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今年のベネチア・オリゾンティ部門監督賞「No Date, No Signature」 [イラン]

極めて巧妙な第一作「Wednesday, May 9」を観て、次の作品がとても楽しみだったイランのVahid Jalilvand監督の第二作「No Date, No Signature」(2017) 。これもまた良くて(病理や医療関係の言葉が多くて英語字幕を正確に理解できていないところはあるけれども)、今年のイラン映画を代表する一本となるのではなかろうか。そう思っていたら、先日閉幕した第74回ベネチア国際映画祭のオリゾンティ部門では、監督賞を受賞したそうだ。
とても刺激的な設定だ。イラン映画界で培われたと思われるストーリーテリングの醍醐味に溢れている。検死を担当する医師が、夜に自動車を運転していて、親子4人乗りのバイクと接触し転倒させてしまった。小学3年生くらいの息子が怪我をしたが、大きな外傷はなかったため、警察を呼ぶことを避け、その父親に救急病院に連れていくよう金を握らせて別れたのだ。しかし貧しそうなこの一家のバイクは、病院とは別の方向に消えていった…。
そして翌日。医師は、検死のために職場に運び込まれたその少年の遺体に遭遇した。昨晩のあの夫婦も、哀れな遺族として付き添っている。
我々はここから当然、少年の死因すなわち真実に目を向けていくのだが、それは、言わずもがな、主人公の医師がそうだからだ。少年の検死を担当した同僚は、食中毒によるものと結論づける。その報告書がある限り、前夜この少年を車ではねていた主人公に責任が及ぶことはない。しかし彼は、みえていない真実があるのではないかという思いに駆られ、報告を素直に受け入れることができないでいる。
自分じしんに何らかの責任を見つけ出そうとしているようにみえる医師。一方で、食中毒と判断されたことで、腐った鶏肉を買い与えた自分じしんを恨み、それを売りさばいていた男に重傷を負わせて逮捕されてしまう少年の父親。二人の男がそれぞれジレンマに陥り、ドラマは二重のループになっていく。ネタバレを避けて、医師が最後に決断してとった行動にはここでは触れない。
観終えてから、これが日本公開になったら、どんな邦題が相応しいかなどという妄想にまでたどり着いた。Vahid Jalilvand監督には今後も注目だと思う。
(2017年9月20日)

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パルヴィズ・シャーバズィー監督の最新作「Malaria」 [イラン]

第73回ベネチア国際映画祭オリゾンティ部門でワールドプレミア上映された,イランのパルヴィズ・シャーバズィー監督の最新作「Malaria」(2016)。
事件の遺留品なのだろうか,何かの手がかりと思しき携帯電話から再生される録画映像のなかから,物語が始まる。そこに自撮りで登場してくる娘と若い青年は駆け落ちしてきたらしい。それも身代金目的のこの娘の誘拐を装って。テヘランへと向かう彼女らがヒッチハイクしたのは,マラリアという音楽バンドのメンバーAziの車。Aziが仕方なく二人を自宅に招いたところ,彼じしんが誘拐犯を追って殺気立つ娘の父親や兄たちとの騒動に巻き込まれていく。
マラリアというバンド名、いや題名が、何だかこの国では刺激的に聞こえる。そもそもこのドラマの主軸にある、女性を取り巻く伝統という固い殻を破らんとする一人の娘の冒険が、イラン社会においては病気であって、社会に対して熱を発しているというのだろうか。主人公が到着したテヘランでは折しも、欧米の経済的制裁解除に導いたザリフ外相を讃える国民で溢れていた。イランの国力を守り抜いたからだろう。その一方で、主人公のような若い女性の勇気は守られない。
ところでイランは今また、トランプ米国大統領と向き合うことを余儀なくされている。
(2017年2月2日)


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21st BIFFから/イラン映画「The Dream of Water」 [イラン]

アスガー・ファルハディのように進化を遂げていない、良い意味でガラパゴス的なイラン映画の貴重作として「The Dream of Water」(2016)のワールドプレミアを観た。監督はFarhad Mehranfarで、イラン映画が国際的に台頭してきた90年代に集中して観た中に「Paper AirPlanes」(1997)、「The Tree of Life」(1998)の監督作があるが、それ以来観たことになり、僕としてはすっかり忘れていた存在。
砂漠の真ん中でジープがオーバーヒートしてしまった男がたどり着いたのは、かつては集落だっただろう廃墟群。そこには鮮やかな織物を織り続ける謎の老人がいて、男は建物の地下にある秘密めいた井戸の空間に閉じ込められてしまう。地下は通路で縦横に広がっていて、奥には人工池があって魚もいる。男の前でこれまた謎の若い女性の姿が見え隠れする。イラン映画なのだからまさか怨霊ではないだろう。
ミステリアスな地下世界の描写が続き、老人はこの集落を甦らせるために井戸の復活を望んでいて、女性はそのために自らを捧げた“井戸の花嫁”であることがわかってくる。この人たちはどうやって生活しているの、というファンタジーに対するツッコミはせず、登場人物たちによる水源探しにあわせて、我々もこのイラン映画らしい文脈の中からそこに埋め込まれたメッセージを探さなければならない。暗い地下世界の中に飛び込んできた男は何を象徴しているか、生きるために必要な水は何に例えられるかなどを。
(2016年12月7日)


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第72回ベネチア国際映画祭上映の「Wednesday, May 9」 [イラン]

第72回ベネチア国際映画祭のオリゾンティ部門で上映されたなかのイラン映画「Wednesday, May 9」(2015)を観た。Vahid Jalilvand監督による初監督作であり、じしん二本目の出演作だそうだ。
作品名になっている、5月9日水曜日、ある広告代理店の前に老若男女大勢が群がり、警官たちが出動して整理している。それらの人々も引けてきた夕方になって、建物から出てきた男Jalalと、外に待っていた子連れの女性Leila(ニキ・キャリミ演じる)が出会う。その出会いは、20年前に婚約していた二人にとって偶然の再会でもあった…。
一つめはLeilaの物語。いま彼女は精肉工場で働きながら病気の夫(監督演じる)の面倒もみていること、その夫の高額の手術代に困っていることが描写されていく。Jalalはその費用の提供を申し出るが、彼女の夫がそれに甘えるはずもない…。
物語の流れからJalalが、「申し出た人に苦難解決のために3000万トマンを差し上げる、5月9日に受け付ける」との新聞広告を出し、冒頭はそのための群集だったことが次第にわかってくる。
そしてその10日程前のできごと。二つめはSetarehの物語。19歳の娘Setarehは家族をバムの地震で失い、身を寄せている親類の家では虐げられている。愛し合っている青年と勝手に入籍したことがわかって騒動になり、成り行きで青年が彼女の従兄に怪我をさせてしまう。青年は逮捕され、身重のSetarehは住む場所もなくなり、従兄が請求する高額の賠償金を用意しない限り、これから先、青年と生きていくことはできない。そんなSetarehが5月9日の新聞広告を知って、お願いに向かった先は人だかり、人々の不幸比べが行われている。
日常的には発想しないような切り口がイラン映画の魅力のひとつだったりするが、最も不幸な人を選び出すという難題ともいえる設定が、人々の生活を浮き彫りにしていく。張られた伏線を辿る、時や場所を往復しながらの展開によって、心理的な緊迫感を保ちながら、Leila、Setareh、Jalalそれぞれの人間ドラマが絡まりながら綴られていく。
だがそもそもなぜ、妻との関係を不和にしてまで、困っている人を救済しようとしているのか、それが三つめのJalalの物語だ。裕福な資産家が、貧しい人に施しを与えようというわけでもなく、だから彼には3000万トマンの提供先として、LeilaとSetarehのどちらかを選択しなければならない。
人の心は単純なものでなければ、人の生き方も単純なものではない。だからこういう、人間心理において巧みなミステリー的な映画が成立するし、そしてこれは、それをそう単純にはみていかない観客を魅了する作品だと思う。
(2015年9月17日)




