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中国・南京出身の任書剣監督が足場を築いていった過程の作品群 その2 [日本]

6月、福岡市総合図書館映像ホールで特集プログラムが組まれた任書剣(レン・シュージェン)監督は、中国・南京から日本に留学し、日本映画学校や日本大学大学院で映像製作を学んだ。今回上映の3作品は、その過程の習作というにはその枠を完全に越えたものであり、今村チルドレン、佐藤チルドレンのひとりとして、蒋欽民やファン・ビョングクのように、映画監督として足場を築いていった過程がここからみえてくる。

「私の叙情的な時代」(08)
最後のクレジットをみると、脚本指導だとか製作指導だとか芸術顧問だとか、教官と思われる方々の名前があげられていて、製作は日本大学芸術学部とのこと。
任監督にとっては、これが劇映画第一作になるわけだが、第31回ぴあフィルムフェスティバルのPFFアワード2009で、企画賞(TBS賞)、技術賞(IMAGICA賞)、観客賞(福岡・名古屋)などに輝いたことが示すとおり、楽しめて、またいろいろと含みの多いドラマに仕上がっている。
主人公・趙明は、南京からやってきた中国人留学生で、任監督じしんを投影した存在だろうと誰もが思う。
東京を舞台に、様々な国籍の人たち同士の出会いがあって、交流があって、別れがある。東京はそういうクロスロード的な街であるということを、いろいろなエピソードを盛り込みながら、描いている。
中国からの留学生の趙明。彼のアパートの同居人は、日本人のガールフレンドがいる韓国人留学生。意気投合もするし喧嘩もする。通っている大学では台湾からの女子留学生と出会って、趙明はそれぞれの考えを対立させながらも、何となく恋心を抱くようになる。
また、平井さんという初老の事業家からの依頼で、中国企業との仲介を引き受けることになるが、日本人特有のあいまいさもあって、なかなか順調には進まない。一方、保育園で音楽講師のアルバイトもしていて、中国人の母と中華系インドネシア人の父という、どちらも不法滞在者を親に持つ生徒の少年リョウの今後にも、積極的に絡むようになる。
趙明の経験を通して、適度なユーモアも加えられた人情劇が、国籍を越えて展開される。
終盤、帰国する女子留学生に向かって、台北で再会することを約束する趙明の誓い、リョウに会うために中国に渡るという平井さんの決心、いずれも一時の別れが終末とはならない未来をも暗示している。
なぜか登場する外国人の話す言葉にだけ、日本語だろうと中国語だろうと日字幕が必ず付く、聞きとれないセリフというわけではないのに。花粉症になると、日本在住者として認められるという風なやりとりが映画の冒頭にあるが、趙明は最後の最後で立派なクシャミを連発する。
任監督の日本映画学校時代の恩師であるはずの千葉茂樹監督が、主人公の通う大学のゼミの先生として出演している。また、インディペンデント映画としては大物すぎる俳優・伊勢谷友介(映画監督でもある)もワンシーン、顔を出している。
とにかく、東アジアの多様な登場人物たちによるこのドラマは、うまく織られた織物のようで、何よりもそつがない!

(2010年6月22日)

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中国・南京出身の任書剣監督が足場を築いていった過程の作品群 [日本]

6月、福岡市総合図書館映像ホールで特集プログラムが組まれた任書剣(レン・シュージェン)監督は、中国・南京から日本に留学し、日本映画学校や日本大学大学院で映像製作を学んだ。今回上映の3作品は、その過程の習作というにはその枠を完全に越えたものであり、今村チルドレン、佐藤チルドレンのひとりとして、蒋欽民やファン・ビョングクのように、映画監督として足場を築いていった過程がここからみえてくる。

