製工場の外国人労働者たちが、人気ブランド・Forever 21を相手取って訴訟を起こし、勝利を勝ち取るまでの3年間の戦いの軌跡である。スペイン出身の女流監督アルムデラ・カラセードは、特にマリア、ルペー、マウラというメキシコやエルサルバドルから渡ってきた3人の女性と、彼女らの運動をサポートする縫製労働者センターに焦点を当てている。挫けそうな不利な状況が続く中でも、ラテン系の彼女らはめげない。一着19セントで縫ったブラウスが店頭では13ドルで売られている事実を確認し、不買運動をも起こす。ユニクロなどで100円でも安いものを探して比較して買っている、いち消費者の小生としては、産業の底辺に従事している人たちのことを思うと、ちょっと申し訳ない気持ちにもなってくる。
特に、3人のなかのひとり、ルペーが、労働問題に目覚めて労働者センターの職員に転身し、活動のため世界を駆け巡るようになっていく後半は拍手喝采、感動することしきりである。
この映画に出てくるものではないが、報道で眼にする、米国の外国人労働者デモにおける「私たちが国境を越えたのではない、国境の方が私たちを越えたのだ」のスローガンが、実感される作品である。2008年エミー賞を受賞しているそうだ。
「さよならわが息子」(05)は、特定はされていないが、あるヨーロッパの国へ密航亡命を試みるクルド人の少年と父親の物語である。しかし残念ながら、15分という短さもあるが、この親子の行動、動きを表面的に追っただけもので、心のドラマがそこにはなかった。ラストの、強制送還させられる父と残る息子の別離の場面も、不自然で違和感あり。韓国映画「クロッシング」程のリアルさは望まないにしても…。ノルウェー映画で、ヒシャーム・ザマーン監督。
韓国の短編、ホン・スンヒョン監督による「グッドバイ・テロリスト」(07)は、インドから来た不法出稼ぎ労働者アシムと男性刑事の物語である。
アシムは、以前の勤め先で3年間働いた給料2,000万ウォンが未払いにされている。それを早く取り立て、インドに戻って農業を始めようと計画している純粋素朴な男である。帰国後に使うための農薬を大量に買ったが、帰り道にそれらを入れた鞄ごと失くしてしまう。途中に寄った電器屋のビデオカメラにアシムの姿が映っていたことから、農薬によるテロを図ろうとした東南アジア系の犯人として、警察に追われる身になってしまう。
ところで一人の不良刑事とは奇妙な縁で結ばれていた…。売春婦と密会していて摘発されそうになったこの刑事をアシムが偶然助けたこと、それゆえ不法滞在で捕まりそうになったアシムを刑事が御礼に見逃したことなどが繰り返され、持ちつ持たれつの関係になっていくのだが、それゆえ、テロリスト捜査の中で、ふたりの間に悲劇が訪れる…。
アシムの人物像を、物語展開にとって都合の良いように純朴化し、もて遊んでいるきらいがあって、じつは彼はハリジャンで…とお涙頂戴的にまとめて、出稼ぎ労働者の悲劇と結んでしまうには現実味がなかった。途中まではコミカルな展開があり、シニカルな風刺劇として面白くみえたので、もっと違う、ブラックな終わり方で問題提起して欲しかったなあ。
ところで、この東アジア移住共生映画祭のことを知るために、公式ホームページの過去のアーカイヴを見ていて知ったことがある。以前このサイトで、「Where is Ronny...」と「Bandhobi」という外国人労働者を取り上げた韓国映画2本のことを書いて、それらに出ているハングルを流暢に話す、南アジア系の俳優Mahbub Alam Pollobってどんな人? と記したが、なんと昨年のこの映画祭の第2回に、出品作品の監督として熊本に来ているではないか!
過去のレポート写真をながめていてそれに気づいたのだが、「The Returnee」(09)という、バングラデシュ=ネパール合作の短編ドキュメンタリーを出品しているそうだ。韓国で出稼ぎ労働の後、ネパールやパキスタンに帰郷した人々の、その後を追ったドキュメンタリーだそうである。観てみたい!来年にでも再上映の機会をお願いしたい。
ところで、このMahbub Alam Pollobのことを気にし始めたところ、今年5月に韓国で封切られたばかりの最新映画「City of Crane」もまた、彼の主演作であることを検索していて知った。彼って結構な売れっ子なのかしら? バングラデシュ人である彼が起用されるということは、やはり、またまた外国人労働者の話である。
東アジア移住共生映画祭のテーマとなっている「多文化共生」は、しっかりといまの韓国映画界ではトレンドになっているようだ。この「City of Crane」も、来年この映画祭で紹介されたらいいかも。
とにかく、興味深い視点の映画祭であった。
(2010年7月10日)

nice!(0)  トラックバック(0) 

「東アジア移住共生映画祭2010 in 北九州」のレポート その1 「走るチャウン」 [韓国]

熊本の方で始まった映画祭だそうだが、3年目となる今年は、規模を拡大して北九州市など各地でも開催するという。そのことを北九州大学のホームページで偶然知った。会場のひとつ、九州国際大学(KIUホール)は、小生が生まれ育った地のすぐそばという縁もあったので、ゲストが参加するのは熊本学園大学の会場のみとわかってはいたが、「東アジア移住共生映画祭2010 in 北九州」の方に行ってみた。7月3日の雨の日のことである。
予備知識がなかったため、映画祭の公式HPであらかじめに確認したが、この催しの趣旨は、映画を通して、移住や移民、出稼ぎなどの実態から、多文化共生、グローバル化といわれる今日の社会的課題を考えようというものだそうだ(この前に記した、中国の任書剣監督の作品群もまさにこのテーマに合致している)。
東アジアとしているがこれはおそらくこの事業の影響範囲を示しているだろうもので(映画祭の巡回先には、北朝鮮からすぐそばのロシア・ウスリースクもあって前売50ルーブルとあった!)、上映される作品は、短編、長編とも世界各地から。規模を拡大した今年は、過去2回の上映作品も、会場ごとに選抜してプログラムに盛り込んでいるようだ。
このなかで、昨年4月に今はなきシネテリエ天神で観たドキュメンタリー「女工哀歌」(05)、このホームページでも取り上げた韓国映画「Where Is Ronny...」(09)などは再度の鑑賞をパスしたので、それ以外から、今回観た数本をここで取り上げたい。
韓国の「走るチャウン」(08)は、「家族の誕生」のキム・テヨン監督による、30分ほどの短編作品。一週間前に上映された熊本会場には監督も参加して、作品解説をされたそうなので、そこでいろいろなことが紐解かれたのだろうけれど、その内容を知らないまま、少し自由に書かせていただく。
主人公は、全校で一番足が速いという女子中学生チャン・チャウン。青いジャージで海沿いの田舎町をのびやかに走る姿がとてもキュートな少女だ。ある日、所属する陸上部が解散することになった。コーチはソウルに移ることになり、部員の中にはソウルに転校する者も出てきて、チャウンもそうしたいと漁師である父に転校を切り出すが、強く反対される。チャウンはその反動もあって家を飛び出す。
一方で彼女にはもうひとつの問題もあった。母親は父の後妻で、チャウンとは血がつながっていない。そのこともあって、チャウンからみて継母との間には距離がある。しかも継母はフィリピン人であるため、学校ではフィリピノとからかわれ、疎ましくさえ思う。
しかし、家を飛び出したチャウンを追ってきたのはこの継母で、「ソウルに行こうよ」と、夜通し車を運転してチャウンとふたり、ソウルへ向かう。その道程で、心を通わせ合うという物語である。
とても素直で、情感に満ちた、コンパクトなドラマである。
さてチャウンは、どうして走ることが好きなのだろう。その時間と空間とリズムを、自分だけのものにできるからかもしれない。級友を強引に夕食に誘ったり、趣味でないスニーカーを買ってきたりする母親との生活は、自分のリズムではないから、何だか居心地が悪いのだ。それからすると、ソウルへと向かう夜中のふたり旅は、二人三脚のランニングといったようなものとなった。おのずとそれぞれ、相手の呼吸をダイレクトに感じることになる。
「どうしてフィリピンに帰らなかったの!」「当時3歳のお前が私をつかんで離さなかったからだよ」「そんなの覚えていない!」といったやりとりをし、深夜の陸上競技場に忍び込んで、ふたりで追いかけっこをする…。一夜で、少しだが距離が縮まったようだ。
…ラストシーン。ゴールしたチャウンが見せる表情は、これまでにないじつにさわやかなものになった。
「走るチャウン」の重心が、映画祭のテーマである「多文化共生」にあるかどうかはちょっと疑問である。継母が外国人であることが、この多感なティーンエイジャーの悩みのひとつになっていることは間違いないが、そういうことも含めて、中学生の気持にも素直に向き合うべき、それがこの作品が指している方向だろう。
まあとにかく、今回の映画祭が、この短編の紹介の場になったことには拍手したい。
切り絵風に上手くまとめた、気の利いたアニメの「東アジア移住共生映画祭2010」オープニングタイトルもきちんと作られていて、学生メインで頑張って運営もされたイベントだった。
(2010年7月4日)

nice!(0)  トラックバック(0) 

地方のミニシアターではめずらしい、来日監督の舞台挨拶 「息もできない」 [韓国]

福岡のミニシアターKBCシネマで「息もできない」の公開に合わせて、監督・製作・脚本・編集・主演の五役を務めたヤン・イクチュン監督の舞台あいさつが、封切り二日目の4月25日に行われた。福岡は韓国との交通アクセスがいいとはいえ、地方での上映のために監督を招くとは、配給のビターズエンドもよくこだわったものだ。
世界各地の国際映画祭で絶賛され、韓国内で異例のヒットを記録してインディペンデント映画ブームをつくり、第10回東京フィルメックスでも最優秀作品賞と観客賞を受賞したという一連の前評判は、いろいろなところで語られてきており、この日は、俳優出身のヤン監督の実像が、劇中のイメージとは全く違うらしいという噂に、ただ興味を持って足を運んだ。
舞台あいさつは2回予定されていたが、過去の経験からおそらく2回目は時間どおりに始まらないはず、と思い、1回目を選択したが、告知もされていたので80ほどの席は埋まっていた。舞台あいさつとはいっても、30分弱の観客との質疑のみである。
スポーツブランドのトレーナーとスニーカーという監督自身の服装や、演じたサンフンが劇中でナイキのシューズを履いていたことを追求されたり、また映画で女子高生ヨニの家となっていた舞台は、監督が資金調達のために売却した自宅だったことなどをニコニコと話しながらも、監督の側で30分という枠を配慮してか、質問の内容から離れて、これまでに取材を受けて言ってきたような基本的なことも話題にして、勝手に自由に語ってくれていた。言い換えると劇場側は、始めます、終わりますの合図だけで、それ以外の中身に関することは放り投げていて、すべて監督の切り盛りに任せきりであったともいえる。
客席との質疑だけなので、マニアックな話題だけで終わってしまうのではと最初は心配したが、サービス精神があるのか、頭がいいのか、インタビュー慣れしているのか、いずれにしても、ルックスも含めてヤン監督は、本当にスクリーンの中のサンフンとは全く別のキャラクターであった!
もうひとつの関心事は、俳優を経験した後、映画製作の教育を特別に受けずして映画を撮ったということだったが、演技については「感情のはけ口だった」と振り返り、候孝賢監督の「自分の考えを流れる水ではなく、岩に刻め」という言葉を銘にして、2004年のPIFFと語っていたから、候監督が「珈琲時光」を出品した年で、テオ・アンゲロプロス監督と候孝賢監督の講演会があったがその時のこと? それがきっかけのひとつだったそうだ。
「クソ蝿」という韓国での原題は、ヤン監督の撮りたい世界がストレートに表われていて、いい題名だと思っていた。実際に観ると、撮りたかった世界がみごとに大胆に映像化されていて、クソ蝿にだって家族がいて、そこにも愛があるという監督の生命観が、閉塞した人生そのままに巧みな修辞で映し出されている。しかし上映後に登場した監督の口調はシリアスではなくてむしろユーモアたっぷりで、クソ蝿を「ウンコ・フライ」と言ってみたり、多分どこに行ってもこの調子なのだろうなあという感じで、きっと世界中で温かく受け入れられただろう人柄であった。
舞台に登場するや、福岡の観客を見て、南大門の人たちと雰囲気が一緒だという、ちょっとぼんやりとした印象を語られたが、それは蝿に向けた視線と同じ? と考えるとおかしくもなった。
通訳者は監督の親友の安藤さんと紹介されていたが、意を汲んだ以心伝心的な訳しぶりから、おそらくヤン監督が以前出演した「けつわり」を撮った監督の安藤さんだろう。