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イランの短編「キミのモノ」 [イラン]

※ネタバレあり

ユナイテッドシネマ福岡で「ショートショート フィルムフェスティバル&アジア2015」特別セレクション(6月24日〜26日)と題した上映会で、今年の受賞作品の一部を観る機会があった。過去には福岡開催のときに足を運んだこともあったけれど、それは「&アジア」が付く前のころだったような気がする。
今年はUCグループで頻繁にプロモーションしていたので、僕もロードショー前には告知を10回以上は観ていた勘定で否応ない期待があり、一方でオモクリ監督作品の出品もあって、世間的にも注目はこれまで以上だったのではなかろうかしら。
今年の受賞作品のパッケージ上映では、5作品を観ることができた。イランのレザ・ファヒミ監督作品「キミのモノ」(2014)は、アジアインターナショナル部門・優秀賞とのことだ。
二人の男の子が、自分たちの周囲のザクロの樹、鳩、旗と交互に指差しては、『オレのモノ』『オレのモノ』と譲らない。幼少時に僕じしんも主張していた、子ども特有の独占欲だ。それが剥き出されていく。妥協のない、意地の張り合いは次第に発展し、『校長はオレのモノ』『罰を受けた方が勝ち』と言い合っては敢えて校長の罰を求め、『トイレはオレのモノ』と言い合っては我れ先にとトイレに駆け込む。子どもとはいえ、あまりにもナンセンスなやりとりである。それでいて、恐い用務員については、キミにあげていいよ、どうぞどうぞと、一転して譲り合う。ダチョウ倶楽部か、キミたちは!
取っ組み合いにまで発展していく物語(コントのような)のオチは、父親に叱られて泣いている相方を見つけて語りかける、『これは二人のモノだよ』という慰めの言葉であるが。
(2015年7月26日)

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アジアフォーカス2014「絵の中の池」 [イラン]

「絵の中の池(The Painting Pool)」(2013)
イラン
マズィヤール・ミーリー監督

コロッケの真似が本当に美川憲一そのものなのかとは深く考えないし、プロの役者が刑事や犯罪者や政治家を演じても、デフォルメでしょ、と割り切って観る。けれども、知的障害については形態模写ではなくて人間の尊厳に関わるものだから、「くちづけ」の宅間孝行のようなコメディ表現はちょっと別にして、まずはスクリーンの前で慎重に構えてしまう。例えば、何か外的な要因で精神状態が変化していく、また老化によって考え方が硬直したり理解力が落ちたりというようなといったようなことは、イメージ形成できるだろうが、知的障害って果たしてどういう心持ちで演じるものなのだろう。
本作はうまく作劇されたエンターテインメントとして、国際的にみても水準高いと思う。知的障害者夫婦の子育て苦労のポートレートで、親子愛があって、理想の姿が追求されている。知的障害のある夫婦を演じた男女の俳優には十分に存在感があり、それぞれの演技は素晴らしかった。妻役は、少し前にNHKで放送されたイラン映画「花嫁と角砂糖」では花嫁役だった女優だ。
ところでイラン映画界は、これまで素人俳優をうまく起用したドキュメント風の力強い傑作を登場させ、たびたび世界を驚かせてきた。一方で本作はプロフェッショナルな完成品。経済制裁を受けている国というイランらしい背景に物語を置いてはいるが、家族の絆という部分は万国共通、場所を変えても成り立ちそうな話だ。そういう意味で、僕としてはこういう題材をまさにイラン映画らしい風貌で成り立たせてくれるものをあえて観たいと、欲張って思った。
(2014年10月28日)


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アジアフォーカス2014「予兆の森で」 [イラン]

「予兆の森で(Fish & Cat)」(2013)
イラン
シャーラム・モクリ監督

人肉提供の疑いで閉鎖された食堂の実話を基にしていると冒頭に出てくる。イラン映画であるのだから、美女が血みどろになるスプラッタの世界へとは進行していかないことは誰もが承知だが、出だしから心理的な緊張が張り詰められている。包丁を身につけ、獲物を探す狩人のようにさすらう粗暴な男料理人ふたりが時々スクリーンに現れる進行役になって、2時間を超えるドラマがワンカット撮影で展開される。舞台はスポーツカイトの学生大会の会場として用意されている湖畔と、その食堂につながる林。
例えばテレビ番組のイリュージョンマジックで、タネも仕掛けもないでしょうと誇示してワンカット撮影をするが、それは編集などの場面展開の細工も時間的な短縮もないことをみせるため。しかし本作の驚くべきところは、140分間を140分かけて描いているわけではないということ。その中でデジャブにしかみえない同じ時間進行を何度も繰り返しながら、大会参加の学生たちグループの会話がつくるエピソードによるオムニバスドラマを形成しているということだ。カメラワークは湖畔を行きつ戻りつして、リレーのバトンのような役割を担って、フレームのメインキャラクターが次々と交替していく。身内同士がトロントで同室という偶然、故郷近くに住む祖母のこと、妊婦になった元カノとの再会、交際中のカップルなどなど。こういうフォルムが本作品の最大の魅力だが、包丁料理人による猟奇的な空気感に、事故で片眼だけが変色した女、ともに片腕しかない双生児と、妖しい世界のアイテムも尽きない。
オムニバスの途中で話題になっていた、女学生失踪事件のことが最後になって描かれる時、観客は予見されたデジャブとして満足感に達して終わるようになっている。
(2014年9月29日)

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17th BIFFから/イランで西部劇? 「My Name Is Negahdar Jamali and I Make Westerns」 [イラン]