ドキュメンタリー「蒲公英的歳月」(03)
日本映映像ジャーナルゼミD班卒業制作作品で、任書剣の企画・監督。題名は、タンポポの歳月という意味だが、みごとにその主題を言い表している。
日本に4万人いるという中国からの不法滞在者のうち、98%までが福建省の貧しい村の出身者らしいが、この作品は、そのようなある一家の生活を描いたものだ。
福建の実家には年老いた両親がいて、家の玄関の上には堂々と、「子孫繁栄」と掲げてある。この一家から、次女(32)が日本人と結婚して来日し、やがて美容院を営むようになるが、その次女を頼って、長女(44)、四男(32)、次男(42)、長女の息子と順々に入国しては、不法に滞在して商売をするようになる。次男も四男も長女の息子も、中国に妻子を残してきているが、四男はビザ申請のために、なんと日本人女性との重婚もしている。すべては、国の両親やきょうだい、家族に仕送りをするためで、他の出稼ぎ福建人同様に、いま村には、彼らの“出稼ぎ御殿”が建とうとしている!
とうてい理解できない、海を越え、あまりにも固いきずなで結ばれた家族主義である。タンポポというのは、まさに彼らが日本に住み着くさまを表している。鮭などが、たくさんの卵を産むのも、生物としての種(しゅ)を後世に残すための工夫であるが、そこまで考えると、「子孫繁栄」と何気ないようなこの言葉は、何と恐ろしいほどの責務を持ったものなのかということに気づく。
こう書いてしまうと、眠る時間も惜しんで日本で働いている彼らは、人間らしさが微塵もないようにとられるかもしれない。まあ、貧しさゆえお金がすべてと考えるようになってしまうのは仕方がないが、本国で待つ四男の妻が「一緒に暮らす方がいい」と明かす胸の内に、ちょっとホッとするのである。
ついには、次男も、長女の息子も、不法滞在がばれて逮捕されてしまう。長女は、なんとか寸前のところで姿を消した。…しかし、一方で長女の義理の息子という青年が、観光といって成田に降り立ったところで、ドキュメンタリーとしては、いったん幕を閉じる。
不法滞在である以上は犯罪者であるので、この一家に容易にはアプローチできなかったはずだ。それを可能としたのは、単に任監督が同じ中国人だからというわけではない。そこに、任監督の持つ、強い問題意識があったからこそだ。
山形国際ドキュメンタリー映画祭2003で上映された。

ドキュメンタリー「北朝鮮の夏休み」(05)
日本大学大学院修士課程での制作作品らしい(上映資料より)。北朝鮮の人の顔というと、独特の抑揚の女性ニュースアナウンサーの、感情の見えない表情や、マスゲームなどで見せる集団としての画一的な表情がまず思い浮かぶ。しかし、任監督が現地で撮ってきたこの旅行ドキュメンタリーでは、撮れた限りの、北のひとりひとりの笑顔が登場する。
たとえば、「北朝鮮のスルメの値段は高いじゃないか、中国と変わらないぞ!」という中国観光客の声に対して、北の若い女性ガイドが「じゃあ、買わなきゃいい」と言い返しながらちょっと無防備に見せる笑顔。任監督のカメラが盗むようにして捉えたそれは、中国、北朝鮮、韓国、日本のうちのどこのものだと色分けできるものではなく、同じアジアに生きるひとりの笑顔。監督の狙いは、人々の生活のなかでの笑顔に国境はない、そこに気付いてほしいということだ。中国からの観光客と北朝鮮の旅行社員たちが、ハルピンビールを交わしながら、腕を組んで一緒に歌う一夜の宴会の風景(夜間は外出禁止のために仕組んで催されているのかも)や、任監督に対して「兄貴だ」と言って心を許す、土産物屋の二十歳の青年の屈託のない微笑みだってそうなのだ。
2004年の夏。北朝鮮の人々の素顔を、一般庶民の目線で撮影できたのは、任監督が、北朝鮮の良き隣人である中国からの、観光バスツアーの客の一人としてもぐりこんでいるからだ。
朝鮮族の多く住む吉林省延吉から、脱北者が渡る川として知られる図門江(豆満江)の橋をバスが渡る。橋の半分、中国側はきちんとペンキで塗られているのに、北の側は錆だらけ。入国審査に一時間半もかかり、携帯電話は預かりになる。北朝鮮には中国の漁船も普通に入ってきている。香港資本の豪華ホテルにはカジノがあって、中国人相手に繁盛している。その一方で、物乞いというほどではないが、バスには子どもたちがねだりに寄ってくるし、人々の住んでいる家の天井をよくみると電灯がない。路上の物売りからアイスクリームを買おうとすると、それが無許可なのか禁止されているのか、厳しく注意される。任監督の取材に対する北朝鮮の人々のコメントは一様に、将軍様崇拝と反日である…。
一泊二日のツアーであるにもかかわらず、映像にはほどよく収穫があり、よくまとめられている。編集は、同じく日本映画学校出身で「熊笹の遺言」(02)の監督の今田哲史。
山形国際ドキュメンタリー映画祭2005で上映された。