話は飛躍するが、その一か月前の3月20日にアクロス福岡・円形ホールで、タイの若手作家ウティット・ヘーマムーン氏の講演会があり、聴きに行った。国際交流基金の主催で、全国4か所での巡回だったが、会場ごとに講演内容が異なるそうで、福岡でのテーマは「叙述の力:事実と虚構の間で」。
プロフィールによると1975年生まれのウティット氏は美術活動もしていて、マノップ・ウドムデート監督の映画「銃口の花」で芸術監督を担当、映画批評も執筆しているということだったので、タイ映画の話も出るものと密かに期待したのだが、それは一切なし。30名ほどを前に、ほとんど観念的、哲学的な話、つまり訳され方次第では退屈ともとられる話をされた。
しかし救いは、逐次の通訳を、東京外大の宇戸清治先生が務められたこと。
ここでは、以心伝心の通訳というよりも、タイ文学の翻訳者として名高い宇戸先生が、あらかじめウティット氏が用意してきた原稿をもとにして準備されていたようではあるが、まるで自分の言葉のように、きちんきちんと美しく訳されていたことに意義があった。
参加者は、参考資料なのか特典なのか、宇戸先生が翻訳されたウティット氏の短編小説集を無料でいただけたのだが、ついでに講演内容も訳文を配っていただければ!と思ったくらいである。
私はタイの小説の実情はもともとよく知らなかったが、日本の若い世代による映画も小説も、近年は個人の内面的な部分に焦点を当てたものばかりであるように、タイの小説界もそうであるようだ。それは東京、バンコクと、話す言葉は違っても、現代人の生活環境に変わりはないということなのだろうと感じた。

ところで。週末の30日金曜日にもKBCシネマに足を運んだ。ここは100席前後の2スクリーンがあって、この日は「息もできない」ではなくて、もう一方の仏映画「オーケストラ!」を観に来たのだが、劇場内には結構な列がもうできていてビックリ。さすがヤン監督の来日効果かと思ったら「息もできない」はわずかの客で、列は「オーケストラ!」の方のもの。それはそれでちょっと焦った。
(2010年5月1日)

nice!(0)  トラックバック(0) 

第2回日韓次世代交流映画祭、雑感。 [韓国]

12月12日土曜日、温泉街・別府。会場周辺には、目立つピンク色の「第2回日韓次世代交流映画祭」のノボリが、道路反対側に同じようにして立っている「わくわく農産品フェア」のそれに負けじと、強く主張している。そこに描かれた映画祭のロゴは、温泉マークの湯気の部分を映画フィルムに置き換えた、なかなか気の利いたデザインだ。
会場となっている別府ビーコンプラザに正面玄関から入ると、40名ほどの人の列がみえた。ちょっと焦って近づくと、それは午後から始まる山田洋次監督新作「おとうと」の招待試写会のためのもので、開演1時間半というのに並んでいるのであった。
安心する。映画祭の方は、奥の方の会議室で昨年と同じようだ。1階が特別企画の歴史映像プロジェクトの上映会とシンポジウム、3階の国際会議室がメインイベントの会場となっている。ほとんどが大学生だろうと思うが、黒いTシャツで揃えたボランティアが多数いる。数としては、主催者としても心強いだろう。最初にちょっとだけケチをつけるが、シンポジウム中、空いた空席に座り込んで遠慮なく私語を楽しんでいる数名がいた。それを抜きにすると、たいへん一生懸命に皆さんは働いていたと思う。
会場に着いて、1階の朝鮮映画「家なき天使」、3階の「ディープ・ブルー・ナイト」、どちらを観ようかと迷う。どちらも過去観ているが、ここはアン・ソンギ登場に向けて気分を高めるために、何度も観てはいるが「ディープ」の方を選択した。DVD上映だったが、こなれていない文体で誤字も目立つ日本語字幕が非常に気になった。(一例をあげるとフィリピン→ピリフィン)
12日に行われたアン・ソンギのトークショーと総合シンポジウムは、別に記録としてまとめたので、ここでは省略。
その間に上映された「人情事情お構いなし」は、10年前になるが第4回の釜山国際映画祭で観た。釜山でロケされたという最初の階段の場面を、今でも鮮烈に覚えている。後年、日本のテレビ地上波の深夜枠でも観たが、今回の解説によると、韓国オリジナル版と日本公開版は少し違うそうで、この度は韓国版の上映となるそうだ(一応、すでに両方観ているつもりだが、違いはわからない)。邦題を日本公開題の「情け容赦なし」としなかったのはそのためなのだろうかと、勝手に解釈した。
翌13日。朝に上映されたキム・ギヨン監督の「下女」は、上映盤と同じ映像資料院のDVDを持っているのでパスして、映画評論家シン・ガンホ氏を会長とする韓国映画評論家協会(1965年創立)3人のメンバーによる座談会「’09年~韓流シネマ総ざらい」をまず拝聴。それぞれのトークをまとめると、2009年韓国映画界の大きな特徴として、①作品の多様性が広がった ②インディペンデント映画の躍進 ③ブロックバスター映画の登場 があげられた。
様々なジャンルの一例としては、前年ヒットしたハンドボール映画「私たちの生涯最高の瞬間」に続いて、09年はスキージャンプ映画「国家代表」、重量挙げ映画「キングコングを持ち上げる」が作られ、これまでテーマとして死角であったスポーツ映画が人気を集めたそうだ。「国家」と「キングコング」の2本は、この日午後から上映されたが、テーマ性からいっても、組み合わせの良い二本立てだったと思う。
インディペンデント映画は、李明博大統領も観て涙したという300万人動員のヒット作「牛の鈴音」を筆頭にして、国際的にも注目された「昼間から呑む」「息もできない」などがブームを起こした。
興行成績としては、ハリウッドにも対抗できるようなCG技術の向上によって韓国映画界でも挑戦可能となった災害映画で、「海雲台」が観客動員1000万人を突破。(筆者注:年末に調べたデータでは「グエムル~漢江の怪物」「王の男」「ブラザー・フッド」に続く歴代4位を記録したそうだ)
このような内容で1時間ほどの駆け足で“総ざらい”が行われた後、午後から、この評論家協会が設けている映画賞である第29回韓国映画評論家協会賞の受賞作品として、前述の「国家代表」(監督賞)と「キングコングを持ち上げる」(男優賞)がプリント上映された。「キングコング」は第22回東京国際映画祭で取り上げられた注目作である。
その二本立て上映の合間には、「韓国映画の旗手、大いに語る」と名付けられたトークショーも行われた。舞台に登場した「国家」のキム・ヨンファ監督と「キングコング」主演のイ・ボムスは、韓国中央大学映画演劇学科の先輩後輩という間柄もあって内輪話もあり、満席ではなかったが、全国から集まったという韓流ファンを中心とする観客にはとても温かく迎えられていた。
昨年もこの日韓次世代交流映画祭には足を運んだので、その第1回のときに感じた欠点が、今回はきちんと修正されていて、成長が感じられたことをまず書きたい。そのうえで、さらなる飛躍の可能性がある第3回のために、気になることを書く。
運営スタッフの中核となっているのは、おそらく韓国映画を相当観ているエキスパートの方々。筆者は、国際理解のために地域的にできるだけ広くを信条にして映画を観ているので、韓国映画の知識はおそらく彼らの足元に及ばないだろう。受付では手作り感のある資料なども配られていて、その熱意は十分感じられた。ただ、韓国映画に対して盲目的になっていて、日本映画に対しての気配りが欠けているのではと感じた。
シンポジウムやトーク、座談会などで。進行役のひとりが「日本では、大御所監督が役者を指名して映画を撮ることが主流だが、韓国ではいかがか」というような質問をされたが、日本映画界についての分析は、果たしてそれでよいのだろうか。また別の進行役が、韓国の映画教育に関する質問をされていたが、日本の状況を、まず例として簡単に観客に対して示すことはできなかったか。アン・ソンギ氏が日本と韓国の映画収益(興行とDVD)の差を指摘していたが、これを補足するものとして日本側からもコメントはできなかったのか。
韓流ブーム以降、韓国映画が日本においては特別な存在ではなくなった今日でも、日本人がしっかりと韓国映画を観ること、知ることで国際理解、国際交流にはなる。しかし日本の文化もきちんと理解して押さえたうえで韓国文化に触れてこそ、よりその意味が増すのではないだろうか。オタク的にコリア、コリアと偏重しすぎては、「日韓」とか「次世代交流」と呼ぶよりも、「韓国映画フェスティバル」という方が相応しくなってしまう。
映画祭ゲストでは日本から唯一の小栗康平監督が、シンポジウムにおいて、日本でいう国民的俳優と韓国でいう国民的俳優には違いがある、と述べられた時に司会者が、それは重要な視点です! と声を上げていたが、主催者としてもきっとその点は痛感されたことだろう。
そういう意味で、当初ゲストとして予定されていた映画評論家の佐藤忠男氏が、ご都合でキャンセルとなったことが残念。来年こそ是非。
(2010年1月6日)

別府のぼり.JPG

ボムス2.JPG
nice!(1)  トラックバック(1) 

第2回日韓次世代交流映画祭/総合シンポジウム [韓国]