かつて観たドキュメンタリー作品、インドの「インド・マレガオンのスーパーマン」(2008)ではスーパーマンのパロディ映画を大真面目に自主製作するインドの若者たち、チュニジアの「VHSカフルーシャ」(2006)ではターザンをはじめとしたヒーロー映画を自作自演する変人の存在を知って、どちらもその情熱に感激しつつも大笑いさせられた。
今回、第17回釜山国際映画祭で出会った、イランの傑作ドキュメンタリー「My Name Is Negahdar Jamali and I Make Westerns」(2012)を通して、イランにも、映画の魅力に立派にイカれていらっしゃる方がおられることを確認できた。10月7日、Lotte Cinema Centum City 2にてワールドプレミア。
まずエンディング近くの場面から引用する。街角の広場の壁にスクリーンを張り、近所の住民を集めて自作の西部劇を映し出し、ドヤ顔でそれを見つめるNegahdar Jamaliという男。彼こそ、ジョン・フォード監督が描くウエスタン映画の魅力に心奪われ、以来35年間で数十本もの西部劇を自費で撮り続けている人物だ。イラン映画界の巨匠マスード・キミヤイーよりも優れているとご本人はのたまうが、Jamaliはそのキャリアからみて60歳前後、シラーズの街で、ご近所さん相手に低予算映画を連発している超インディペンデント作家である。その自称巨匠を、Kamran Heidari監督が追いかけたドキュメンタリー。
革命後の今日にあっては、イランで西部劇?というミスマッチ感覚があるが、撮影ロケーションとして、シラーズの風景は西部劇においては案外といい雰囲気に映る。
このドキュメンタリーは、まず最初にJamaliの映画づくりに同行していく。いつも仲間を口説いて出演させているようだが、すぐに死んでしまう役は嫌だとか、ギャラをたんまり出せと要求されたりする。インディアン役にアフガン人を探し、そのインディアン用の羽根を手に入れるために鶏を売っている市場へも向かう。製作に協力してくれる人もいれば、呆れかえっている人もいる。
撮影はどうも、即興のよう。Jamaliは自作自演である。彼こそが主役なのだろうか、ピンクの衣装を着て「インディアンが隠れているぞ!」とカメラに向かって叫ぶ。それはもう自己陶酔の世界、恍惚のなりきりぶりには苦笑するしかない。こんな大人の遊びを35年も続けてきたのか! 初期の8ミリ作品も紹介され、彼が筋金入りの存在であることがよくわかる。
そんな彼にも妻子はいる。どうも、妻も子どもも彼の作品に出たこともあるようだ。しかしドキュメンタリーは、衝撃的な場面を映し出す。Jamaliの度を超えた熱中ぶりに愛想を尽かして、妻は幼い子どもを連れて家を出てしまうのだ。トラックがやってきて、家財道具が次々と積み込まれる。Jamaliは玄関先に座り込んで「映画一筋で、家族との時間を過ごしてこなかった」と、撮影の時のハイテンションはどこへ行ってしまったのか、小さな声でそう語り、ため息をつく。
しかし、仲間とともに街中に手作りポスターを貼り、野外上映会で集まった観客のウケがいいと、Jamaliの瞳は自慢げに輝き始め、ドヤ顔へと早変わりする。上映が終わって一人きりになっても、彼はしばらくスクリーンを見つめている。そしてやがて一人で撤収して去って行く。自転車で道を下っていく姿には、客観的には哀愁が感じられる。しかし、おそらく彼の心の中には、哀しみは全く存在しない。西部劇に対する情熱が、彼をこれからも前へ前へと進ませるはずだ。あっぱれだ。
(2012年11月16日)

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アジアフォーカス2011/400字レポート④ 「ゲシェル」 [イラン]

アジアフォーカス2011/400字レポート ④
「ゲシェル」(10) イラン ワヒド・ワキリファー監督

劇中のテレビニュースでは「原発に必要なウラン濃縮技術を手に入れ、核燃料サイクルを確立した」とアフマディネジャド大統領が高らかに宣言している2006年。そんな国の繁栄とは全く無関係の、この作品の登場人物のような、パイプライン管の住人たちがいる。日本映画だと社会派ドキュメンタリーに昇華しそうなこれら底辺の人々の存在も、イランの作家の手にかかるとそうはならずに(できずに)、極めて詩的な映像ドラマに姿を変える。そこはペルシャ湾岸のガス油田地帯。ひとつの管で共同生活をするタクシー運転手ジャハン、トイレのパイプ掃除工のネザム、コンビナートで働くゴバドの三人。彼らのセリフはごくわずかで、日常の描写が延々と繰り返される。
イランには十回くらい行った経験があるが、イスラム式トイレがわたくしは大の苦手。男の共同トイレも個室しかない場合があって、本当にあんな風。どこも足元だけでなく壁までがベシャベシャ、いろいろ飛び散っている場合もあって、詰まっていて息もできない。そんな経験があるので、ネザムが糞尿飛び散らせてパイプの詰まりを素手で直す長回しのシーンは、格別にリアル。その後に同じぐらいの尺で、彼が海に体を漂わせるシーンがあるからこそ、観客も精神的に立ち直れるが…。ネザムは特にご苦労な職業だが、三人とも、声を出して笑える瞬間が少しもないわけではない。ジャハンが洋服屋で試着だけを繰り返したりしているが、身の丈以上の振る舞いをすることでストレスを発散させたい気持ちはよくわかる。
パイプ管の生活では電気がないから、夜は彼らの存在が真っ暗で見えない。景気よさそうに上がっている工場の炎だけが浮かぶ夜景は美しいけれども、彼らの息づかいはしっかりと心に届く。
本作のプロデューサーとして名前が出てくるMohammad Rassoulofは、ジャファール・パナヒ監督とともにイラン政府に不当逮捕され、映画製作禁止という判決を受けた映画監督だったと思う。
(2011年9月20日)

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イラン映画「ラン アンド ラン」に主演した間寛平さんの凱旋トークと先行上映 [イラン]

