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21st BIFFから/ニューカレンツ部門の「A Billion Colour Story」 [インド]

受賞はならなかったが、ニューカレンツ部門にノミネートされたインド映画「A Billion Colour Story」(2016)は新人のPadmakumar Narasimhamurthy監督が脚本・撮影も務めたフレッシュな印象の作品だった。
その題名に反して、映像が一貫してモノクロであることについて違和感を覚えたが、ラスト近くの、ある出来事を境にしてスクリーンに色がつく瞬間に、それが本作のテーマにも繋がる大いなる仕掛けであることに気づかされる。(さてここから先は物語の結末に触れてしまいます。)
若いころに留学先の豪のフィルム・スクールで出会った、ムスリムの父親とヒンドゥーの母親の間に生まれた、10歳くらいの少年Hariを中心とした物語。リベラルな考え方を持った両親は、混沌とした猥雑さも含め母国インドをとても愛していて、ボンベイで新作映画を企画している。しかし資金が集まらず自宅を手放さなくてはならなくなり引っ越し先を探すのだが、ここから一家はムスリムに対しての不当な扱いに直面していく。一家のライフスタイルは宗教的偏見からは自由であるため、周囲と激しいハレーションを起こす。
小さな部屋で三人暮らしとなってしまっても、リズムのいい編集のなかでHariはいきいきとしている。誰もが愛したくなるこの少年から、両親の育て方の良ささえうかがえる。ムスリムの少女との恋物語も微笑ましい。そんなHariの命が一瞬のうちに奪われてしまう。彼の父親を狙った銃弾が逸れてしまったのだ!
少年Hariのいなくなった世界…、両親やHariを囲んできた人々が嘆き悲しむこの瞬間からこの作品には色がつく。Hariは両親の映画づくりを支えるために寄付を呼び掛ける映像をネット上にアップしていて、深い喪失感と時をあわせるようにして、Hariが集めた大金が届いたのだ。それらはヒンドゥーでありムスリムでもあるHariからの愛であり、また宗教対立のない平和なインドを求める多くの人々の想いでもあった。そしてそれらには、それまでHariの一家を苦しめてきたインド社会、そのほんの一部分にすぎないけれども、鮮やかに染め上げる力があったのだ。
(2016年12月19日)

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アジアフォーカス2014「シッダルタ」 [インド]

「シッダルタ(Siddharth)」(2013)
インド/カナダ
リチー・メーヘター監督

「子どもは遊ぶのが仕事」という考えが必ずしも通用しないインドの貧困層において、親がしてあげられる最低限のこととは、何だろう。
台車工場に出稼ぎに行った12歳の息子が、約束の秋祭りの時期になっても帰ってこない。心配する夫婦が、そこを紹介した妻の兄からその工場の電話番号をもらうまでが、まずひと苦労。「後で、後で」とのらりくらりするインド人のいい加減さが存分に確認できる。そして、息子が行方不明になっていることが、やっとわかる。誘拐されてムンバイに売られていったのではと激しく動揺する夫婦だが、息子を探しにいくという行動にはなかなかでない。似た題材で父子の絆を描いたフィリピン映画「Breakaway」になると、父親が危険も顧みず犯罪組織に近づいていくのだが、それとの比較をもって、インドの国民性のギアが世界標準とは違うと思ってはいけない。わが子の捜索に対してのらりくらりしているわけではなく、この作品の一家がその日暮らしの貧困生活で、工場のある町やムンバイへ向かうための金もないためだからという。だから、ドラマのかなりの部分は、仕事を探したり借金したりといった準備作業に費やされていく。両親は教育も満足に受けていないので、どう対応すべきかもわからないらしい。
監督はカナダで生まれ育ったインド人。児童が事件に巻き込まれてもインドの貧困層には打つ手がないことが主題のようだが、ドングリという地名が当初から手掛かりになっていて、ドラマの終盤、そのようなキーワードも忘れた頃になって父親は偶然ネットでそれを見つけ出す。このタイミングにはプロットのねじれを感じた。父親が辿り着いた先は児童の収容施設。ほんとうはこういう施設がいくつもあることにショックと肝銘を受けなければならないのに、ラストまでこの地名の謎がなかなか解決されないことから犯罪組織のアジトか何かと勝手な思い込みをしてしまい、どうも僕には受け止めが足りなかった。けれど、そういうインドの児童労働問題の活動家カイラシュ・サティヤルティ氏がこの度ノーベル平和賞を受賞されたことで、僕の中ではもう一度スポットライトがあたってよかった。
(2014年10月14日)

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アジアフォーカス2013/400字レポート ⑦ 「聖者の谷」 [インド]