第2回日韓次世代交流映画祭/総合シンポジウム(12月13日)抄録

キム・ジョンウォン(映画評論家) 自分は、アン・ソンギとともに映画の道を歩んできたといえます。特別な縁が、彼との間にあったと思います。アン・ソンギの5歳のころのデビュー作であるキム・ギヨン監督の「黄昏列車」を観たのは、私が大学2年生の時でした。このころから書き始め、1959年に評論家としてデビューしたのですが、その時に取り上げたのはアン・ソンギが7,8歳の頃の作品「十代の反抗」で、仏映画「禁じられた遊び」と対比して論じました。つまり、私とアン・ソンギとはデビュー時期が一緒なのです。
ですので、映画をとおして彼を観るときは、いつも同級生の感覚でいます。2007年に、彼と私はともに50年を迎えました。
アン・ソンギは世界の映画史の中でも、例のない存在だといえるでしょう。ジェームズ・ディーンもナタリー・ウッドも長くは活躍できませんでした。エリザベス・テイラーは7回も離婚していますが…。
彼は150本余りの映画に出演しています。ジャン・ギャバンは90本ぐらいですが、アン・ソンギがずば抜けて多いということはありません。韓国では、シン・ソンイルが500本以上の作品に出演している人気俳優でしたが、絶頂期はそれこそ何本もの映画を掛け持ちしていて、自分でもどの作品の撮影をしているのか、わからなくなることもあったそうです。
一方でアン・ソンギは役を慎重に選んで出演しています。子どもの頃からずっと続けてこられたのは、才能だけではなく、努力と、そして誠実さがあったからです。そこが、彼が国民的俳優となったポイントです。子役としての俳優活動と並行して、教育を受け、軍隊も経験し、国民としての道を同時に歩んできたのです。

パク・チュンフン(俳優) 私の役者歴は24年で、アン・ソンギとヨン様に挟まれたサンドイッチ状態の世代です。そんな私の次回作はイム・グォンテク監督の101作目にあたる最新作です。
さて、アン・ソンギは素晴らしい俳優ですが、手本にすべきとは考えません。何故なら自分とは異なる性格をもった役者だからです。スポーツは0.01秒を争う世界ですが、演技というものはそうではありませんから。役者が持つ質感はそれぞれ違うのです。
真面目すぎてどうしようもないと思うときもありますが、私は、誠実であるアン・ソンギが大好きです。
私は85年にデビューしました。カラーテレビが登場してきた時代で、当時の映画界は大打撃でした。検閲制度もまだあって悲惨な状況で、離れていく映画人も多かったのです。いまなら映画に進出したいと考える俳優が多いでしょうが、そのころは逆で、みんなテレビの世界に憧れていたのです。そのような環境であるにもかかわらず、アン・ソンギは映画界にとどまり続けました。
「チルスとマンス」「トゥー・カップス」「情け容赦なし」「ラジオ・スター」と、過去に4回共演しましたが、とにかく彼は誠実です。
華やかさはないが、つねに観客とともに呼吸をしている。アン・ソンギは、フランス料理ではなく、みそ汁のような存在なのです。いつも人々から意識的に求められているものではないけれども、ないと非常に困る、そのような存在です。

小栗康平(映画監督) 今回の映画祭のように、社会や歴史の中で、ひとりの俳優について考えるということが、果たして日本の俳優についてできるでしょうか。この大きな差が、アン・ソンギという存在なのです。ではなぜ可能なのか。国民的俳優といういい方がありますが、韓国でいう国民的と、日本でいう国民的には違いがあります。日本でいう場合の、よく知られているという意味とは、背景が違うのです。
韓国映画は、時代の中で生きている意味を追求しています。ですから、アン・ソンギは激動の時代の中でつながって生きていて、時代全体の中にアン・ソンギがいるのです。日本でそうはならないのは、日本映画界そのものが社会全体の中で捉えられていないからです。
アン・ソンギに出演していただいた「眠る男」を監督した95年当時は、韓流ブームはなく、日本映画も韓国内では禁止されていました。そのころ、アン・ソンギとは各地の国際映画祭などでお目にかかるようになっていました。「眠る男」での彼の役は、動きもセリフもなく、ただ横になっているだけです。しかしこの役については、とにかく美しい人に寝ていてほしいと考えました。そしてその美しさを私が必要としているとき、アン・ソンギに象徴させていた韓国社会があったのです。出演にあたっては、イム・グォンテク監督やイ・チャンホ監督を通してお願いしました。
完成後は、96年の第1回釜山国際映画祭で招待上映され、公式に公開された、戦後では初の日本映画となりました。日本人が撮ったという理由でこの映画を韓国人が観ないのであれば、それは韓国人の恥である、と当時、アン・ソンギには言っていただきました。

イ・ミョンセ(映画監督) 昨日のトークで、「情け容赦なし」がアン・ソンギの映画人生を変えた映画だと言われていましたが、私にとっては、アン・ソンギとは助監督時代から数えて9作目でした。初めは「刑事手帳」というタイトルでシナリオの準備をしたのですが、途中で変更し、アン・ソンギとパク・チュンフン共演の企画としました。
アン・ソンギは、国民的俳優と呼ばれるのは好きではなく、俳優は役柄ごとに生まれ変わっていくことを認められてこそ、と語っていましたので、「情け容赦なし」の主役ではない役を提案した時、彼の表情が暗くなったのを、私はどうも見逃してしまったようです。ですから、いま思えば肯定とも否定ともとれるような返事だったのですが、私はそのとき快く引き受けてくれたものとばかり思い込んでいました。
ですので、製作発表の当日、彼から出演は無理だと言われた時、大きなショックを受けました。何とか説得しようと考え、発表会会場のパラダイス・ホテルで話し合おうとしました。会場のスタッフにはアン・ソンギが逃げ出さないように見張るよう指示し、個人的な事情で急に出演できなくなりましたと記者の前で言ってもらってもいいから、と彼に話しながら、それなら誰を代役にしようかとまで頭の片隅で考えていました(パネリストのパク・チュンフンがその話は初耳です!と声を上げて驚く)。
製作発表では、私、チャン・ドンゴン、チェ・ジウ、パク・チュンフン、アン・ソンギの順で座り、私は彼のコメントを心配して待っていました。しかし本番では、後輩たちとこのような映画をやることができてうれしく思う、と突然に態度が変わり、明るい表情になりました。なぜ気持が変わったのかは、いまでもミステリーです。パク・チュンフンとの共演だったからでしょうか、チェ・ジウが恋人役だったからでしょうか。いまもまだ、アン・ソンギにはその理由を確認していません。

パク・チュンフン イ・ミョンセ監督の話は、いま初めて聞いたことです! 確かに製作発表の直前、アン・ソンギの表情が暗かったことを覚えています。人生を軽く生きていくのは問題ですが、真面目すぎるのも駄目。アン・ソンギには、心を武装解除して生きていってほしいです。

キム・ジョンウォン 「情け容赦なし」の秘話は、私も初めて聞きました。韓国でも知られていない話です。アン・ソンギは常に配役を選んできました。韓国映画では服を脱がない俳優はいなかったが、アン・ソンギはほぼ例外です。「暗闇の子供たち」では尻を出していますが…。悪役もほとんどやっていません、「情け容赦なし」が例外です。

イ・ミョンセ この秘話には意味があります。当時、アン・ソンギはちょうど頂点にいた時期でした。何か難しいかというと、後輩にそのポジションを譲るタイミングです。永遠だと思っていたとしても、手放すときは来るのです。それを決断したから、製作発表では明るい表情になったのでしょう。あれ以来、アン・ソンギはさらに強くなって、いろいろな役に挑戦してきました。手放すことによって自由になったのです。

2009年12月13日/別府ビーコンプラザ・国際会議室
進行:下川正晴(映画祭ディレクター)

(2009年12月22日)

IMG_0759.JPG
nice!(0)  トラックバック(0) 

第2回日韓次世代交流映画祭「アン・ソンギ、アン・ソンギを語る」のレポート [韓国]

第2回日韓次世代交流映画祭/特別トークショー 「アン・ソンギ、アン・ソンギを語る」(12月12日)

まず、「下女」「誤発弾」といった作品に出演された、子役時代の1950年代についてお聞きします。

すでに忘れてしまっている話です(笑)。当時は朝鮮戦争が終わったばかりで、社会的にも厳しい状況でした。映画に出るようになったきっかけは、父の友人にキム・ギヨン監督がいて(記録者注:アン・ソンギの父親も映画界にいた)、自分の作品にと招かれたことです。演技が上手いということで評判になって、その後も声がかかるようになりました。1960年代は韓国映画の最盛期ですが、50年代はその準備期だったといえるでしょう。

1960年代が韓国映画の最盛期だったことについて、どう分析されますか。

製作本数がまず多かった、年間200本ぐらいでしょう。今が70本前後ということを考えると、当時の人口や経済状況からみても、まちがいなく最盛期だったといえます。テレビも普及しておらず、スポーツも馴染まれていない時代で、娯楽の中心は映画だったといえます。製作本数が増えれば、監督や俳優の数も多くなり、そのなかで優れた人材が出てくるのは当然でした。
60年代の韓国映画界といえば、シン・サンオク監督は外せません。監督の会社シン・フィルムには120人もの従業員がいて、いわゆる大企業でした。当時の日本映画界といえば世界にも影響を与えるくらい優れていたと思いますが、当時香港で見かけた日本のロケ隊と比較しても、シン・フィルムは引けを取らなかったのではないかと思います。

一時期俳優活動を中断し、大学を卒業して再開された経緯を教えてください。

子役をやっていたのは5歳ぐらいから中学生ぐらいまでです。それは高校からはまわりの友人のように勉強したかったということと、実際、映画製作の現場には、幼い子ども役に比べると高校生役が少なかったこともあると思います。
けれども、勉強したいという気持ちはあったが、それまでが休みがちだったので基礎ができていなくて、成績は上がりませんでした(笑)。そのためか大学入試では二浪しました。数学が苦手で、数学が入試科目にないところをと探して、あったのが韓国外国語大学でした。不幸にも自分が受験するときには数学も科目に加わったのですが、何とか入学できました。
専攻はベトナム語にしました。当時はベトナム戦争の時期でしたが、ベトナム語を専攻することで、自分の未来がうまく設計できるのではないかと考えたからです。自慢になりますが、大学では頑張ったので、首席で卒業できました。大学在籍中に軍隊訓練を受けることで、卒業後に将校になれるROTCという制度があったのですが、卒業するころには韓国軍はベトナムから撤退してしまい、ベトナムに行くこともできませんでした。また戦後にベトナムが共産主義化してしまったため、語学を活かした、ベトナム関連の就職の道もなくなってしまいました。
そこで、自分の才能は何かと、改めて考えることになりました。その結果、映画の道に進むことになったのです。92年の東京国際映画祭でグランプリを獲った「ホワイト・バッジ」の撮影で、ベトナムに渡るという夢は叶いましたが、これはじつは、チョン・ジヨン監督に原作本を読ませて、映画化を強く希望したからなのです。
1970年代に卒業して、2年間の葛藤ののち、脇役として4本の映画に出演しましたが、イ・チャンホ監督の「風吹く良き日」に出演できて以来、俳優としては順調といえるでしょう。
人生を振り返ると、私を俳優にするために、ベトナムは共産主義国家になったと思いますので、申し訳ない気持ちです(笑)。