〈映画の結末に触れています〉

タレントの間寛平さんが、芸能活動を休止して2年前からマラソンとヨットで世界一周に挑戦しているということ程度は芸能ネタとして知っていたが、コースの途中に足を踏み入れたイランで、主演として映画撮影に挑んでいるという新聞記事を一年前の昨年2月に見たときにはちょっと驚いた。それも、監督はカマル・タブリズィだという。
その記事に前後して、完成した作品は、昨年3月に開催された第2回沖縄国際映画祭で特別上映作品としてビーチ上映されることを知った。知人に融通してもらった映画祭カタログによると、題名は「ラン アンド ラン」(10)で、地球一周を目指して走り続けている日本の男カンペイがイランの小さな村を訪れるという話だそうだ。イラン=日本の合作であるし、いずれ日本にゴールされたころにでも劇場公開されるのだろうと、その時は勝手に思っていた…。
そしてそのことじたいも忘れかけていて、間寛平さんが中国からヨットで日本に到着して最終ゴールの大阪までの道のりで、西日本各地でトークと主演映画上映のイベントを繰り返すということを、チケットぴあに置いてあるチラシで知ったのが、昨年末のクリスマス頃。福岡での日程は1月4日で、会場はユナイテッドシネマ・キャナルシティ13。全席指定だというし、もう間もないので、その場で即、チケットを購入した。しかし受け取った券面をみると、「福岡への到着日、間さんの体調などにより、スケジュールや内容が急遽変更になる場合がございます。詳細はHPでご確認ください」という注意書きがある。それでそのアースマラソンの公式HPで、中国・青島からヨットで福岡に到着する予定が1月4日その日だということを、買った後になって知ったわけである。まあ、本人到着が遅れても上映はできるだろうし、本人立ち会いでの凱旋初上映、それも福岡でというのも貴重だろうと思い直してみた。
そして当日。間さんのトークに引き続いての上映。観客は7割程度の入りだろうか。相当数のメディアが入っているので、それを加えると劇場の定員ぐらいには達しているかもしれない。
映画は、カンペイ氏が日本を出発して米国に渡って…という、日本の放送局が提供したと思われる記録映像から始まって、それが続く。イランに入ってからは、砂漠風景の一本道をただ走るカンペイ氏に、通りすがりの車から人々が降りてきては、次々に声をかけていく。警官や家族連れ、イラン=イラク戦争で片足を失った人などが、伴走したり、記念写真を一緒に撮ったり、差し入れを渡したり、彼のために祈ったりと、イランの人懐っこい国民性がここで十分に表現される。
最初の15分近くは、このアースマラソンのほぼドキュメンタリーであるが、ここから、バハールという女性が新任教師として、とある村にバスで向かっているという物語に移行していき、作り物のドラマの色と空気に上手く変わっていく。
映画としてみると、タブリズィ監督作品の「風の絨毯」「ザ・リザード」など日本でも知られているものよりも、以前観た「Sometimes Look at the Sky」(02)「A Piece of Bread」(05)といった日本未公開作の作風に近い。
出だしのカンペイ氏が活躍するドキュメンタリー部分では客席からは笑い声も随分と上がっていたものの、ドラマに入ってからは、後半まではカンペイ氏がスクリーンに登場しないものだから、いわゆる“イラン映画の世界”に水が合わず、しびれを切らしたのか、席を立ってしまう客も目立った。
さて、バハールが赴任してきた小学校はまるで廃墟のようになっていて、教室にかけられた鍵もどこにいったのか見つからない。村人たちは生気がなく、魂を抜かれたかのようにじっとぼんやりしている。若い男女でさえ、交際する気力もなく、学校に通うべき子どもたちも勉強する気もなく退屈そうに遊んでばかりである。
やる気を持ってやってきたバハールはただただ驚き呆れるが、村がこんな風になってしまったその理由は描かれない。この不条理ともいえる世界は、タブリズィ監督にしては残念なことに、ちょっと作り込みが過ぎていて、それでいて表層的である。
そのようなこの村に突然、ヨットとマラソンで世界一周をしているらしい日本人が現れる。そのカンペイ氏は、イランでも有名な存在になっているようで、彼を診察する隣村の医師(ホセイン・アベディニが演じる!)が「彼はミスター・カンペイだ」と驚く。
バハール先生はじめ村の人たちとカンペイ氏は、言葉こそ通じないものの、彼の「ノーミソ・バーン」「イターイ」「ワーォ・ワーォ」といったギャグや行動に心が動かされ、無表情だった子どもたちは笑顔を取り戻して勉強を始め、死んだようにしていた村人たちは急に反応し、壊れた家を修理するなど活き活きとし始める。青年は若い女性に求婚をするし、動かなかった亀までが歩み出す。まるで季節が変わったかのような、あまりにも急激な村の変化は、それまで青みがかっていたスクリーンに少しずつ暖色が付いていくというようなことで、視覚的にもわかりやすくてストレート。カンペイ氏が来たことで花が咲くみたいな、童話のような展開である。
話の軸としても、ドラマの冒頭から登場して永遠に探し物をしていると言われてきたナネ・モラードというお婆さんが、失くしていた学校や牛小屋の鍵などを最後になって見つけ出し、最後に“笑いは重要な鍵である”と出てくる格言のような言葉で、念押しのようにして締め括られる。
ところで、コメディアンという仮面をかぶったカンペイ氏が、素顔らしきものをみせるところもある。教室の黒板を使って、自分がイランに入るまでの世界一周の道のりを絵で説明する。そして「トルコで病気が見つかったので、じつはイランから先が心配なのです」と告白する。
バハールは、悩みはハーフェズに相談すると良いと答える。そしてハーフェズの詩集から「私に美酒を飲ませたのは何人か」「私に美酒を」「美酒を得て砂漠に向かえ」と、カンペイのために祈るように唱える。
カンペイ氏はギャグで人々を煙に巻くが、ペルシャ古典詩の世界をよく知らないわたくしは、同じようにして詩の世界に煙に巻かれた感じだ。このあたりが、合作で顔を合わせた間寛平ワールドとイラン文化の、それぞれの不思議世界の面目躍如か。
映画は最後になって、バハール先生が赴任先の村に向かうバスの場面に引き戻されるので、それまでのカンペイ氏に影響を受ける村の童話物語そのものが幻だったかのようになり、物語そのものの実在が惑わせられるのである。ここに至って、タブリズィ監督も面目躍如である。
さて順序が逆になるが、映画の上映前に30分程度の、間寛平さんのトークがあった。世界一周を振り返って、カザフスタンで3人の兵士に囲まれたエピソードなどが披露されたが、ギャグを織り込んでの話なので、冗談なのか真実なのかはよくわからず、苦笑しながら聞くしかない。
映画出演についてのコメントは、上映直前になって「言葉もわからずに出演したので、アヘアヘとしか言ってません」と一言だけでこれまた、芸人というベールを頭から被り、本音を包み隠して一切みせず、誤魔化されたような感じだったが、観終わってみて、確かにそのとおりだったではないか!

サイクリスト.jpg
本文とは関係ないが、“走り続ける”ということで思い浮かんだイラン映画が、
モフセン・マフマルバフ監督の代表作「サイクリスト」(89)。もっともこちらは
一週間休まずに自転車に乗り続けるというものだが。写真はイラン版のVCD。

(2011年1月8日)

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エブラヒム・フルゼシュ監督の信頼できる面白さ。最新作「The First Stone」 [イラン]