「私の叙情的な時代」(08)
これについては、また後日…

(2010年6月13日)

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俳優・三國連太郎が37年前にパキスタン、アフガニスタンで撮っていた幻の自主製作映画 [日本]

釜山国際映画祭に行っている間の10月12日に、WOWOWで放送された番組「幻の映画『岸のない河』~監督・三國連太郎の再生」を録画していたので、あとから観た。
俳優、三國連太郎氏が37年前に、製作・脚本・監督・主演を務めながらも、未完となったままの自主製作映画「岸のない河」。86歳を迎えた三國氏が「やり残したことがある」と、昨年からこの映画の完成を改めて目指し始めた姿を追いかけたドキュメンタリーである。
製作当時、三國氏は49歳。それはちょうど今、息子で俳優の佐藤浩市氏の年齢でもある。この時に三國氏が手がけた物語は、息子を小児癌で失ったことをきっかけに妻との関係も崩れてしまったひとりの医師(三國)が、あてもなく中東へと飛ぶ流離の旅である。三國氏は、そのころ私生活で離婚して浩市氏とも離れて暮らすようになっており、この映画は自分自身の姿を投影したものだと振り返る。だからかもしれない、台本も音声テープも散逸してしまっていたこの幻の映画が一本につながっていく番組の後半でわかっていくのだが、撮影の途中からこの作品は、台本から離れたドキュメンタリー的なものになっているのだ。
私財を投じて自ら映画会社を設立し、三國監督はスタッフを率いてパキスタン、そしてアフガニスタンへと飛ぶことになる。中東を舞台としたのは、1972年に第1回テヘラン国際映画祭(筆者注:この映画祭は革命前まで開催された)に招待されて参加したことがきっかけだったそうだ。企画段階の仮題は「朱色の土」。しかしイランの入国ビザがなかなかおりず、スタッフは当初乗る予定だったインド行きの旅客機に乗れなかった。そのインド行き旅客機が墜落し(日本の航空会社が海外で起こした初めての墜落事故だそうだ)、乗客のほとんどが死亡したという逸話も併せて紹介される。その後、当時の外務大臣・福田赳夫氏の力でビザを取得。一行はパキスタンのカラチに入るが、印パ戦争によって情勢が不安定な時期で、暴動が頻発して危険な状況であるために、アフガニスタンのカブールにすぐ移動する。
カブールに入ってから映画のなかの物語は本格的に動き出し、孤児であるアフガンの11歳の少年と、自分を見失った医師(三國)との、言葉を越えた交流風景が綴られていく。この少年は、息子・浩市氏と同い年だったということからも、この作品が運命的にも自伝的な要素を持っていることが感じられる。
しかし、“お蔵入り”とはよくいうが、3万フィート、5時間に及ぶ35ミリフィルムは、撮影後ずっと倉庫に保管されていた。それを持ち出して現像し、三國氏が当時の記憶を紡ぎながら見入る様子からも、この作品が製作に挫折した後、ずっとそのままになっていたことがわかる。ただし、今となっては台本も、サウンドを記録した音声テープもない。
まずはそれらの収集作業を番組の前半で追う。撮影ロケにかかわったスタッフは8名で、調査の結果、唯一残る台本は監督補が持っていて、その没後、故人の夫人・白鳥あかね氏が川崎市民ミュージアムに寄贈していたことがわかり、三國氏の記憶からも薄れてしまっていた、残った映像が繰り広げるドラマの内容がついに明らかになった。やがて事務所に眠っていた音声テープも見つかって、三國氏のセリフはもとより、当時のカラチやカブールの街の、当時の息遣いまでが再現されることに。
幻の映画「岸のない河」は、台本と音声テープを得たことで、ひとつにまとまって映像作品としての体をなし始めた。そのなかで、アフガンの少年と三國氏の出会いは、物語の結末を見出していた。しかし…、37年たって三國監督の、人生に対する考えや心境は、当時と現在とでは大きく変わり、製作時に49歳の自分が決着をつけた作品のエンディングに、今となっては納得できないでもいた。
ついに、映画の結末を変えることを決意したということは、幻の映画「岸のない河」が完成に向けて大きく動き出したということだ。おそらくこれは、新人・三國連太郎監督のデビュー作だ。裏話を語るドキュメンタリーを観て、俄然興味がわいた。完成版が早い時期に登場することを切に願う。
(2009年10月24日)