軍隊経験が俳優業に活かされたと聞きましたが。

「シルミド」で隊長役を演じたときに、敬礼を受ける姿がさまになっているとカン・ウソク監督から言われましたし、「光州5.18」でも役立ちました。

若手から中堅として活躍された1980年代ですが、労働者や移民、障害者などの役づくりについて、エピソードなどをお聞かせください。

韓国では、80年代に入るまでは政治的に抑圧された時代であり、言いたいことが言えない時代でした。映画人にとっても、暗黒期と呼ばれています。朴正煕大統領が亡くなってから時代は少しずつ変わりましたが、70年代は表現の自由が許されていないため、恋愛映画が中心で、ホステス映画と呼ばれるものが主流でした。女性が主人公の映画で、男優はそれを支える役にすぎなかったのです。ですので、80年代に入って、主役が演じられる男優の数は少なかったと言えるでしょう。そういう時期に、「風吹く良き日」に主演できたことは、自分にとっていいチャンスでした。
80年代に入り、それまでは作れなかった、現実を反映した映画が撮れるようになり、それらに出演することになりました。男優の人材不足ということもあって、私はいろいろな役に挑戦できたというところもあります。イ・ビョンホン、チェ・ミンシク、ソン・ガンホ、チャン・ドンゴンと、今の俳優は皆それぞれのキャラクターを持っていますが、80年代には、今のようないろいろなキャラクターの俳優がおらず、私は様々な役を演じることに迫られたのです。いまはキャラクターに深みを出さないとやっていけない時代ですが、当時は深みを追求する環境にはありませんでした。
93年にフランスのアミアン国際映画祭のディレクターが私の主演作10本を観て、多面性に驚いて、私の7作品の特集上映を組んでくれたこともあります。
振り返ると、80年代は、70年代にできなかったことをやり、90年代につなげる時代だったといえるでしょう。

「ノーウェアー/情け容赦なし」が俳優人生の転換期とおっしゃっている意味を教えてください。

映画では通常、全体の120シーンのうち100シーンぐらいは主役の場面です。けれども、この映画では私の50シーンぐらいしかありませんでした(記録者注:セリフもない役である)。シーン数だけをみれば、主人公ではなく脇役だったのです。ですので、なぜ私に出演依頼があったのかという疑問がわいたのですが、監督が求めている俳優像を認識して、結果として出演を決めました。映画はヒットしましたし、私自身も大きなものを得られたと思っています。
この役に求められているものは、存在感の大きさでした。これまでに頂いた主演賞の数は、韓国では私がトップだと思いますが、これからは、深みを追求し、存在感を持った俳優として生まれ変わる必要があると感じさせたのがこの作品でした。

「ラジオ・スター」のマネージャー役はいかがでしょうか。

自分の映画人生において、一番好きな作品はどれかと問われるとしたら、難しい質問ではありますが、近年の作品に絞ると「ラジオ・スター」だといえます。
役の持つ人間的魅力もありましたが、共演のパク・チュンフンがいてこそ、調和のある演技ができたのではないかと考えます。実際、芸能人のひとりとして、私が演じたようなマネージャーが実在することも知っていますし。パク・チュンフンと私は、ウォンビンやピと違って古いタイプの人間です。だから役柄にも共感できたのでしょう。この映画は、大事件は起こりませんが、小さなエピソードを積み重ねて、人間の内面をよく表現した作品だと思います。
ラストシーンについてのエピソードがあります。当初は、パク・チュンフンの顔のクローズアップで終わる予定でした。けれども、私としては、最後を二人のシーンにしたいという想いがありました。ですので、大粒の雨を降らせて繰り返し撮影しているなかで、私は彼に向かってパッと傘を差し出しました。結果的に監督からOKをもらいました。

50年以上の俳優生活を続けてこられた秘訣や気をつけていることを教えてください。

ベトナム語に関係した仕事をあきらめ、映画界に入ることになったとき、一生をかけてやっていかなければならないという考えがありました。一喜一憂しないこと。一喜一憂していては続けていけない!ということを強く心に留めました。
一番大切なことは、最善を尽くすという姿勢だと思います。演劇は、観客が目の前にいるので、反応がわかってすぐにフィードバックすることができます。しかし映画は撮影してから公開までに1,2年かかりますので、フィードバックすることが容易ではない。観客の眼は、しかし正確です。ですから映画に対する誠実な想いを変えないことが重要です。
俳優仲間とよく話すのは、初心を忘れずに、変わらないでいようということです。

テレビでの活動について教えてください(観客)。

私は映画しかやっていません。80年、81年にテレビドラマで犯人役をしたくらいです。そのときに、自分はテレビには合わないと思いました。映画は、製作の段階から係わることができるので、監督と呼吸をあわせて作ることができます。映画はひとつのことを深く考えることができるのです。一方でテレビは時間に追われます。スケジュールの融通もきく映画の方が、私には合っています。
しかし鑑賞方法としては、映画もDVDとなると、テレビドラマと同じになってしまいます。私としては、劇場という空間での映画との出会いを、皆さんには大切にしてほしいと思います。

演じている役柄と実際の自分が混ざってしまうことはないのでしょうか(観客)。

それは、実際の自分が、キャラクターとして出ている映画はあるかという質問にもなるでしょう。そういう意味では、セリフを覚えるのに楽な作品がありました。「ラジオ・スター」のマネージャー役です。

韓国映画界で今、問題になっていることは何でしょう。俳優のチョン・ウソンさんが危険な撮影が無保険だと言っていましたが(観客)。

昔は確かに危険なシーンに保険がなく、スタントマンが亡くなるということもありましたが、今は問題ありません。
じつは、パク・チュンフンと共同委員長となって、今、海賊版追放キャンペーンをしています。日本では映画利益について、興業収入が15%で、放送やDVDの収入が85%の比率だと聞きますが、韓国では逆です。DVDなどの収入が伸びないのです。何故かというと、違法ダウンロードがあるから。10月から韓国では、有名スター総出演のCMを流しています(筆者注:今年の釜山国際映画祭の上映会場では流れていた)。グッド・ダウンローダーになりましょう、というとても明るいCMに仕上がりました。

新作のことなど、これからの予定についてお聞かせください。

今年の4月から6月にかけて撮影したのが、「フェアー・ラブ」です。本当に久しぶりのラブ・ストーリーでした。相手役は、イ・ハナという才能ある女優さんです。
カメラの修理職人の役で、友人が亡くなるときに、娘をよろしくと頼まれてしまいます。50年間カメラだけと向き合ってきた男が、30歳も年下の女性と下手くそな愛を始めるというストーリーで、韓国では年が明けて、1月公開の予定です。
それから、東京フィルメックスで会ったニューヨーク在住のイラン人の監督(記録者注:アミール・ナデリ監督)が新作を日本で撮影したいということで、オファーがきている状況です。この話が決まれば、また日本の皆さんとお会いできると思います。

別府ビーコンプラザ・国際会議室
聞き手:大塚大輔(映画祭コーディネーター)、益田宏美(映画祭コーディネーター)

(2009年12月17日)

ノーウェアー.jpg
第4回釜山国際映画祭で観た「ノーウェアー/情け容赦なし」(99)
ちなみに第3回のオープニング映像はイ・ミョンセ監督作だった

シルミド.jpg
明洞で封切り数日目に観た「シルミド」(03)

ラジオスター.jpg
「ラジオ・スター」(06)は第21回福岡アジア映画祭で観た

フェアーラブ.JPG
第14回釜山国際映画祭で上映された「フェアー・ラブ」(09)

gooddownloader.jpg
韓国の映画館に置かれていた「グッド・ダウンローダー」キャンペーンのチラシ

IMG_0750.JPG
nice!(0)  トラックバック(3) 

アジアフォーカス2009/400字レポート⑤「GO GO 70s」 [韓国]

アジアフォーカス2009/400字レポート ⑤
「GO GO 70s」(08)韓国 チェ・ホ監督

今年の映画祭の“顔”と目されるオープニング上映作品。日本初上映となっているが、すでに日本国内でもDVDがリリースされ、CS局でも放送済みの2008年製作の韓国映画である。よって日本初とは言いがたいのだが、かと言って、韓流フリーク以外はおそらく誰もそのことを認知していないと思われるところが、ブームの去った今の韓国映画の直面している現実だろう。ともかくフィルムとしての公開は今回が初であり、70年代に実在した人気6人組バンド、デビルス(Devils)の、チョ・スンウやシン・ミナが繰り広げるライブ・シーン、ゴーゴーダンス・シーンをスクリーンで体感できることは、特筆可能な点だ。
当時、韓国は軍事政権の下、退廃的な風俗文化が厳しく取り締まられ、夜間の外出も禁止されていた時代。日本のグループサウンズ黄金期(例えば映画「GSワンダーランド」の世界)と比較して観ることができるのは興味深いところだが、本作の力点は、若者たちの熱い生き方に焦点をあてたエンターテインメントの方に置かれているので、描かれる社会の切実さがちょっと軽くみえてしまう。これが現実だったと信じてもらえるだろうか。
(2009年10月1日)

nice!(0)  トラックバック(0) 

日本統治下の朝鮮映画「兵隊さん」(1944)の日本初公開 イン 九州大学 [韓国]