アジアフォーカス2013/400字レポート ⑦
「聖者の谷」(2012) インド=アメリカ ムーサー・サイード監督

カシミールを描いてきたこれまでの作品のように、分離派の武装勢力と治安部隊の衝突が具体的に描かれているわけではないが、そこで普通に暮らす人々の、経済的にも圧迫された生活はみえてくる。地元の若者二人と、湖の汚染調査のために米国から里帰りしてきた若い女性の一時的な交流を通して、主人公の青年グルザールの個人的視点から、じしんの将来に対する姿勢をこじんまりと描いた佳作だ。女性に対する彼の好意的な心情も、希望へと絡む要点のひとつ。
個人の希望を地域全体の希望に重ねようなどという大胆さもなければ、湖の自浄力、復元力を人間社会にあてはめようという無理なところもない。そもそも主人公に対して、物語の舞台背景をそれほどまでシリアスで深刻なものとしてはとらえさせていない。彼の仲間から「環境よりも、紛争や不景気の方が目先の問題」という弁があったが、グルザールにとって故郷で暮らしていくためには、どれもすべてひどく惨めなことではあるが、見方によっては、すっきりとしない生活背景でしかなかった。そもそも故郷を離れようと決心した当初から、廟に聖者はいないのだと彼は測っていたわけで、だから世界は不完全なものというわりきりが、彼にとって次の一歩を踏み出しやすくした。外出禁止令による足止めが、彼の向かう先を結果的に変えた。
(2013年10月3日)

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第一部と第二部、連続で320分のインド映画「Gangs of Wasseypur」 [インド]