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遅ればせながら、北海道の田舎のお年寄りパワーが生んだ「田んぼdeミュージカル」シリーズに邂逅 [日本]

訪れた札幌で、未見の超話題作「田んぼdeミュージカル」「田んぼdeファッションショー」「いい爺いライダー」の3作品一挙上映があることを知り、9月6日、会場のきたえーるまで足を運んだ。上映にあわせて、舞台となる地元むかわ町から駆け付けた、すべての脚本を担当した斉藤征義さんのトークもあったので(素人ということだが、数多くの取材などを受けたからか、相当場慣れされている!)、その内容も含めてまとめよう。
これらの自主製作映画の企画から配給まですべてをこなしたのは、北海道の小さな町のお年寄り中心のグループ「田んぼdeミュージカル委員会」だ。今年の春に第17回スポニチ文化芸術大賞を受賞したのがたぶんきっかけなのだと思うが、春から夏にかけてNHKや民放でも数局で大きく取り上げていたので、何となく気にはなっていた。
映画製作のいきさつは、それまでのニュースやワイドショーで伝えられていたとおり。今から8年前、北海道の人口わずか4千人の穂別町(現在は合併してむかわ町、それでも1万人足らず)が崔洋一監督を招いて講演会を開催。“映画は誰にでも撮れる”という監督の言葉に感化された地元のお年寄りたちが、監督との懇親会で「じゃあ、オレたちにもできるか」「やれる。どうせなら歌って踊るミュージカルを」というようなやりとりからスタートしたのだという。
☆     ☆     ☆
そして誕生したのが第1作「田んぼdeミュージカル」(02)。テレビ番組でダイジェスト的なものは何度か観てきたが、この45分のドラマを、通して観るのは今回初めて。戦後米作り一筋で苦労しながらも頑張ってきた老夫婦、源次郎と千代。しかし息子は減反政策を受け、メロン農家への転換を図る。農家の苦悩と親子の対立のなかで、戦争のために式を上げられなかった源次郎と千代のために、孫たちが披露宴を行う…。コメ、メロン、戦争をはさんだお年寄りの歴史、田舎のあたたかさに家族愛、といった町の誇るべきものを、年寄りばかりという町民が朴訥にしかし自慢げに歌い踊りながら魅していく。
正直にいうと演技は学芸会のレベルである。けれどもお年寄りたちのこんなに純粋でひたむきな姿は新鮮である。彼らの情熱は一体どこから来るのか。熱意が溢れて見えてくるという点では秀作であり、決してB級の作品ではない。完成後話題となって道内や東京でも劇場公開されたそうだが、主演女優の棚橋幸子さんは、ごく普通のおばあさんなのに、札幌で「田んぼdeのチヨさんですね」と声をかけられたとのことだ。世間への訴求力も大である。
製作当時で出演者の平均年齢が74 歳。65歳以上でないと出演できないと決め、総勢125人が係わったということだ。製作スタッフには一部若い人も交じっているが、ミュージカルであるため音楽は地元のおじさんバンド、振り付けは保母さんと素人ばかり。委員会の代表でプロデューサーを務めた、今年で84 歳の原田幸一さん(第3弾では主演も)は以前電気屋を営んでいたので町のお年寄りたちの事情を知り尽くしていて、お年寄りの健康状態を把握している町の保健婦さんとともにキャスティングを行ったそうだ。
崔監督も本当に撮り始めることになって驚いたが、年間に20回ほど町を訪れて指導してくれたらしい。これまたすごいことだ。制作費の大半は崔監督の航空券代だったのじゃないかしら。ホームビデオとはいえ、撮影現場は崔組の世界となった。スタッフにもキャストにも経験者はいないから、業界用語ひとつをとっても理解できない。めげないお年寄りたちは映画づくりにのめり込んで勉強を重ねた。これはいわゆる生きがいを見つけたということだろう。
歳をとると都会の会社員には定年があり、それを境にして生活環境がカットチェンジされる。けれども農業その他の自営になるとそれはフェードチェンジである。フェードチェンジの過程のなかでは、新しいことへチャレンジすることは案外と摩擦が少ないのではないか。また、田舎だとコミュニティもリーダーシップもある。町を盛り上げたい過疎の事情もあるし、「高齢者=映画」というスキマ的発想がうまくマッチして、成功へとつながったといえるだろう。
☆     ☆     ☆
話が1本とぶが、ちょっと悪のり感も出て、映画製作への野心まで見えてきたのが第3弾の「いい爺いライダー」(08)である。メンバーも初回作からそのまま齢をとり、最高齢者も89歳が4名となった。言い換えると実績を積んだ。エンドクレジットをみると、公的な助成金や製作協力の団体や企業もかなりたくさんついてきているし、空撮や人工雨、カメラワークについても凝ってきた。ただし演技力は相変わらずである(相変わらずというのは、一所懸命であることとお世辞にもお上手ではないことの両方)。