日韓併合から数えて来年が100年。だからというわけではないと思うが、7月18日に九州大学の大橋キャンパス(旧九州芸術工科大学)で、日本統治下の朝鮮映画についてのシンポジウムと映画上映が行われたので出向いた。韓国映像資料院(KOFA)の協力によるもので、2006年8月21日に中国でその存在が確認されたフィルム「兵隊さん」(1944)の日本初公開を中心とするイベントで、形態としては、昨年11月に別府で行われた「日韓次世代交流映画祭」のKOFAアーカイヴ特集に近いところがあるようだ。
冒頭まず、全体テーマの掴みには適当だと思われる、NHK教育で今年4月に放送の「韓流シネマ~抵抗の軌跡」の第1回が参考上映されたが、これはこのホームページでも先月に取り上げた番組である。
さて私は、“発掘された映画”としてはこれまでに、復刻のDVDシリーズで「迷夢」(1936)「軍用列車」(1938)「漁火」(1939)「志願兵」(1941)「家なき天使」(1941)「半島の春」(1941)「朝鮮海峡」(1943)と観てきた。今回の1944年作品の「兵隊さん」は、順序としてもいよいよ太平洋戦争末期のプロパガンダ映画ということになる。
当時の半島では1938年に志願兵制、1940年に創氏改名、そして1944年8月に徴兵制公布と進んでいき、この「兵隊さん」は1944年6月22日に軍のリクルート映画として封切られる。「志願兵」が朝鮮語の台詞で日本語字幕付き作品だったのに対し、「兵隊さん」になるともう日本語作品である。
監督の方漢駿(パン・ハンジュン)は1906年生まれ。松竹蒲田撮影所などで技術を習得し、国策映画4本を含む7作品を発表後、朝鮮戦争勃発時に北朝鮮に拉致されたということだ。
この日、上映会に来ていたお客さんには、戦争経験、なかには軍隊体験のある方も結構いらっしゃったようだ。小生はもちろん戦争を知らない世代だ。多く観てきた戦争映画(ドキュメンタリー含む)を通して、どちらかというと反戦というバイアスのかかった戦争をみてきた立場だ。だから戦争を直接知っている方に、この映画の信憑性その他その他を語ってもらうのが一番適切だと思う。私めには、“当時の軍隊はまさにこうだった”とか、“こんな嘘っぱちな表現なんかしやがって”などと言い放つ資格は何もないので。
客観的に筋だけを追うとする。
善基という青年の一家に、総督からの手紙が届く。徴兵を知らせるものである。これはもったいない、光栄だと母親は恐縮し、善基は祝福されながら二等兵として陸軍第三内務班に入営する。煙草も食事も、軍の中ではたいへん恵まれていて、家族的な雰囲気である。日曜ごとに面会ができて、交替で外出も可能。善基の実家は裕福らしくかなりの豪邸なのだが、彼は一時帰宅しては、自宅のソファセットに深く腰掛け、クラシックレコードを聴きながら紅茶をすすっている。一方で同僚には貧しい村の出身の瑛一がいるが、実家の父親の具合が悪いという連絡が入るや、彼は48時間の外出を上官から勧められ、見舞品のモナカまで父親に届けられる。その心配りに感激した瑛一は、戻った村で、軍の素晴らしさについての大演説を行うのである。
そして…、植民地朝鮮の青年たちは進軍していくことになる。映画の半ばには、李香蘭や朝鮮、日本の当時名立たる音楽家たちの歌や演奏の場面が、慰問公演という形で結構長めに出てくるところがあって、映像作品としてのお楽しみの部分でもある。
私は、別の機会に、九州大学の20分位のプロモーション映像(我が大学は学問研究の場としてたいへん優れていますよというPRもの)を伊都キャンパスの施設・ビッグオレンジで観たが、宣伝という目的では「兵隊さん」と同系列のものであり、これらに誇張された表現が付き物であることは、良識ある観客には納得済みのことである。「兵隊さん」だって、当時からそうみられていたことには間違いなく、誰も“騙されない”し、これによって何か効果があがったというものでも決してない。ただ、まあ、よく“お役所仕事”とはいうが、戦意高揚という政策のために作られたものとしては、映画としてきちんとした仕事をしていると思う。
今回のポイントは、日韓史においての国策映画の存在とその役割を分析することにあった。だが何より、この発掘フィルムに対峙して、当時を撮った数少ない映像資料のひとつとしてその内容を確認できたことが、日韓史を知るうえでの参考となった。
この日は続けて、別の場所で北朝鮮映画を観るために早足で移動したが、そちらについては、先にこのサイトでふれてみている。
そして話題は変わるが、NHK教育の「韓流シネマ~抵抗の軌跡」ではインタビュー出演もされていた、兪賢穆(ユ・ヒョンモク)監督が6月28日に84歳でお亡くなりになった。悲しいとしか言いようがない。1999年の第4回釜山国際映画祭では韓国映画界の重鎮として特集上映され、その時に会場で握手していただいたのが、今はありがたい思い出である。
その時の特別カタログを読み返し、特集上映を記念して製作されたドキュメンタリー「Pathfinder of Korean Realism / Yu Hyun-Mok」のビデオをもう一度観た。50年にもわたる足跡があり、よく研究もされている大御所であるだけに、日本でも改めて、ユ・ヒョンモク監督の回顧イベントをやっていただきたい。
(2009年8月12日)

※「兵隊さん」は朝鮮時代の映画だが、フィルムソースが韓国映像資料院であるため、便宜上、韓国映画のカテゴリーに入れた

CCF20090802_00001.jpg
「Pathfinder of Korean Realism / Yu Hyun-Mok」のビデオパッケージ


nice!(0)  トラックバック(0) 

韓国映像資料院によるDVDリリースはとてもありがたい。どんどん出してほしい! [韓国]

NHK教育で夜に、「知る楽」という知的好奇心をくすぐる、30分ほどの番組が放送されている。曜日ごとに、月単位でひとつのテーマを、専門家が紐解いていく。もう放送はすべて終了したが、4月28日からの毎週火曜は全4回で、映画プロデューサーの李鳳宇氏が「韓流シネマ~抵抗の軌跡」というタイトルどおり、韓国に渡って映画人たちを訪ね、朝鮮半島の歴史に重ねながら、韓国映画(朝鮮映画)の作り手の熱意や挑戦に迫っていくものだった。
時代を「植民地時代」「朝鮮戦争」「民主化」「新時代」に区切った放送だが、特に「第1回:それはアリランから始まった」を観たことで改めて強調したくなったのは、フィルム保存機関の重要性である。番組では、民衆の絶大な支持を得たナ・ウンギュ監督、主演の幻の映画「アリラン」(1926)を語るにあたり、「避幕」「糸車よ糸車よ」のイ・ドゥヨン監督による2003年のリメイク版が使われた。
日本の統治下で作られた国策映画には、当時の映画人の複雑な想いが見え隠れしているのだと思うのだが、それらのフィルムの多くは失われてしまっている。
近年、北京の中国電影資料館で見つかった「軍用列車」(1938)「志願兵」(1941)などの7作品を復元した韓国映像資料院が、それらをDVD化して販売しているのは、たいへん貴重で有意義な活動である。おそらく“発掘”したフィルムを復元したり、その後の保存を進めていくうえでデジタル化は必須なのだろうが、売り出してもらえることはありがたい。発売されるたびに小生も購入し、日本にいながらにして観るわけだが、劇中に登場する日本語や日本語字幕にふれるにあたっては複雑な思いである。
番組でも取り上げられていたホ・ヨン(日夏英太郎)監督の「君と僕」(1941)は、この春の東京国立近代美術館フィルムセンターの上映会「発掘された映画たち2009」でも紹介されていたけれども、20分ぐらいの部分しか現存していないそうだ(当初は現存しない作品とみなされていた)。
韓国映像資料院がソウル・瑞草洞の複合文化施設“芸術の殿堂”にあったころは、小生も何度か行ったことがある。しかし、NHKの「知る楽」の中で、李鳳宇氏が訪問していたのは、そこではなく、新しい施設である。
手元の、東京国立近代美術館フィルムセンターが発行するNFCニュースレター第80号(08年8月・9月号)の記事によると、韓国映像資料院は一年前の08年5月9日に、ソウル市西部の麻浦区上岩洞に移転したそうである。正確にいうとシネマテーク、映画博物館、フィルム・アーカイブの機能を備えた新施設としてのオープンということらしい。開館記念上映は、(この記事に基づくと)現存する韓国最古の映画「青春の十字路」(1934)で、その前の年にソウル市内でプリントが発見された無声映画だそうだ。ともかく早く足を運びたい新施設(まだ行ったことがない)であるが、行くなら上映プログラムをきちんと調べて計画を立て、少なくとも1週間は通いたいものだ。
だが、そういうことはなかなかできないので、先月、韓国から買って帰ったDVD「ソウルの屋根の下」(1961)を観る。これも韓国映像資料院コレクションということでごく最近にリリースされたものだ。日本未紹介作というわけではなく、2002年に東京のフィルムセンターで開催された「韓国映画-栄光の1960年代」で上映されたことはある。監督はイ・ヒョンピョ。ラスト近くの1巻分の映像だけが、おそらく傷んだポジからの複製らしく画質がグッと落ちるのが惜しい。この巻はネガも消失しているということだろう(モノクロ作品)。
うまい具合におもしろく作られた庶民のドラマで気楽に観ることができる。ソウルのとある街で漢方医を営む頑固親父。息子は居酒屋の娘を妊娠させてしまい、娘は医者と交際している。これは大問題だ!と、この一家が繰り広げる騒動を軸にした、古き良き下町の人情風景だ。
しかしなんともぜいたくだ。時間のあるときに、ディスクを取り出してプレーヤーにセットする。とたんに自宅のテレビが韓国映画のアーカイヴになるのだから。それも60年代の黄金期を支えたスター、金勝鎬や崔銀姫が、我が家の液晶40インチ画面に結構きれいに現れるのです!
(2009年6月2日)

CCF20081230_00000.jpg
「迷夢」(1936)「軍用列車」(1938)「漁火」(1939)の3作品を収録した「The Past Unearthed 1930s」。1940sに続く第2弾

CCF20081230_00001.jpg
「金綺泳(キム・ギヨン)コレクション」は「虫女」(1972)など4作品のBOX。写真は箱の裏面。アーカイヴのシリーズはDVDがリージョンALLなので嬉しい。韓英併記のブックレットも貴重。

nice!(0)  トラックバック(0) 

本日開幕の第62回カンヌ映画祭コンペ部門正式出品作品「コウモリ」(パク・チャヌク監督) [韓国]

本日5月13日に開幕する第62回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門正式出品作品であるパク・チャヌク監督の最新作が、ちょうど訪韓時に封切られていて、絶好のタイミングで観ることができた。
パク・チャヌク監督は「オールド・ボーイ」(04)で第57回カンヌのグランプリを受賞しているわけなので、今回のコンペ参加に韓国映画界の期待はさらに大きいだろう。カンヌ上映の英語題名は「Thirst」(09)だが、ハングルの原題を辞書で引くと「コウモリ」とある。
韓国内では4月30日から公開されていて、筆者がロッテのシネコンで観たときには、21時40分からの上映回だったけれども、翌日が休日だったからか、映画のレイティングがアダルトだからか、いやいやとにかく面白そうだからか、劇場の後ろ半分だけだがびっしりと満席だった。冒頭で米国ユニバーサル映画のマークが出てきて、すぐ隣の席のカップルが「ああ、ユニバーサル…」みたいなことを囁き合っている。ということは、すぐに日本でも公開されるだろうわけだが、やはり、カンヌよりも早く、現地で最速で観られるというのは気持ちがいい。
さて。確かに異色の野心作だ。ソン・ガンホ演じる牧師が、友人(シン・ハギュン)の妻と危険な恋におち、その友人を共謀して殺してしまうという展開の恋愛情事映画である。しかしこのパク・チャヌク作品があまりにも独創的な世界となっているのは、海外での輸血によって、牧師が吸血鬼と化してしまっているということだ! だから、聖職者が不倫なんて!と眉を顰めることはない。牧師は、闇夜の中の身のこなしは何だかバットマンのような、怪物ヴァンパイアに変身してしまったのである! 映画として性的描写も充分だが、同じく吸血鬼化してしまった彼女との、お互いに抱き合い、かぶりついて血を吸い合う場面は、愛は求めあうものというべきなのか、与えあうものというべきなのか、永遠の血の循環であり、なかなか皮肉な構図で美しいと思う。
この妻のキャラクターはユニークで、演じる女優にも妖艶な魅力があるが、何よりさすが、ソン・ガンホは名優だなあとつくづく感じた。こんな非現実的な設定のなかで“人間”の苦悩を、これほど挑戦的に表現しているなんて。友人役のシン・ハギュンもいい存在だし、映画美術全体とあわせても、他に類いのない、見ごたえある映画世界だと感じる。前作「サイボーグでも大丈夫」(07)よりも好きである。
今回、邦題はどうなるのかしら。
(2009年5月13日)

CCF20090513_00000.jpg
nice!(0)  トラックバック(0) 

韓国映画振興委員会による「韓国映画ショーケース2008」から [韓国]