主人公の男Hassan Aliは、村人たちから変人扱いされている。何故かというと、自分のための立派な墓石を手に入れることに異常に執着しているからだ。そのために妻Ziberからも愛想を尽かされている。彼は何度も何度も墓石屋を巡り通うが、そこで彼が出会う墓石は、我々が見て、イランの宗教・文化、もっと言うとイランの芸術観や美学がうかがい知れる見事なものばかりだ。繊細な装飾が施されているもの、美しい詩が刻まれているもの、立派な肖像画入りといかにも高価そうである。これはもう、芸術作品に他ならない。
ついにHassanは念願の墓石を手に入れた。妻を褒めあげる詩を彫り込んで妻とも和解、逆に妻も娘も彼の墓石を村中に自慢し始め、これまで馬鹿にしていた彼の元へ、村人たちがお祝いに集まってくるようになった。子どもたちは学校の工作で墓のミニチュアを作ったり、村の女たちは次々と夫に墓石をねだるようになり、村はちょっとした墓石ブームに。村の男たちは挙って、他人よりも立派な墓石を作ろうと競い合い、その騒動の中で何と、Hassanの墓石が割れてしまう! 80分という短い尺の中でメリハリがあって、パンチも効いていてシャープ。物語は最後までに、もうひと展開ある。
エブラヒム・フルゼシュ監督の最新作「The First Stone」(10)のワールド・プレミアである。キアロスタミ監督と同年代で、同じくイランの児童青少年知育協会の出身。過去に何度かお会いし、小柄でいつもニコニコと笑っている印象が残っているフルゼシュ監督はキャリアもあって、イラン映画界では大ベテランのひとりだ。2年前の第21回東京国際映画祭のコンペ部門にも、監督作「ハムーンとダーリャ」(08)をインターナショナル・プレミアで出品していて、国際舞台にもコンスタントに登場している、観てハズレのない監督だ。特に尖った作家性を追求してはおらず、児童映画で腕を磨いた正統正調なイラン映画の作り手といえようが、今回の作品もイラン映画風のイラン映画で、麗々しい墓石を作ることに心を囚われてしまった男のブラックな物語である。風刺の効いた寓話的なコメディで、これまでどおり信頼できる映画づくりを保っている。
第15回釜山国際映画祭にて鑑賞(2010年10月10日。Lotte Cinema Centum City 3にて)。

これまでに日本で上映・放送されたと思われる監督作品
「ハムーンとダーリャ」Hamoon and Darya (08)
「石油地帯の子たち」Children of Petroleum (01)
「ぼくは一人前」The Little Man (98)
「水瓶」The Jar (93)
「鍵」The Key (87)

(2010年11月17日)

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アジアフォーカス2010/400字レポート①「私のテヘラン」 [イラン]

アジアフォーカス2010/400字レポート①
「私のテヘラン」(09)イラン・オーストラリア グラナーズ・ムサウィー監督

テヘランは閉塞した街。そして容易には海外に渡航するもできない。オーストラリア国籍のイラン人男性と出会い、彼と結婚することで豪・南部の街アデレードへの移住申請をした舞台女優のマルズィエ。しかし健康診断でHIVに感染していることが判明し、彼女の夢はすべて崩れる。男から捨てられ、家財を売り払ってまでして密航した彼女が、難民申請して受ける面談と、過去の彼女の奔放な生き方が交錯して描かれていく。
アングラ芝居に勤しみ、酒や音楽、果てにはマリファナまで、当局に見つかると厳しく罰せられるパーティーを繰り返すことで生きる喜びを謳歌するマルズィエ。そんな彼女の人生観は描かれているが、当局の宴の手入れの場面では「スカーフをかぶれ!」「肌を隠せ!」というセリフが飛び出すだけで、実際にそのような描写はなく、抑圧に抵抗する姿を描こうとする映像表現には当然限界がある。ましてやHIV問題に発展するような前フリもないので、展開にやや唐突な感じもしたが、まあ、それこそ人生なのかも。
近所に住む少女ニルが、このマルズィエのところによく遊びに来るのだが、ニルは親に買ってもらったカメラ付携帯でいつも身の回りを撮っている。偶然にだが、通りの交通事故や病院に中絶に来る女性などを映す。確かに昨年の大統領選挙後のデモ騒動も、テヘラン市民の撮った携帯映像が国際ニュースで活躍していたし、表現には限界ありとわかっている映画の中に、カメラ付携帯を登場させたのは、監督が発するメッセージのひとつなのかもしれない。
私のテヘラン.jpg
(2010年9月27日)
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アジアフォーカス2010試写室レポート:イラン映画「セレモニーホール」 [イラン]

もしも映画についての教科書があるとしよう。で、アジアフォーカスが始まった20年前、情報が乏しかったころであれば、「イランでは、検閲が厳しいために児童映画が特に発達しているのが特徴です」という、ちょっと牧歌的にも聞こえるような表層的な見方が、教科書表現としては、十分に通用したかもしれない。
しかし…、その裏側で映画製作をめぐって厳しい弾圧に直面してもがいている映画人たちがいることがだんだんとわかってくる。その姿は改善されることはなく、当局と表現者の間で人権侵害の域にまで根を張ってしまった、それは今もなおイランの映画界にみられる、度を越えた大問題である。
古くはマフマルバフ監督が国外での製作を余儀なくされたが、今年に入っても、カンヌ国際映画祭の審査員に選ばれながらも、反政府の作品を撮ったために身柄を拘束されて審査員席はついに空席のままだったジャファール・パナヒ監督。無許可で撮影した監督作品「ペルシャ猫を誰も知らない」のため、パスポートの再発行を拒まれて、渡航できなくなっているバフマン・ゴバディ監督。米国の映画「ワールド・オブ・ライズ」でディカプリオと共演したことで反体制の烙印を押され、国内で活動できなくなった女優ゴルシフテ・ファラハニ。ああ、何ということだろう。
核開発問題ばかりで注目されるイランからは、強権的なアフマディネジャド大統領の顔だけが見えてきて、人々の声や姿はなかなか届かない構造になっている。そうなると映画は、映像という特殊な言語で語られているゆえに、社会的にも深読みの対象になってくる。
閑話休題…。アブドレザ・カハニー監督の映画「セレモニーホール」の舞台として登場する、バンケットホールの従業員たちは、なかなか人間味あふれた人々である。経営者ソレイマニ氏は口数も少なくて笑わないし、何を考えているのか分からない、店の中でも際立って孤立しているように見え、おおよそ嫌われているのではないかと思わせる人物である。それを、名優パルヴィズ・パラスツイが非常に現実的な存在としてみせながら演じる。
従業員たちの小さなミスをいちいちチェックしていては、厭な親父と疎まれても仕方がないと思うのだが、そのソレイマニ氏が主治医である精神分析医の助言から、あと20日で店を閉めると決めると、彼の下で働くコックや給仕係たちはそれぞれの方法で、閉店延期を画策する。そこには、店が閉まると路頭に迷ってしまうという自分たちの都合がまずあるが、主人に対する思いやりも見え隠れする。映画の中では、素性や過去がよく明かされていないソレイマニ氏だが、彼の息子だと称するミュージシャンが現れたり、従業員同士の結婚式が行われたりして、20日間のドラマはちょっと喜劇調になったりもしながら進んでいく。
このホールでは、祝宴よりもどちらかというと葬儀の方がおもな予約で、そこでの人々の様子は、イランに何度か足を運んだ者からみても、本当におおよそこんな感じだろうというリアリティがある。カバブ料理がよく出てくるが、その味を知っているものにとっては、旨そうで旨そうでたまらない。
この映画を観て、ああ、イランっていいところだなあと感じてしまうのは、わたしだけだろうか。いい、といってしまうその感覚は、名所旧跡ではなくて何気ない通りや路地裏、街角に対して感じる魅力についてと同じで、ソレイマニ氏を取り囲む人々が、そのような普通の路地裏にいそうな住人たちだからだ。
(2010年9月15日)