出演のお年寄りの間での一貫した合言葉は“撮り終わるまで葬式は出すな。死んだらお前の替わりはいない”。実際、クランクアップを待って亡くなる人はいたが、不思議なことに撮影中には不幸はひとつもなかったとのこと。映画を作るようになって大きく変わったことは、何より携わったお年寄りたちじしんの変化だという。偏屈だったおじいさんまでが歌い踊るので、家族がびっくりしてしまった。
さて、この第3弾は、おわかりのとおり「イージー・ライダー」をもじった題名だが、ストーリーに関連性はない。財政難に直面して合併問題を論争している、北海道の“山彦町”と“海彦町”が舞台だ。これは実際に2006年に旧鵡川町との合併を経験した、この穂別町のお年寄りたちの当時の心情や苦労が、フィクションとしてまたコメディーとしてデフォルメされながら映し出されている。
町同士の不仲ぶりを再現するかのように、山彦町の高齢者ライダー集団神雷隊は、海彦町の青年ライダー集団ミライダーと、それぞれの町の威信をかけて対立している。原田幸一さん演じる主人公が属する神雷隊は、合併反対を叫んで爆走しては、ミライダーとの旗とりレースにも勝利する。また合併を強行する町議会へも乱入し、議会は歌い踊りながら紛糾してしまうのである。
物語のもうひとつの軸は、ロミオとジュリエット的な恋愛事情である。山彦町で幼稚園の先生をしている娘キララ。両親は離婚し、父は山彦町でこの度廃校を迎えた小学校の用務員、母は海彦町で飲み屋を営んでいる。彼女の交際相手が海彦町側ミライダーのリーダー・橋本なので、二人の想いは成就できない運命にあった。
まあいろいろとすったもんだのあげく、園児を助けようとして増水した川で溺れてしまったキララの命を、海彦町の青年団が救ったことで、ドラマは急旋回する。ラストは両方の町民による盆踊り大会。「いいべさ」「いいべさ」と勢いに押される形で、映画はハッピーエンドで幕を閉じる。ここでもエンドロールで総合指導・崔洋一とでてくる(上映会場では、だから「カムイ外伝」のチラシが置いてあるのだ)。また、製作の「田んぼdeミュージカル委員会」は、毎日地方自治大賞、スポニチ文化芸術大賞をはじめ、いくつもの賞を受賞しているが、そのことが誇らしげにタイトル前に映し出される。堂々としていて、風格さえ漂っているのである。
☆     ☆     ☆
ところでわたしが作品として最も評価したいのは、第2弾にあたる「田んぼdeファッションショー」(05)。これだけは劇映画ではなくドキュメンタリーで、穂別町の元気なお年寄りたちが自ら企画したファッションショーの準備段階から本番までの様子を追ったものである。ショーは、田んぼの上に組んだ、仮設とはいえ本格的な特設ステージに、照明、音楽を使って行われる町の一大イベントである。
作品は、石崎百合子さん67歳農業、高橋博志さん76歳元鉱山勤務、阿保美登子さん78歳元電話交換手、前田富さん78歳元看護婦、と当日モデルとして“祭りの晴れ着”を着る男女のお年寄り10名ほどの順々のインタビューから始まる。それぞれの若かりし頃の写真をその都度登場させてはその人その人の歴史をみせ、当然おしゃれなどできなかった戦後のご苦労の時代をさり気なく示しているところが心憎い演出である。そういうお年寄りたちが、老人らしくさせられるのは嫌だと主張し、無意識にモデル歩きが出てしまうのよと照れながらおしゃれを楽しみ、ショーの準備を進めていく様は、観ていてこちらの口元も思わず緩んでしまう。登場してくるお年寄りの笑みからも、溢れんばかりの充実感が伝わってくる。
ショーについてはステージ製作のほか、ウオーキングやメーキャップなどは専門者が係わっていて、ユニクロなどのファッションブランドや、転倒時の保護緩衝材を縫い込んだりしているユニバーサルファッションの衣料メーカーも協力した。
さてショー当日…。すてきな作業着やスポーツウエアを着こなした彼らには、これまで老人らしく着こなし振舞うように押し付けられていたかつての姿はない。正直、我々の世代も理想として羨む輝きがあった。田んぼシリーズではお馴染みの「村人ダンサーズ」も、揃いのファッションで登場し、息の合ったダンスを披露した。ダンサーズのひとり布施平蔵さんはショーの後に亡くなり、その葬儀のシーンがインサートされるが、不思議なことにそれも運命であるかのように、作品全体の流れのひとつにみえてしまう…。
第1作、第3作とはちょっと異なる“老人の創造性”を、このドキュメンタリーでもしっかりとみることができた。
☆     ☆     ☆
お年寄りたちの今後について、トークショーで脚本担当の斎藤さんは、次回4作目を準備中で、来年6月にはクランクインしたいと述べられた。次回は西部劇の企画が進んでいるが、ただ、劇中で死ぬ役をやってもいいというお年寄りは、誰ひとりいないそうだ!