昨年に続いて、KOFIC(韓国映画振興委員会)が主催となって最新韓国映画の日本未公開作を紹介する「韓国映画ショーケース2008」が12月13日から19日まで、東京のシネカノン有楽町1丁目であり、そこで何本かを観た。
13日の夜は、今年のPIFFのKorean Cinema Today - Panorama部門でも上映されていた(日本でも公開されるだろうと思って観なかった)、イ・ジュンイク監督の「あの人は遠くへ(Sunny)」(08)。上映後に登場したイ・ジュンイク監督は、話がうまく、語り口にはユーモアがあり、穏やかそうな人柄が伝わってくる好人物である。“日本ではあまり知られていない韓国のベトナム戦争参戦を逆説的に女性の視点で描いた物語”というチラシの宣伝文句に惹かれて観たのだが、ティーチ・インのなかでは、監督の今回の映画製作に対する考えはしっかり語られていた。
監督によると…、「ベトナムで戦争が行われていたころ、韓国では若者たちが一生懸命働いて成長を遂げてきました。朝鮮戦争もベトナム戦争も、西洋のイデオロギーの対立によって作られた戦争です。ベトナムは、韓国よりもあとから戦争状態に入り、韓国よりも先に統一を果たしました。一方で韓国はいまも戦争中です。北とは、停戦ではなく休戦状態なのです。冷戦からいまも抜け出せないでいる韓国の視線で、ベトナム戦争を描きたかったのです」。
…イデオロギーを持ち込んだ西洋(ハリウッド)の視点ではなく、大きな傷を負った韓国やベトナムの立場から伝えたかったということだろう。
そこまで聞いたところで、観終えたこの作品がどうも、チグハグな完成品であると確信せざるを得なかった。
物語は1971年。スニの結婚は愛のないものだった。働き手として嫁入りしたようなもので、夫パク・サンギルはスニのことを愛しておらず、別に愛人を持っていた。夫はスニとの生活よりはマシというのか、ベトナム戦争に志願して去ってしまう。スニは夫を探しにベトナムに向かうことを決心する。歌うことが好きなスニは、サニーと名を変え、何とも怪しいキム・ジョンマンという男が率いるバンドのボーカルとなって、慰問公演の目的で戦火の激しいベトナムへと向かう…。
と、ここまでが映画の導入部分である。しかし話の中心は、このバンドの荒唐無稽なサクセス・ストーリーになって続く。農村暮らしでアメリカン・ポップスも知らないスニは、その愛らしさも武器にして、5人組のバンドとして米軍や韓国軍のキャンプに取り入って、失敗を重ねながらも名をあげていく。リーダー、キム・ジョンマンの渡航目的は金儲けなので、スニは恥じらいながらも懸命にステージを務めるというのに、夫のいる戦地ホイアンにはなかなか近づけない。
本作のもうひとつの売り文句は、「ラジオ・スター」「楽しき人生」に続く・ジュンイク監督の音楽3部作の完結編。前2作は確かにエンターテインメントとして楽しめるものだったが、本作は戦闘場面も迫力こそあるものの、ベトナム戦争を舞台に置きながらも、全体としてはやっぱり娯楽を追求したもの。音楽ものとしても都合の良すぎる展開で、ベトコンも取って付けたような登場の仕方、扱い方だった。
スニを演じる女優スエ(整形美人でないので起用したと監督は語っていた)は熱演していたが、そもそも、主人公がどうして自分を愛してくれていない夫を追って、戦地まで行く理由があったのかという疑問があって、観ていて最初からすっきりしない。そして、世の中の右も左もわからない農村の嫁が、困難こそあるが都合よく戦地までたどり着いてしまうという大胆な展開。愛は国境を越えるというならまた別だが、それがいわゆる自分探しというならば、戦争をあまりにも小さくとらえてしまったものだと思う。
大掛かりだったロケ地はタイらしい。
ティーチ・インで、もっと小さな部分、イ・ジュンイク監督の音楽についてのこだわりや、場面づくりのさりげない意味づけは、納得しながら、興味深く拝聴した。
(2008年12月30日)

nice!(0)  トラックバック(0) 

日韓次世代交流映画祭(大分)におけるイム・グォンテク監督の特別講義 [韓国]

吊り看板.JPG

6月ころ知人から、秋に大分県の別府でイム・グォンテク(林権澤)監督作品の映画祭があるらしいと聞いていたのでちょっと気にはしていたが、それが実際に「日韓次世代交流映画祭」という形で11月8日から16日までの会期で実現された。上映プログラムはイム監督の代表作や学生・インディペンデント映画、植民地時代に作られていて近年“発掘された”映画などで、それにトークやシンポジウムなどが加えられて、3つの会場が設置されていた(入場は無料で整理券も不要)。
イム・グォンテク監督が釜山の東西大学で教鞭をとっておられることから、大分の大学とも繋がりがあるらしく、地元の大学関係者たちが中心となって開催されたようだ。せっかくの機会なので、イム監督が来日登壇する11月15日に日帰りで、会場となっている別府市のビーコンプラザを訪れてみた。昼間12時半からの監督100作目「千年鶴」の上映と、それに続くイム監督の“特別講義”をのぞいた。講義内容は、まとめてみたのでこの後半に付けておこうと思う。
この日の地元新聞の朝刊では、前日14日に行われた同所の開幕式には約400人が詰めかけたと写真付きで報じていた。併せて「風の丘を越えて」が上映され、イム監督の他、カン・スヨンとオ・ジョンヘ、女優二人という華があったからかもしれないが、目玉になってもおかしくないはずの、この日15日の「千年鶴」(日本ではKOFICが主催して昨年12月に開催された「韓国映画ショーケース2007」で上映されたのみ)の上映は、客電が落ちる直前に数えたところ観客は20人ほど。韓国で販売されているDVDをそのまま流しているので日本語字幕がないことが大きな理由だろうし、画質も当然良くない。筆者は昨年韓国で観ているので(PIFFで「千年鶴」を観た時のことは、このサイトに以前書いている)、反芻するつもりで観たが、英語字幕だけでは、一般にはハードルが高かったことだと思う。
受付まわりには、運営に携わっている地元の学生たちが何人もいた。韓国人留学生もかかわっているそうだ。チラシによると、このイベントには、映画を通して日韓の若い世代の交流を深めようという狙いもあるとのこと。しかしパンソリ映画「千年鶴」に来場した観客は、若者たちとは言い難かった(すみません)。まあ年齢層が高いということは関心の持ち方によるもので仕方ないとして、日本語字幕なしであるというマイナスを克服するために、日韓の学生が力を合わせて、日字幕を付けてとまではいわないが、せめて一般観客向けに協力してオリジナルのシノプシスを作って配るとか、やってみたらよかったのに。受付や司会や通訳は一時的で派手で目立つことだけれど、DVDを日韓の学生で繰り返し一緒に観て、議論して…、というようなことは地道で地味すぎるのだろうか。
などと思っていたら、司会を務めている先生が“大分に来ている韓国人留学生の8割が「西便制」を観ていなかった”と告白されていた。ということは、他国の文化に触れる前に、まず自国の文化から、ということかしら。ちなみに「千年鶴」の上映が終わって、イム監督の講義が始まるころには、聴衆も少しずつ増えてきて、70人くらいになっていたと思う。
今回の収穫は、会場で購入した、韓国映像資料院が発売したばかりの「軍用列車」(1938)、「漁火」(1939)、「迷夢」(1936)のDVD3枚組。翌16日の上映作品になっていたようだが、これらはもともと二年前の第11回釜山国際映画祭において、発掘された日本統治下時代の映画という特別企画で上映されていたものだ。確かそのときにはこれらを含む、中国で新たに発見された7作品が上映されていて、筆者はアジアの新作を追いかけていたのでついつい見逃してしまっていた。これは貴重である!

◎特別講義「私の映画、私の人生」 イム・グォンテク
私は1961年に監督デビューし、60年代におよそ50本の作品を撮りましたが、どれも質の低いものばかりでした。だから、100本の映画を撮った監督と呼ばれると、とても恥ずかしい気持ちになります。その半分は自分のフィルモグラフィーから消したいものです。
しかし、振り返ると、一本一本には必死に作ったという思い出があります。
若いころはハリウッドのレベルにまで高めたいという野心がありましたが、すぐにそれは難しいということに気づきました。ハリウッドには歴史があり、莫大な製作費があったからです。その100分の1の予算で、韓国で同じことをするのは現実的ではなかった。なので、自分の映画をどういう方向にもって行くかで悩みました。
そして、自分自身の体験にもとづくもの、韓国人の情緒にもとづくものを撮るべきだという方向に落ち着きました。それには世界の人々がうなずいてくれる普遍性が必要だと考えました。それはすなわち、映画が、人間の感情の深いところにいかに触れているかということにかかっています。ではどのようなことを題材にすべきか。韓国には、過去さまざまな苦難の歴史がありました。戦争体験や貧しさといったものを、韓国は乗り越えてきたのです。韓国人が体験したものごとこそ、韓国文化の個性だと私が気づいたのが、60年代末から70年代の初めでした。
しかしそのころは朴正熙軍事政権で、韓国映画史においても、最も不幸な時期でした。70年代は芸術に対して厳しい統制があった時代で、産業的にも落ち込んだ時期です。当時20社ほどの映画会社が営業許可を得て活動していました。しかし映画は、内容的にもあまり動員できないものばかりでした。そこで政府は、映画会社に対して、4本製作すれば外国映画1本の輸入を認めるようにしました。これがクォータ制度と呼ばれるものですが、そこで悪循環が生まれたのです。外国映画を輸入したいがために、映画を安く作るという傾向ができてしまったのです。
映画監督には当然、自分の作品に対して愛情があり、質を高めたいという欲望があります。しかし70年代は、収益が先行される時代だったのです。
最初に私は60年代に50本の映画を撮ったと言いましたが、これらは生活費を稼ぐための映画に過ぎなかったという反省があります。それが身に沁みて、良心で映画を作るという決心をしたのですが、70年代は厳しい時期で、すぐにそのような作品が撮れるわけではありませんでした。
自分らしい映画、実りある映画が作れたと初めて実感できたのは、日本の小説家・梶山季之さんの創氏改名をテーマにした小説を映画化した78年の「族譜」でした。しかし当時高い評価は得られず、話題にはなりませんでした。評価を得るようになったのは、ずっと時間がたってからでした。
80年代に入って、人間と人間の関係を大切にする人本主義をテーマにしました。取り上げたもののひとつに朝鮮戦争があります。われわれは理想社会の追求のために戦争をし、その結果多くの犠牲を出しましたが、その教訓から多くのことを学ぶべきだと考えたのです。
その後、「チャッコ」「曼陀羅」「シバジ」「キルソドム」「開闢」「ハラギャティ」といった作品が国際的に注目されるようになりました。なかでも、日本の映画評論家・佐藤忠男先生に「曼陀羅」を高く評価していただいたことが、私の名前が世界に知ってもらえるきっかけとなったのです。
振り返ると、私自身には10年単位で転機がきたようです。90年代に入ってパンソリ映画を手がけました。パンソリには、70年代から関心を持っていたのですが、映画にできたのは90年代になってからでした。庶民から貴族までが愛し、伝統的な趣を持っているパンソリが、いま人々の記憶から消えていこうとしている。それを残したい、現代に蘇らせたい、そして同時に世界にも知らしめたい…、そういう思いで撮りました。
私が海外でスピーチを頼まれたときに、よく言うことがあります。地球上の文化を、花畑に例えて話すのです。いま地球は、アメリカという花一色で染まっている。それはおもしろくありません。多様性に欠けたものになっています。韓国でもモンゴルでも、それらの国々が持っているものがもっと集まってくるべきなのです。私はそのために、韓国という花を、映画で発信したいといつも思っています。
ひとりの映画監督として振り返ると、このように大分にまで招かれて講演するような人間になれたということには、ふたつの理由があったからではないかと思います。
ひとつは、じつは私はたいへん不器用で映画以外には何もできなかったということ。映画しかないという思いで、目の前の仕事一本でやってきました。
それから可能性があれば、とりあえずやってみようという精神があるということ。例えば西便制を映画にするということは、失敗する怖さがあり、いま思えば冒険でした。
必死で撮ってきた映画ばかりですが、自分の映画をあとで見返すということはしません。後悔することばかりなので、振り返らないのです。つねに完成度の高い映画をめざしています。