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アジアフォーカス2009/400字レポート⑧「テヘランの孤独」 [イラン]

アジアフォーカス2009/400字レポート⑧
「テヘランの孤独」(08)イラン サマン・サルール監督

アンテナの闇商売をしているハミドは、口が減らないチビ。甲高い声でいつもまくし立てる。彼を訪ねてきて居候を始めるベールズは戦争ノイローゼの帰還兵で、何ともうすのろな奴である。二人はズッコケコンビで、最後には大家から追い出されてしまう。滑稽なやりとりが全編で繰り広げられるが、彼らは貧しさを楽しんでいるわけではなく、もちろん幸せを感じているわけでもない。何もかも、この街のすべてにウンザリなのである。ハミドとベールズは、お前なんてウンザリだよと、追い出された後に別れてしまうが、果たして、そうなのだろうか。「本当の自分を見失う街」「本当の自分に会いたい」「誰も本当の自分を見せていない」…。孤独な呟きが繰り返されて、観ていてその度に心に沁みる。
人は結局のところ孤独である。孤独に思うから本当の自分を見せないのか、本当の自分を見せていないから孤独なのかは、わからない。だが、戦争映画のエキストラ経験程度で本当は兵役にはついていないベールズの気持ち、過去87回も失恋しているくせに1回だと偽るハミドの気持ち、どちらも、哀しくなるくらいよくわかる。
低予算でプロの俳優も使っていない、たった75分のデジタル作品だけれども、詩的な表現に優れていて、彼らと同じ都会の空気を吸うことを想像するだけで、泣きたくなってくる。
(2009年10月4日)

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「君のためなら千回でも」に出演、イランの俳優ホマユン・エルシャディ [イラン]

「君のためなら千回でも(The Kite Runner)」(07)は、福岡でもシネコン(ユナイテッドシネマ)で公開されたハリウッド映画だが、ソ連軍の侵攻からタリバン政権へというアフガニスタンの激動の時代を舞台背景に、少年時代から引きずる母国への想いを描いた、心打たれる傑作である。監督は、ハル・ベリー主演の「チョコレート」などを撮ってきたマーク・フォスター。
平和な時代のカブールの街、タリバン独裁下の荒れ果てたカブールの街。ともに中国・新疆ウイグル自治区での撮影だそうだが、そんな裏話は後から知って、ああそう、と思うくらいで見応えはあるし、何よりも観る眼は、二人の少年のほぐれてしまった絆をスクリーン上に追い求めてしまっていた…。
親友だった二人の少年アミールとハッサンは、ふとしたことから心に距離ができてしまい、その溝を埋める前にソ連軍がアフガニスタンに侵攻、そのままアミールは父とアメリカに亡命してしまい、二人の心は決して交わることなく長い歳月が流れてしまう。そして時は2000年、小説家となったアミールに、父の友人から「アフガニスタンに帰って来い」と電話が入る…。
まあ、一般公開作品なのでいろいろ専門誌などには論評されているだろうし、いずれDVD化されたり放送されたりするだろうから、ドラマの中身を細かく書くことは避ける。筆者がとても懐かしく感じたところは、そのアミールの父親役で、イランの俳優ホマユン・エルシャディを見つけたことだ。
ホマユン・エルシャディは、第50回カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した、アッバス・キアロスタミ監督作品「桜桃の味(Taste of Cherry)」(97)で映画デビューした。確か、もともとキアロスタミ監督の友人で、何の演技経験もない学者さんだったが、「桜桃の味」に起用されて以降は、国際的な注目を浴びて素人からプロに転身し、その後イランの映画に数多く出演してきたという役者さんだ。顎の割れた印象的な顔立ちだから、一度見たら忘れられない。
そのカンヌ受賞の翌年、テヘランで開かれた第16回ファジル国際映画祭に筆者は参加。そこで早速、彼主演のイラン映画を何本も観たことを覚えている(ご本人もお見かけしたが)。
この第16回ファジルでは、Cherryにあやかってということではないが、サミラ・マフマルバフ監督のデビュー作「The Apple(りんご)」(98)や、ダリユシ・メヘルジュイ監督の「The Pear Tree(梨の木)」(98)が登場した。その「The Pear Tree」がホマユン・エルシャディの主演だった。巨匠メヘルジュイ監督自身を連想させる作家(ホマユン・エルシャディ)の、少年時代の回想ものである。同じH.エルシャディを起用したことや、Cherryに対してPearを付けた題名などから、当時、メヘルジュイ監督はカンヌ最高賞をとったキアロスタミ監督を強く意識したのでは、と噂されたものだ。
ちなみにこの「The Pear Tree」はファジル映画祭の国際コンペにノミネートされ、回想場面に登場のゴルシフテ・ファラハニ(主演の「冷たい涙」で04年に福岡映画祭参加)が主演女優賞を獲得している。審査員のひとりは、日本から映画批評家・佐藤忠男氏が務めた。
ついでにもうひとつ、イランがらみのネタを。この「君のためなら千回でも」では劇中で、少年たちアミールとハッサンが、カブールの映画館に潜り込むところがある。そこでかかっているのはアメリカ映画「荒野の七人」。観終わった後に二人が、ブロンソン(いやマックイーンだったかも)は、ペルシャ訛りがひどいよね、みたいなことを言い合っている場面があった!
(2008年3月31日)

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テヘランの映画祭でみた星条旗のこと [イラン]