(2009年9月13日)

いい爺いライダー.JPG
何から何までインパクト大です!
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佐藤忠男氏の生涯ベストワンはインド映画「魔法使いのおじいさん」 [日本]

国際的に評価の高いアジアフォーカス・福岡映画祭のフェスティバル・ディレクターとして16年にわたり映画祭を統括し、昨年を最後に惜しまれながらご勇退された映画評論家・佐藤忠男氏がおよそ1年ぶりに来福、福岡の映画ファンを前にして舞台に立たれた。つい1週間前の7月29日までインド・ニューデリーで開催されていた第9回オーシャンズシネファン・アジア=アラブ映画祭に招かれ、生涯業績賞(Lifetime Achievement Award)を受賞されたばかりである。この受賞からもわかるように、氏は久子夫人とともに“アジア映画界の父、母”と称されるべき存在である。
しかし今回の来福は日本映画学校校長として。佐藤氏は佐々部清、三池崇史、本広克行、李相日などの映画監督を輩出した同校の校長を96年から務めてこられ、アジア映画界の父と呼ぶ前にまず、わが日本映画界の父なのである。OBの活躍のみならずここの卒業制作作品はとても水準が高く、劇場公開されたり映画祭で招待上映されたりと毎年評判を集めている。それらの特集上映「日本映画学校作品選」が8月1日から福岡市総合図書館映像ホールで始まり、その一環として5日日曜日の午後、佐藤氏の講演が行われた。
まず、講演後の客席の質問から始めたい。映画批評家としての生涯で最高の映画は?との問いに対し、いつも答えとして挙げているのは小津安二郎監督の「東京物語」と返す。有名な作品で多くの人が観ているので誰もが納得するし、それ以上の説明が要らないということだ。しかし自由に答えるとすれば、佐藤忠男氏の生涯ベストワンはインド・マラヤーラム語映画界の巨匠、故G・アラヴィンダン監督の「魔法使いのおじいさん」だそうだ。この作品は1991年の第一回のアジアフォーカス・福岡映画祭で上映された作品である(現在フイルムは福岡市総合図書館で所蔵)。当時この作品の配給権を買おうとした映画会社があったが、NHKがテレビ放送権を既に得ていたために断念したというエピソードも披露しながら、まるでたったいま観終わったかのように、鮮明にストーリーを説明された。今村昌平監督(日本映画学校の設立者でもある)も当時驚嘆されたという。佐藤氏によるとこれほど心豊かな映画は他にないというのが「東京物語」で、これほど素朴で純粋な映画は他にないというのが、この「魔法使いのおじいさん」だそうだ。
さてここで佐藤氏の講演に話を戻す。おおやけのための映画は、純粋な気持ちだけでは表現することはできない、それができるのは巨匠。もしくはあえていうと学生も。映画批評家である佐藤氏が、校長になって初めて知ったことが“未熟な世代を描いた映画は未熟な世代にしか作れない”。これまでの世界中の映画で観たことのない類の映画、それが卒業制作のドキュメンタリー「ファザーレス」(97)を初めて観たときの佐藤氏の印象だ。学生は作品を撮るために勉強をする。いろいろ調べることから社会勉強が始まる。邪道な撮り方もあるが、学生たちは大真面目で撮っている。そこから、劇映画のどんな名演技とも違う良いセリフが引き出される。学生映画にはこういう瞬間がときどきある。けれども、卒業後に入る業界では何でもハイハイと答えて、こなさなければならない、業界に入ってしまえば、もう純粋なものは作ることはできないと佐藤氏は語る。