イム・グォンテク監督は、ひとつひとつ言葉を丁寧に選びながら話す姿が相変わらずで、印象的だった。
(2008年11月22日)



nice!(0)  トラックバック(0) 

アジアフォーカス08試写室レポート:韓国映画「見知らぬ国で」(07) [韓国]

観る前、社会派の作品かと勝手に誤解していた。これは、社会的な問題をネタにした娯楽エンターテインメントという方が正確だろう。韓国のキム・ドンヒョン監督の「見知らぬ国で」は、韓国での生活をスタートさせた脱北者ジヌクとベトナムからの不法就労者ティンユンの、互いの言葉が通じない同士の男二人が出会い、ストレンジャーとして韓国で味わう悲哀を、笑いと涙でまとめたものである。
ジヌクは脱北者の定着教育機関であるハナ院を卒業し、いくらかの定着金を支給されて、ソウルかソウル近郊かの高層団地のとある棟1502号室を新居として斡旋される。しかしその夜、布団がないからと一旦住まいを離れたが最後、自分の家に戻れなくなってしまう。タクシーを拾ってひと晩ぐるぐると探し回る始末である。
一方ティンユンは工場で不法就労しているが、言葉が通じないのをいいことに、親方からは給料もまだもらっていない。映画の冒頭はまずベトナムから始まるが、そのシーンからすると、ティンユンは誰かを追って韓国に渡ってきたようだ。強盗を決行し、金を手に入れて目的地へと向かうティンユンのバスの旅に、たまたまジヌクが乗り合わせたことから、ドラマは後半へと進んでいく…。
作品全編を通して、ジヌクが南の文化に全く不慣れなために失敗を重ねては笑いをとるような場面設定が随所にある。クレジットカードを知らないとか、団地の部屋の呼び鈴に驚くとか…。まあ、そんなものだろう。人物像としては、北とか南とかいう以前に、単に人のいい田舎者という感じである。社会派ドラマと思って観てしまうと、こんな人物がよく中国を経由して南までたどり着けたものだ(妹は中国で売られてしまったと言って泣いていた)、ハナ院では一体どんな教育を受けたのか、などと疑問を感じるだろうと思う。
しかしそもそも、誇張し過ぎではないかと思われるのが、自分の家に戻れなくなってしまうという、当初の大きめのエピソードである。ハナ院を卒業した脱北者に対して、国が新しい住まいの住所も、相談員か誰かの緊急連絡先も何も知らせずに、新居にただ放り込むだけなんて本当かしら。それが本当ならば、それはそれで社会問題だ。
筆者が定期購読しているK社の雑誌「C」の数ヶ月前の号では「幸せを求めて韓国に嫁いだベトナム人妻たちの悲劇」という、韓国の「時事ジャーナル」の記事が3ページにわたって転載されていた。これによると韓国男性の国際結婚においてベトナム新婦の数は急増しており、いまや数字では中国に次いで2番目、フィリピンからの8.7倍に達したという。このレポート記事では、これらは仲介業者による売買婚がほとんどで、DVなどの事件が増加していることを憂慮している。
ティンユン側のストーリーからは、多少、このあたりの社会的な問題が発見できそうな気がした。できれば、ティンユンの話といい、ジヌクの話といい、そこを掘り下げてほしかった。娯楽に徹した映画作りでは、彼ら韓国に居る異邦人たち、特にジヌクの、お人好しぶりは美徳だと捉えられるとしても、田舎者としての行動が引き起こす笑いは、見下す視線を前提としたものだけに、国際理解までには到達できない。
ジヌクら脱北者は何のために南に渡ってきたのか。南で重ねた失敗から何を得るのか。そのへんは、ジヌクが迷子になる場面に登場する、10年ほど前に北から渡ってきたという過去を隠し持つ若い女性のタクシー運転手あたりから、もっと見せられそうに思ったが。
(2008年9月7日)

nice!(0)  トラックバック(0) 

韓国の心を描く、巨匠イム・グォンテクの監督通算100作目の「千年鶴」 [韓国]

すでに韓国国内では興行も終了しているイム・グォンテク監督の「千年鶴」が、第12回釜山国際映画祭においては、10月7日にMegabox Haeundae 5にて上映され、主演男優のチョ・ジェヒョンを従えて、イム監督とその片腕チョン・イルソン撮影監督が舞台挨拶を行った。しかしこれまでいくつもの作品にこのお二人とともにトリオで取り組んできた泰興映画社のイ・テウォン社長の姿はそこにはなかった。詳しい事情は存じ上げないが、この100作目の企画自体は、早い時期にこの“黄金トリオ”からお聞きしていたけれども、その後に伝わってきた報道によると、出資金を集める時点でこの企画は相当に難航してイ・テウォン氏はプロデューサーを降りたらしい。
映画の内容は後でまとめるが、パンソリの世界を描くということが、果たして韓国の若い観客に訴求するものかと最終的に他の出資社からも問われたのだろう。実際に興行的には失敗したそうだ…。
イム・グォンテク監督はこれまでに、「キルソドム」(85)「開闢」(91)「太白山脈」(94)「祝祭」(96)「春香伝」(00)「酔画仙」(02)「下流人生」(04)といった代表作を好意的にアジアフォーカスに出品し、何度も来福されている。トリオで取り組んだ作品のときには、三人揃っての参加も度々だった。国際的な評価はいまさら語るまでもないが、92年にフランス文化芸術勲章、97年に福岡アジア文化賞、98年にはサンフランシスコ国際映画祭において黒澤賞、そして02年に大韓民国金冠文化勲章などを受けている。
日本人では二人目となる韓国文化勲章受章の映画批評家・佐藤忠男氏によって「韓国映画の精神~林権澤監督とその時代」(岩波書店)が2000年に上梓されており、作品論として何も不足するところはなく、「春香伝」までのイム監督の足跡とその精神を辿ることができる。またこの本の冒頭にはイム監督と佐藤夫妻の出会いのエピソードも記されているが、監督とは長年の親交をお持ちの佐藤夫妻に随行する形で、筆者も何度も渡韓することで、イム監督が近年の新作を発表されるたびに触れてきた。
「娼」(97)は試写で見せていただいたが、娼婦の館を大胆に捉えたカメラワークがいまでも脳裏に焼きついている。「春香伝」(00)は、当時カンヌ国際映画祭のコンペ部門に招待された最初の韓国映画となった作品だが、カンヌ出品直前に試写していただき、音楽と映像のみごとな調和に感嘆したものだ。「酔画仙」(02)のときは作品関係者を集めた完成披露試写に潜入することができた。会場はシネコンのひとつだったが、劇場の扉前では関係者を迎える主演チェ・ミンシクの姿もお見かけした。天才画家の破天荒な生涯を描いたこの作品は韓国映画として初めて第55回カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞した。「下流人生」(04)の場合は、通常の劇場公開時に拝見した。不思議なことだが、この映画のプロデューサーであるイ・テウォン氏が自ら、チケットブースで佐藤夫妻をはじめるとする我々のためにチケットを購入(!)しての鑑賞となった。客席は空席のほうが多い。ほとんどのお客さんは最後まで待たずにせっかちに退場。エンドの前に照明も明るくなってしまう。ストーリー上重要な意味を持つエンドロールだけに残念と、そのことを監督ご本人に確認すると、韓国の観客はこうだから…と意外にさばさばとされていた。
さてイム・グォンテク監督といえば、日本では単館ロードショーでヒットした93年の名作「風の丘を越えて~西便制」がよく知られているところだろう。血のつながらない姉弟を連れて旅をするパンソリの歌い手の男。男は姉に歌を、弟に太鼓を教えながら旅芸を続け、二人の子どもはやがて鼓手と唄い手の名コンビに成長する。しかし弟は養父から逃げ出してしまう。一方で姉は養父から失明させられる。けれどもそれは、パンソリの芸を極めるため…。
韓国の伝統芸能パンソリの旅芸人一家を描いた作品である。著名な作家・李清俊の連作小説「南道の人」のはじめのふたつの短編を原作に、“恨(ハン)”をめぐる物語として映画化し、韓国でも当時記録的な興行成績を残したイム監督の代表作のひとつとなった。
そして巨匠イム・グォンテクの監督通算100作目となる2007年作品の「千年鶴」は、この連作小説の続きの短編を映画化したもので、映画観客にとっても、「風の丘を越えて」の続編にあたるものとして注目を集めた。前作で離ればなれになった姉と弟のその後が描かれるということだ(小説では兄と妹)。パンソリの名手である男に育てられた血のつながらない姉と弟。家族のもとを去った弟のドンホはある日、彼らの元を去る。時が経ち、姉ソンファの行方を捜すドンホは、彼女が盲目となったことを知る。そして二人は運命の糸に操られるままに、出会いと別れを繰り返していく…。
パンソリの調べにのって、スクリーンで鑑賞するに値する美しい音と映像のシーンが、前作同様に随所に登場する。引き続いてオ・ジョンヘが姉を演じているが、清楚な顔立ちから発せられる唄声は円熟味を増している。弟ドンホ役は「悪い男」(キム・ギドク監督)のチョ・ジェヒョン。ちなみに前作では、後に韓国文化観光部長官を務めたキム・ミョンゴンが弟を演じている(韓国文化観光部長官には、映画界からはイ・チャンドン監督も就任している)。
100作目という節目の作品にこの「千年鶴」を撮りたいというお話は、前から伺ってはいた。しかし、前作が大ヒット作となっていることもあって、相当の重圧感があったのではなかろうか。イム監督はマスコミに対し「前作とは全く別の作品としてみてほしい」とコメントしているが、登場人物や状況設定が同じこのふたつの作品は、監督のおっしゃるとおり、連続ものというよりも、パラレルな世界としてみることでその面白みは増すと思う。
さてここで、話の舞台を釜山に戻す。釜山国際映画祭開催中に、イム・グォンテク監督の資料館が釜山市の東西大学に設けられたことが発表された。デビュー作「豆満江よさらば」から100作目の「千年鶴」までの全作品のビデオテープやDVD、シナリオ、ポスター、関連の資料などが集められている。イム監督はこの東西大学の教授にも就任し、大学側によると「イム監督の歴史は韓国映画の歴史」という精神から開設したそうである。たいへんうらやましいことである。以前にソウルの韓国映像資料院でイム監督の古い作品を見せていただいたことがあったが、今後ここ釜山ではいつでもイム監督作品が鑑賞できるというわけだ。釜山はほんとうに、映画都市として想像を越えて進化を続けている…。
最後に。「千年鶴」は、12月8日から東京のシネカノン有楽町1丁目にてスタートする、韓国映画振興委員会(KOFIC)主催のイベント「韓国映画ショーケース」の上映作のひとつとして公開予定である。
(2007年11月28日)