アン・リー監督の最新作「ラスト、コーション(色、戒)」の金獅子賞受賞で幕を閉じた第64回ベネチア国際映画祭だが、9月8日付の共同通信社のニュースが、中国大使館の抗議によりメーン会場の屋外に掲げられている各国の旗のうちの台湾旗が外されていたことを伝えた。中国側が映画祭当局に対し「台湾の旗を外さなければ、審査員長のチャン・イーモウ監督を引き揚げ、中国映画の出品を取り消す」と通告したそうだ。国際映画祭における中国とのトラブルはいまだに尽きない。これまでも多くの事例をみてきたし、それを乗り越えようとしてきた映画作家たち(出品を取り消される立場の)や、映画祭側の妙策もたくさん知っている。けれどもここでそれらのことや、映画の国籍について書くつもりではなく、ベネチアの件で思い出したこと、今年テヘランでの第25回ファジル国際映画祭での旗にまつわることを書きたい。
ファジル映画祭では、同時期にフィルムマーケットが例年開催される。そのマーケット会場入口に万国旗が飾ってあって、そのなかに米国の星条旗を見つけてちょっと驚いた。タイから来ているバンコク映画祭のディレクター・Brian Bennett氏にこっそり教えると、「これってまずいんじゃない?」という反応。そう。28年前に断交し、米国はイランをテロ支援国家と指定している。今日までのそのスタンスは、日々報道されているブッシュ大統領の言動をみればわかることだ。一方でイラン側も米国を大悪魔と呼び、革命記念日などで星条旗を燃やす反米運動を実際にみたこともある。フィルムマーケットにはもちろん米国からの参加者もいるが、そのひとりは、米国から来ていることを知られないようにしなきゃなどとジョークを飛ばしている(別に危険でも何でもない)。
で、思い切って、会場の装飾を担当している男性スタッフに、この旗って問題ないの? と訊いてみた。彼はちょっとびっくりしながらも、そういえばまずいよなあ、でもいまさら外せないよなあと、のんびりとしていていかにも面倒くさそうなリアクションだ(じつはこんなところがイランの国民性かもしれない)。そしてまるで誤魔化されているかのように、彼との会話が飛躍していったのだ…。その彼の弟が大学で工学を専攻していて、何年か前にロボカップというイベントでフクオカに行ったんだぜ、というのだ! 弟は福岡ドームというところに行って、そこで撮ってきた写真をたくさんみせてもらったという(後日調べると確かにロボットサッカーの世界大会「ロボカップ2002福岡・釜山」が当時の福岡ドームで開催され、参加チームの記録にイランもある)。何という展開だ! その後はフクオカの話に終始してしまい、星条旗の話はうやむやになってしまった…。
と、思い出話はここまでなのだが、政治が映画祭に介入するのは、やはり好ましくないと思う。7月に開催されたバンコク国際映画祭(バンコク映画祭とは別)では、イラン社会を描いたフランスのアニメ映画「ペルセポリス」(第60回カンヌ国際映画祭では審査員賞を受賞、カトリーヌ・ドヌーヴが声の出演)が、イランに対する誤ったイメージを抱かせるという理由でイラン政府からの抗議によって上映中止になったと聞く。
またまた話は飛ぶが、以前観たオリバー・ストーン監督の「コマンダンテ」(03)はものすごくおもしろかった。米国にとってはイラン同様にテロ支援国家であるキューバの最高指導者フィデル・カストロに対し、ハリウッドの社会派オリバー・ストーンが自らインタビュアーとしてがっぷりと四つに組んだ記録映画だ。スリリングな展開のなかからカストロ氏の素顔がみえてくる傑作だ。そのストーン監督はいま、イランのアフマディネジャド大統領に対して記録映画出演の打診を続けているそうだ。すごい企画だ。是非とも実現して欲しいと心から願うし、完成した暁には、政治的圧力に屈することなく自由に上映、公開して欲しいと思う。
(2007年9月10日)


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2007年イラン映画の私見・ベストワンはこれだ!〈後編〉 [イラン]

テヘランに滞在した実質5日間で25本のイラン映画を観た。有力な作品、前評判の高かった作品などはすべて網羅したつもり。そしてそれらのなかでも群を抜いて素晴らしいものが2作品あった。これから順不同でご紹介する次のふたつを、2007年イラン映画の私見・ベストワンとしたい。どちらも観る者の魂を揺さぶる力強い作品だ。
レザ・ソブハニ監督の「Cold Earth」、これは凄い映画だ。舞台はバム。バムといえば3,4年前に大地震に見舞われたイラン南東部の街。10万の人口に対して4万数千もの死者が出たという悲惨な状況を伝えるニュースが世界中に流れているので、ご記憶の方も多いだろう。当時この大惨事の後、バムの大地震を扱った劇映画、ドキュメンタリーがイランで数多く作られたことを記憶している。そしてこの「Cold Earth」もバムの地震を扱っている。一人の井戸掘り職人の男が、町から離れた荒れ地に身重の妻と小学生の息子と一家で住んでいる。孤立した生活だが、家族むつまじい暮らしぶりである。しかし未明、あたり一帯は大地震に襲われ、少年の父母は倒壊した家屋に挟まれて身動きが取れなくなってしまう。おまけに母は産気づく。このままでは皆死んでしまう、しかし街まで助けを呼びに行くことができるのは体の自由な少年しかいない。ここからこの少年の孤独なドラマが始まる…。子役の少年の熱演が光るとともに、途中で登場する大道芸人の男もいい味を出している。少年の父親役Mohammad Reza Foroutanはもうひとつのベストワンにも出演しているイラン映画のハンサムスターで、渋い役どころがいつだってかっこいい。
レザ・ソブハニ監督はこれが二作目で、第一作「生きる」(02)は東京フィルメックスでワールド・プレミアされている。上映後に監督に会ったときに、ひとつ愚問をしてしまった。大地震の直後なのに列車が平常どおり遠くに走っている場面があったので、線路が歪んでしまって走れないのでは? と尋ねたところ、バムの地震では直後も列車は走った、このことはちゃんと取材していると笑いながら返答してもらった。つまらないことを訊いてしまって、すみません。
もうひとつの大傑作は、革命前からキャリアをスタートさせている名匠キュマルス・プルアマド監督の「Night Bus」。第25回ファジル国際映画祭ではアジア映画部門で最優秀監督賞を獲ったものの、肝心の国内映画部門では空振りに終わり、新聞などで失望すべき結果と報じられた。しかし私見では、この作品は紛れもなくベストワンである。
正直にいうと、イラン=イラク戦争ものと聞いて、またか、という気持ちで鑑賞に望んだ。イランではいまでもイラン=イラク戦争を題材にした映画が多く作られている。その時代そのものを描くこともあるし、こんにちの精神的肉体的な傷跡を描くこともあるし、焦点の当て方はさまざまだ。実際に今回見た25本のうち6本がそうであった。するとどうしても、それらを比較してしまうのである。
しかしこの「Night Bus」はイラン映画史的にみても、イラン=イラク戦争ものというくくりでみても、ベスト、名作の部類である。ストーリーはシンプルだ。若いイラン軍の兵士がたった一人で30名以上のイラク軍の捕虜を一昼夜、バスで連行するドラマだ。映像もモノクロでまとめられており、それが物語の緊張感をひときわ浮き立たせている。
そのほか特筆したいものは、別項にまとめた「God is Close」「Persian Carpet」の他に、実の父親を児童虐待で訴えようとする少年の話「The Locksmith」(G. Ramazani監督)。イラン映画的文法で綴られた傑作である。それからユニークだったのが「My Sin」(M. Karkhani監督)。自殺しようとしていた若い女性を助けたチンピラ。それがきっかけで彼女はその男に恋心を抱くようになるが、やがて男は彼女の父親を殺した犯人だったことがわかり…という、ちょっとしたノワールもの。
そして巨匠ダリウシ・メールジュイの「Santuri, The Music Man」である。主人公は伝統的な打弦楽器(ピアノの原型といわれる)のミュージシャン。それに西洋のバンドを組み合わせた新奇さで、彼は若者を中心に熱狂的なファンを生み出している。そして絶頂期にファンの女性と結婚するが、やがてドラッグ中毒に陥る。破滅的な生活のなかで音楽を追及していくが…。成れの果は、西洋のロッカーとまるで同じだ。この映画は検閲で時間がかかったそうだ。
(2007年2月14日)