もう半年以上たってしまったが、第17回釜山国際映画祭Midnight Passion部門のインド映画「Gangs of Wasseypur」二部作(2012)も観ていた。Part 1とPart 2をあわせて5時間20分の濃密なドラマだった。
大阪アジアン映画祭が取り上げた「デーヴD」でその才能に驚かされたAnurag Kashyap監督の手腕による、家族内の愛憎までが複雑に絡んで、三世代にわたって抗争が続く、血で血を洗う復讐のサーガ。このスタイリッシュさを極めた映画じたいの存在感にはとにかく圧倒された。いまボリウッドのレッテルでインド映画がある程度まとめて劇場公開されているので、そのブームのついでに、観た後忘れないようにドラマの人間関係を細かくメモにしていたこの映画について、メモをもとに少し薄れかけた記憶を残しておこうと思う。
確か、史実をベースに脚色した物語と出ていた。その知識がないので具体的なところはよくわからないが、対立するKhanファミリーとSinghファミリーの因縁の絵巻物である。
ドラマはまず、その発端となる1940年代にさかのぼる。当時はイギリスの植民地支配によって炭鉱開発が展開されたが、インド独立イギリス撤退により、Ramadhir Singhはその大きな利権を手に入れ、経済面でも政治面でも、地域の首領へと駆け上がっていった。手下として一目置かれ、腕を振るっていたShahid Khanは、ボスを殺って炭鉱を奪うという野心を知られ、逆にSinghに殺されてしまう。同じく命を狙われたShahidの息子Shadarは、Shahidの弟分Nasirの機転によって難を逃れ、孤児としてNasirによって育てられることになる。以後、この三世代にわたる大長編ドラマは、Khanファミリーを傍で支え続けていくNasirのナレーションで語られていく。
そして20年後。Ramadhir Singhとその息子J.P.Singhは、財を権力に変え地域を牛耳る存在となる一方で、マフィアとしての顔も持っていた。成長したShadarは、父の敵討ちを誓って頭を剃り上げ、叔父貴Nasirらとともに、銃や刃物を手にSinghの支配する街を血の海へと変えていく。第一部のラストは、そのShadarが逆襲にあい、敵の集団から蜂の巣のように撃ちまくられ、血まみれ状態で立ち上がらんとするカッコいいカットと音楽で、To be Continued! シビレる!
そして、絶命したShadarが正妻、妾との間に残した4人の息子たちが、祖父の野心や父の復讐心を継いで、ドラマの主要人物となっていくのが第二部である。
以上、まずは前半までをざっくりまとめてみたが、人物はもっともっと登場してきて、その人間関係が誰が誰なのか瞬時には飲み込みにくいほど、多彩に紡がれている。また復讐劇とはいえ、作品全体が暴力とアクションの絵柄というわけではない。出てくるKhan家の男たちは親の代も子の代も、女性と出会って恋に落ちていくが、そこのところはちょっとロマンスとしての描写となっている。
全体として印象的なのが、Khan家の出来事として、婚礼と葬儀の場面が繰り返し繰り返し登場すること。Khan家の男たちに嫁いでくる女性は皆、結婚式の色鮮やかな衣装を身にまとって息を飲む美しさであるし、葬儀や選挙の祝勝会では必ずプロの歌手が呼ばれて弔いの歌か祝いの歌か何かを熱唱する。これら劇中で歌われる曲だけでなく、様々な場面でバックに流れる音楽の選曲には、その中にはちょっと民謡のような感じでテンポいい歌もあって、不思議にかつ絶妙にマッチするものばかり。ボリウッドミュージカルものではないが、それ以上に魅力たっぷりなサウンドトラックだ。
さて、話は第二部。むごい殺され方をした父Shadarの亡骸を前にして、激高して仇討ちを誓う長男Danish。そのDanishがまた射殺されると、母(Shadarの正妻)に後押しされ、次男Faizalが立ち上がる。ときに狂気を帯びた行動が彼の持ち味。恋した女性を娶り、地域を束ね、父を襲った男たちへの復讐を重ねていく。警戒するRamadhir Singhは、Faizalに対しては手は出さないと彼の目の前で誓う。
一方で次の世代が台頭し、抗争は新たな時代を迎える。最年少14歳の四男Babuaもまた、歯止めのきかない超不良。カミソリの刃を口の中で転がす仕草が不気味で、悪事には躊躇がない。大人になったDefiniteは、それよりも少し年上のようだがやはりティーンエイジャー、Faizalたちとは異母兄弟にあたる。妾だったDefiniteの母はKhan家を敵視しており、Ramadhir SinghもKhan家を根絶やしするために、Definiteを引き入れたいと考えていた。
Definiteは、Faizalの弟分として動きながらも、じつは野心を心の奥底に燃やしていた。最後の最後にFaizalは、Ramadhir Singhをメッタ撃ちにして、とうとう父や祖父のかたきをとるが、すぐさまDefiniteに撃ち殺されてしまう。叔父貴Nasirによって、Faizalの残した赤ん坊がWasseypurの街からボンベイへと去って行くという、因縁を引きずる終わり方はこの手のドラマのお約束だ。
と、ストーリーの骨格だけをなぞったので、khan家と敵対するSinghの手下のSultanなど、割愛した物語の重要人物は他にもたくさん。粗い筋だけを最後まで書いても、それだけでは伝わらないし、ネタバレで興ざめになることはないはず。話はわかっていても「レッドクリフ」のように何度も興奮できること間違いなし。
マサラ的な中身や絢爛豪華さ、トップスターの顔ぶれから、いまちょっとした日本公開ブームになっているインド映画については、NHKもBSの朝のワールドニュースで食いついているが、異物感を覚える珍しいものとして観るだけではなく、本作のAnurag Kashyap監督のようなマニラトナム級の衝撃的な才能についても、日本上陸を果たして欲しいと思う。
この「Gangs of Wasseypur」には劇中で、その時代時代の流行のボリウッド映画が、そのヒット曲とともに、ドラマの主人公たちがそれに熱狂するような形で出てくる。意中の女性とのデートにはもちろんのこと、アミターブ・バッチャンのようなスターに憧れ、クライム・アクションにはまり、みずからの現実の人生には映画の影響を確実に受けている。そういうところもインド的で見どころなのかもしれない。
タイの「キング・ナレスワン」台湾の「セデック・バレ」のように日本語字幕付きであれば、大長編であってももう一度きちんと鑑賞します!
(2013年5月15日)



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アジアフォーカス2012試写レポート:インド映画「カハーニー/物語」(2012) [インド]