追記・主演女優オ・ジョンヘは「千年鶴」で11月27日に閉幕した第29回ナント三大陸映画祭の主演女優賞を受賞した


「千年鶴」のバナー、釜山国際映画祭にて

南カリフォルニア大学などによるイム・グォンテク特集上映のパンフ(96年)


nice!(0)  トラックバック(0) 

アジアフォーカスでとり上げられた、釜山アジア短編映画祭(BASFF) [韓国]

2007年アジアフォーカスのイベントのひとつとして、9月20日エルガーラホールにて「釜山からの新しい風~釜山アジア短編映画祭2007より」と題されたシンポジウムが行われた。形式としては、今年5月に開催された同短編映画祭の入賞作品など6作品の有料上映が前にあり、それに引き続いてのものである。韓国側からは上映短編作を撮ったイ・ユリム監督(「普通の人々」)、キム・ヤンヒ監督(「過ぎ去る一日」)、キム・ヨンジェ監督(「いつか判る」)の3名の女性監督に、釜山アジア短編映画祭ディレクターのパク・ヘド氏がパネリストとして招かれた。ちなみに会場の聴衆は76名(主催者発表)。
シンポジウムだけで2時間の内容があったものの、作品上映からそのまま流れ込んでしまったことで、まず3名の監督への質疑応答から始まったのは良いが、それに終始してしまったために不幸なことにパク・ヘド氏の発言はほんのひと言、数分で終わってしまった。なので、このブログにて「釜山アジア短編映画祭(BASFF)」のことを少しフォローしたい。同映画祭ディレクターのパク・ヘド氏には、今年訪韓した折、3月2日にインタビューしているので、その時の内容をベースに。
BASFFは、その前身となる映画祭が1980年にスタートした。主催は韓国映画人協会釜山支部で釜山の映画振興を目的に始まったものだという。映画人協会会員の9割はソウル在住であり、文化的に不毛な釜山の地での映画人育成が当初の目的だったわけだ。以後、名称は何度か変わり、規模を大きくして2000年から今の釜山アジア短編映画祭(アジアをも視野に入れたわけだ)となった。97年までは表彰のみのコンクール形式だったが、98年から公開上映もするようになっている。パク・ヘド氏は大学院生時代の98年に事務局長、06年からディレクターを務めている。専属スタッフはいない。毎年5月の4日間ぐらいの開催だが、その前3、4か月間の短期スタッフたちで運営されている。けれども学生中心のボランティアの競争率は3倍だ!
しかし、回数は積み重ねてはきても事業費はつねにご苦労されている。全体が1.5億ウォン(約2000万円)で、そのうち釜山市からが1億ウォン、映画都市を標榜する市からの助成は年々増えてきたそうだ(98年は860万ウォン程度だった、ピークはアジア競技大会が釜山で行われた02年の2.5億ウォン)。歴史こそはるかに古いものの、いまは釜山国際映画祭(PIFF)の影に隠れてしまっている感はある。しかし必要な機材は、PIFFから借りることでうまくいっているし、作品に付ける韓国語字幕もPIFFの字幕チームによるものだ。
今年の上映作品は13ヶ国79作品(後日いただいたカタログ資料より)で、その中身はエントリー作品と特別招待作品の二本立て。毎年600から700作の応募があるという。シンポジウムでパク氏は「シリアスなものから軽い作品が増えてきている」と述べている。賞は例年7つ8つ程出すが、いくつかの賞は年によってスポンサーの関係で変わる。コダック賞から富士フイルム賞になったりと。
入場料は4000ウォンで、会場はいつも慶星大学のキャンパス内だそうだ。ここのところが、若いボランティアたちや観客を原動力として、学生監督やインディーの作家、未来のアジア映画界の才能たちを育てるのだという熱気を生み出しているのだろう。パク氏はシンポジウムで「大学生だけのイベントで終わっているのがBASFFの課題。アジアフォーカスのように多様な世代の人たちに関心を持ってもらいたい」と締めくくった。
釜山では近年、子ども映画祭、広告映画祭、MADE IN PUSAN映画祭(釜山で作られた作品の上映)といった映画祭も始まったとパク氏から教えていただいた。釜山の街が映画を志向する都市となった裏側には元祖となるBASFFがあったといっても言いすぎではないだろう。来月開幕する釜山国際映画祭は第12回となる今回から、慶星大学近くのシネコンも上映会場のひとつに加わったそうだ。これも、BASFFのもたらした成果といえるのかもしれない。
今年のBASFFのカタログ
追記
アジアフォーカスにおける短編6作品の上映プログラムのなかで、韓国以外の作品として唯一「グレースランド」(タイ)が取り上げられた。監督はアノーチャー・スウィッチャーゴーンポン。これがBASFF2007のグランプリ作品だったそうだ。6作品ともすべて非常に高い水準のものだったが、ひとつに絞るとすると、個人的にはこれをベストにあげたい。アピチャートポン・ウィーラセータクン監督作品のように観終わった後、頭の中に充実感と幾つものクエスチョン・マークが同居する不思議な気分を頂戴した17分の秀作だった。 
(2007年9月26日)


nice!(0) 

韓流TVシリーズ「春のワルツ」のハン・ヒョジュ主演「Ad Lib Night」 [韓国]

第一作「チャーミング・ガール」(04)が素晴らしかったイ・ユンギ監督の最新作。原作が日本の小説家・平安寿子の短編集「素晴らしい一日」に収められている「アドリブ・ナイト」。映画化の経緯は知らないが、観た後で読んでみた。設定や人間関係などは原作にほぼ忠実である。
ハン・ヒョジュ演じる主人公の女性は、週末の繁華街で、村からやってきた青年たちからいきなり声を掛けられる。「捜したぞ。親父さんが危篤だから、最期にひと目会ってやれ」と。青年たちの幼なじみで、家出して故郷を離れたままの娘にそっくりなため、人違いされているようだ。人違いだからと断ると、今度は人助けだと思って、一晩その娘を演じて父親を看取ってやってほしいと頼まれる。そして彼女は青年たちとその村まで行くことになる…。
主人公の素性がはっきりせず、本当に別人なのか、それとも本人なのか、物語の気になるところは途中まで混沌として進んでいく。出だしの青年たちから声を掛けられる導入部と、再び街へ戻っていくラスト。どちらもドキュメンタリー風の絵作りで、浮き彫りにされていく主人公の実像把握は、張り詰めた空気の中で観客にゆだねられる。一方で前後をそれらに挟まれた真ん中の、主人公が村に滞在して家出娘を演じる部分はまさにドラマ。このへんはイ・ユンギ監督の非凡なセンス、気鋭の監督の稀なる作家性はデビュー作から一貫して持続されている。
それと、ハン・ヒョジュの戸惑いの表情がかわいい。
(2007年3月20日/香港・時代廣場UA4院)


nice!(0) 

映画都市プサンのシネマテーク・プサンを訪問 [韓国]


プサンにはよく行く。プサン国際映画祭は第3回以降毎年訪れているが、映画祭の時期を外さないかぎりは、シネマテーク・プサンのような映画施設をゆっくり訪問することもできない。今回の訪問、アポはほんの数日前だったにもかかわらず、広報担当アン・ヨンスさんのご親切で見学することができた。この日は3月1日。韓国では三一節(1919年、日本の植民地支配に抵抗した独立運動を記念する日)で祝日なのだが、施設であるのでここは月曜が休館。開いていてよかった。
99年開館のシネマテーク・プサンは、最寄り地下鉄駅から徒歩10分程度、ヨットセンター敷地内(国際映画祭の野外上映会場として有名)にある。この施設はもともと野心的で知られるプサン国際映画祭が生んだものである。建物じたいは釜山市が建設し、運営を映画祭事務局に委託している。正式スタッフは8名で、半分は映画祭の字幕製作チームを兼務しているとのこと。
設備を列記すると、映像ホール(160席)、セミナー室(30席)、図書資料室(1500冊)、ビデオルーム(モニター9台・過去の映画祭上映作品VHS2000本・映画DVD1600本)、編集室、機材倉庫など。ホールでは常に企画上映が行われている。訪問時にはキム・ギヨン監督の特集上映をやっており、幸運なことに未見だった「高麗葬」(63)にお目にかかることができた。うれしい。韓国の“楢山節考”である。佐藤忠男氏の著述を読んで、以前から気になっていた作品だ。ただ完全版ではなかった、途中の巻が欠落していて、その部分は“この間にストーリーは……となる”という文字説明が入る。韓国映画振興委員会からの借用フイルムだそうだが、英字幕が入っていることを含め、ひたすら今回のチャンスに感謝である。ちなみにこの日の観客は20名ぐらい。プログラムにもよるが平均して25~30名の入場があるそうだ。料金は4000ウォン、年会費を払ってメンバーとなる会員(700名ぐらい)だと3000ウォン。
特筆すべきは、このシネマテーク・プサンのスタッフの皆さんの頑張りだ! その人数と年間の運営費(ここでは書かない)を聞くと、彼らの仕事ぶりに対して、さらに驚きは増す。企画上映のたびに、素晴らしい出来ぶりのポスター、チラシ、ポストカード、それに有料のミニカタログを製作。そしてそれとは別にマンスリーのニュースレターも発行している。満々のやる気が伝わってくるではないか。毎週水曜19時の回はインディペンデント特集、そして月一回(第三水曜)は、ゲスト(映画監督や俳優)の推薦映画とトークというイベントも開催。来月は女優ムン・ソリを予定しているそうだ。もちろんホールだけでなくセミナー室もあるので、映画製作や映画理論についてのワークショップも行っている。
翌日、釜山市役所の映画映像振興課と国際映画祭事務局を訪問してさらに詳しく確認したことだが、プサン・センタムシティ地区のコンベンションゾーン、BEXCOの横に、映像センター(Busan Cinema Complex)の建設を国と釜山市で進めている。2011年完成予定で、釜山市最大プロジェクトのひとつだ。ポストプロダクション施設・教育施設・映画上映ホール6つ・野外シアターなどに、国際映画祭事務局、中央(ソウル)の映画関連団体の事務所も移ってくる。もちろん、このシネマテーク・プサンの入居も予定されており、将来的にはアーカイヴ機能が期待されている。
(2007年3月1日)

※写真は左からポストカード、ミニカタログ、ニュースレター


nice!(0)