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イラン映画における首都テヘランの新しいランドマーク [イラン]

映画の撮影において、場所を示したり、雰囲気を出すためによく登場するお馴染みのロケ地がある。このことを逆手にとって映画に映ることで街のPRに繋げようと、日本でも各地でブームになったのがフィルム・コミッションである。
イランにはフィルム・コミッションなんてものはないが、ここ数年、新作映画(もちろん現代ものだが)でよく登場するテヘランの風景がある。ひとつは地下鉄だ。大都市テヘランにふさわしく、メイン路線は北から南に向かって何年か前に開通した。北は高級住宅地、南は下町的な雰囲気を持ち、かなり高低差もある沿線だ。撮影でよく使われるのは車両やホーム、長いエスカレーターなどだが、ベールを被った女性が地下鉄のホームに立つ場面をはじめて観た時には、この街はどこ? と思ったものだ。
もうひとつ。今年2007年の作品から見かけ始めたのがテヘラン北部のハイウェイにできた長いトンネルだ(実際に走ってみたが日本では珍しくもない長さだろう)。主人公などが車を走らせるシーンにこのトンネルを使うのが、監督たちの間でいま流行っているようだ。
たとえば先日観た映画「Eternal Kids」(監督:P. Derakhshande)。若いカップルの結婚を描いた家族ドラマだ。二人は結婚の準備を進めるが、男性の方に知的障害を持つ弟がいて、結婚の邪魔になってはと考えた男の両親が、その子を施設に入れてしまう。その弟は施設が嫌で逃げ出すのだが、くだんのトンネルに迷い込んで車にはねられてしまうのである。
(2007年2月12日)


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イランみやげに持って帰りたい珠玉のオムニバス「Persian Carpet」 [イラン]

イランといえば絨毯。絨毯といえばイラン。そのイランを代表する15人の映画監督たちが“ペルシャ絨毯”をテーマに一大オムニバス作「Persian Carpet」を織り上げた。その顔ぶれからいっても「これぞイラン!」と銘打つべき作品だ。もちろん製作はイラン国立カーペットセンターで、プロデューサーは監督レザ・ミルキャリミ(エピソードのひとつも担当)。それでは15の作品の中からいくつかをピックアップ。
ジャファール・パナヒ監督は、イランでは絨毯が銀行に預けられたりと貨幣のような価値を持つことを喜劇的なドラマに仕上げ、アッバス・キアロスタミ監督は絨毯の織りの美しさを、彼らしい静かなカメラワークでとらえた。
ラクシャン・バニエテマド監督はちょっと珍しい立体カーペットを、モジュタバ・ライー監督は彼の代表作「新生」の舞台となった地方での、特徴的な絨毯作りを取り上げる。
バフマン・ファルマナーラ監督は一族の何代もの歴史を足元から見てきた絨毯を、レザ・ミルキャリミ監督は、絨毯の上で繰り広げられる典型的なイランの家族を描いた。
この他の参加監督にダリユシ・メールジュイ、バハラム・ベイザイ、コスロ・シナイ、マジド・マジディ、カマル・タブリズィーなどなどトップクラスが勢揃い。ドキュメンタリー、ドラマ、アニメ、ミュージックビデオ風と手法もさまざまである。どうだろう、この絢爛豪華ぶりは!
(2007年2月7日/テヘラン・Hejab Theater)


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あまりにもピュアで切ないイランの純愛映画「God is Close」を観た [イラン]

イランの映画はこれまでに数百本は観ているが、これほどまでに純粋なラブ・ストーリーは他にあまり記憶にない。主人公のレザは、やや精神の発達障害があるのかもしれないが心の優しい青年だ。彼は村人たちをバイクで運ぶ仕事をしている。ある日、村の小学校に新しい女性教師レイラが赴任してきた。彼は何よりも率先し、彼女の小学校までの往復にバイクを走らせることになるが、それは彼がレイラにひと目ぼれしたからだ。もどかしいほどの行動を重ねるレザだが、彼女には夫がいて…。
監督・脚本は新人Ali Vazirian。上映後に彼に会って、以前に一度会っていることを思い出した。何年前だろう、マジド・マジディ監督からデザイナーとして紹介されたのが彼である。マジディ監督の「運動靴と赤い金魚」「太陽はぼくの瞳」「少女の髪どめ」などの作品のポスターを手掛けていて、アーティストとしてもう20年以上も各地の美術館で個展を行っている彼は一冊の作品集をくれた。そしてそのころから映画製作も始めたということで彼が監督した短編「Once Rain」をみせてくれた。母親の買ってくれた大切な雨傘を失くしてしまった貧しい少年を描いた児童映画だった…。
そのAli Vazirian初の長編作品「God is Close」は、11日に閉幕した第25回ファジル国際映画祭で、Mohammad Reza Arab監督の「The Last Queen of the Earth」と並んで最優秀デビュー作品賞特別賞を受賞することになる。美術における清楚な作風が、そのまま彼の持ち味となって今回のピュアな長編デビュー作に結びついていると思う。おめでとう、アリさん。いまアジアのあちこちで流行っている韓流純愛ものに負けてないよ。
(2007年2月7日/テヘラン・Ghadir Theater)


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2007年イラン映画の私見・ベストワンはこれだ!〈前編〉 [イラン]

毎年2月ごろにテヘランで開催されるファジル国際映画祭。第25回を迎える今年は2月1日から11日まで。今回は3日にテヘラン入りし、9日まで滞在して可能な限りイラン映画を見るつもり。最終的には私見・ベストワンを発表したいと思う。
これまでこの映画祭は、イラン映画最新作のお披露目の場といっていい祭典だったが、いまではそうとはいえなくなっている。そのことについて、再会した10年来の友人であるイランの映画ジャーナリストOmid Najavan氏に、夕食をともにしながら語ってもらった。
『ファジル国際映画祭の力は年々落ちてきたと思う。以前はイランの新作映画はまずこの映画祭に応募しないと海外にセールスすることはできないという規則があったが、それがなくなってからは、この映画祭を飛ばして直接、海外の映画祭に出品する傾向が強くなった。海外でも通用するという自信を持っている映画は、この映画祭の前を素通りしてしまう。賞部門があることもじつはマイナス要素で、賞がとれないと、出来が良くない映画と安易に判断されてしまうので、ファジルへの出品を避ける傾向にある。だから海外では知名度の高いイランの監督も、国内では案外と無名。イランでは、映画についてジャーナリズムが発達していないので(言論の規制?)、賞や観客のくちコミが観客動員の一番の効果』
国外に出ないかぎりは海外の映画を観ることがなかなかできないというOmid氏には、「スウィングガールズ」「ジョゼと虎と魚たち」「嫌われ松子の一生」などの日本映画DVDをお土産に差し上げた。真面目な彼のことだから、きっと後日、感想がEメールで送られてくることだろう。楽しみだ。
(2007年2月4日)


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