いましか、学生のときにしか作れない映画をきちんと見つめ、的確に評価して、励ます。理事長、校長という肩書きでありながら、すべての卒業制作を自らチェックして指導する佐藤忠男氏の方針は素晴らしいと思う。卒業していく映画監督たちの中から巨匠と呼ばれる才能が生まれることを、われわれは信じて疑わない。
さてここからは舞台裏のおまけの話。実習を重んじ、現役の監督など現場のプロが教鞭を取ることで“かつての撮影所”のような学校を目指している同校ならではのことがある。それは卒業制作にプロの俳優が出演することだ。指導する先生のルートでお願いできる場合もあるし、少女時代の蒼井優が重要な役を演ずる「キネマ通りの人々」(02)、あの浅見れいな主演の「レンニュウ」(02)、日本が誇るバイプレイヤー光石研が脇を固める「エイン」(06)と映画ファン必見の卒業制作もずらり。五所平之助監督、加藤泰監督作品など50年以上のベテラン女優・石井トミコさんを「ファンキー・ライフスタイル」(06)の主演に迎えたときには、さすがに学生たちの撮影現場が締まったという。完成披露の場で石井さんは、これは私の代表作、葬式の時にはこれを流し続けてほしいと語ったとのこと。製作スタッフにはとても励みになる言葉だったと思う。
(2007年8月5日/福岡市総合図書館映像ホール)


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最新作「新・あつい壁」に込められた、中山節夫監督のメッセージ [日本]

中山節夫監督は、デビュー作「あつい壁」(70)以来、ハンセン病差別に対する強い思いを持ち続けてきた。中山監督は、娯楽作にはなじまない教育や人権といった地味な問題をテーマに撮り続けつつ、一方ではイランとの合作「旅の途中で」(02)も手がけ、海外の映画祭に審査員として招かれるなどの国際派でもある。
苦難の末に完成した「新・あつい壁」の披露試写が、このほど福岡でも行われた。新米ルポライターが55年前の冤罪事件を取材する中でハンセン病に対する偏見・差別を知らされていく…。「新・あつい壁」はドキュメンタリーではないが、架空の話でもない。劇映画という形をとってはいるが現実の事件をモチーフにしており(国立ハンセン病療養所・菊池恵楓園の入所者が、無実を訴え続けながらも殺人の罪で死刑執行される)、劇中で語られる台詞は、監督の長年の取材にもとづいた“生々しい叫び”ばかりである。それはあまりにも重たくて、見ている者の心にぐっと圧し掛かる。実の娘から「近づかないで!」と哀願される女性患者のエピソード、これも現実だそうである。
モデルとなった遺族や関係者には、もう触れてほしくないという強い願いもあって、容易に映画化できるものではなかったことは察しできる。
映画では冒頭に「この映画はフィクションです」と出てくる。このことについて、上映後に客席から監督へ質問が上がった。(映画の内容はすべて事実にもとづいているものなのに)若い世代が観たら、すべてフィクションと思ってしまうのではないかという懸念の声である。これに対して、中山監督はひと言で答えた「それがハンセン病なのです」。
知らない人たちや世代から“嘘だろ”“作り話だろ”と思われてしまうこと、それもまた現実なのである。
(2007年7月3日/福岡市男女共同参画推進センター・ホール)


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