※謎解きのストーリーに少しふれています

じつはこれは以前に観たことのある作品。試写の場で日本語字幕付きでもう一度観ることもできたのだが、正直に書くと二度観たいものでもないので、試写レポートと書きながらも試写では観ずに、過去の記憶(とメモ帳)をたどって振り返ってみることにした。
お断りすると、二度は観たくないというのは観る価値がないということではなくて、話がミステリーサスペンスなので、真っ新な気分で初見のように楽しめるはずもなく、ミステリーとしての仕掛けを再確認するだけになってしまいそうで、気乗りしなかったからである。(同じ日の試写、イランの「火祭り」もすでに二回観ていたし…)
インドのスジョイ・ゴーシュという監督のこの作品は、我慢の利かない、せっかちなほどの小刻みなカットの連続を用いて、展開にひたすらシャープさを追求していて、2時間があっという間に過ぎていく。レベルとしてはかなり高いエンターテインメントだということを、最初に書いておきたい。とは言え、どんでん返しを抱えた結末と、そこに至るまでの物語の迷い加減を楽しませるドラマであるだけに、デリケートな核心部分に触れるような、デリカシーのないことはなかなか書きにくい。
ということでまず、視点を変えてみどころをあげると、舞台となるコルカタの街の様子を、物語の筋に合わせて上手に活写しているということ。ヒロインは「行方不明になったらしい夫を捜すためにロンドンから渡ってきた」という設定になっているので、彼女の瞳に映ったコルカタの街ということで、話が広がるようにできている。
ただしヒロインがコルカタの人々の発音の悪さにしつこくこだわるあたりは、日本人であるわたくしにとってはただウザったく、そういうドメスティックな気質の違いや、コルカタでは正式名と呼び名とふたつ持っているといったような文化的なことではなくて、ランドスケープとしての黄色いタクシーやトラム、地下鉄などのトラフィック、建物群や市場、人々の服装やその動きといったビジュアルの方がみていて単純に楽しい。カットが小刻みだけに妙に余韻が残る。そういう都会の街の雰囲気を屏風絵の背景のようにして、ヒロインたちによる謎解きが繰り広げられていくわけである。
特に、クライマックスのために用意されているのが、ヒンズー教の祭り。女神の像を山車のようにして飾り、通りを曳きまわすもので、ここで同時にインド文化も重要にみせている。赤白二色を使ったサリーを着て、顔を赤く塗った大勢の女性たちによって通りが埋め尽くされる。このインド伝統の祭りを、クライマックス場面に巧みに取り入れている。
ミステリーサスペンスだけに、練られた話じたいはハリウッドでも香港でも韓流でも成立するような無国籍なものだが、インド映画としての印は、場面場面の中にきちんとつけられているということである。
…コルカタの警察署に一人の女性がやってくる。彼女の依頼は、ロンドンからコルカタに単身赴任した夫が行方不明になったので、捜してほしいということ。すごく人の良さそうな警官が彼女の手助けをすることになる。夫が勤めていたと思われるNational Data Centerを訪ね、夫の写真をみせたところ、似た顔の男は以前いたが名前が違うと証言する責任者。しかしその責任者は男の資料を確認すると言ったあとに、殺し屋の手によって殺されてしまう。妻たちは危険を冒しながらも、その男の資料ファイルを入手したり、コンピュータデータに潜入したりして、夫の行方を探るが、その謎にはIntelligence Bureauという国の機関の存在も絡んでいく…。一連の謎は、映画の冒頭に出てきた2年前の地下鉄の毒ガス・テロ事件と、何か関係があるのか?
消えてしまったという夫について妻が繰り返し回想する、その場面が驚きを左右する。その都度映し出される夫婦の仲睦まじい姿形をしつこく脳裏に刷り込まれてしまうと、すべてが一瞬にして大きくひっくり返るラストには、もう、驚くというよりも、唖然とさせられる。
殺し屋のキャラクターは興行上受ければいいのだろうけれど、全体のトーンからみると遊び過ぎていて、わたくしとしてはちょっといただけない。一方で妻の行動を支援してくれる警官役は味があって、いい。お腹が大きく出産もそう遠くないと思われる妻に対して、この警官が好意を寄せていることが、ほんのりと感じられる。ミステリーであるだけに、登場人物たちのひとつひとつの行動にはシナリオ上の必要性があってのものなのだが、警官が彼女に祭りのためのサリーを贈るところは、警官の感情の有り様としては素直に観ることができる。
しかし警官のこの行為さえも、彼の心が外から操作されるような形で、何者かからそう仕向けられているとしたら、相当に恐い。妻と警官、二人協力してのコンピュータのハッキングで、妻の胸元がちらりとみえるようなシチュエーションとは、何という罪。
(2012年9月1日)


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アジアフォーカス2011/400字レポート⑫ 「カシミールの秋」  [インド]

アジアフォーカス2011/400字レポート⑫
「カシミールの秋」(10) インド アーミル・バシール監督

カシミールが舞台の映画だと、最近では、このホームページに前に書いたサントーシュ・シヴァン監督の「タハーン」(08)を思い出すが、他の国に生まれたならば青春を謳歌しそうな若者を中心に、ヘルプレスで無力感に満ちた世界を描いたものとして、この「カシミールの秋」は傑出している。1989年の独立運動の激化以降、この土地で8万人もの死者、1万人の行方不明者が出たことが冒頭で示される。分離主義者の武装ゲリラとインドの治安部隊の衝突が、一般の人々も巻き沿いにし、混乱に追い込む。主人公の青年ラティークとその仲間イシャク、アスラムたちの日常は、暗殺未遂や爆破テロなどと常に背中合わせである。行方不明になったラティークの兄が残したアサヒペンタックスの人物写真は、行方不明者家族の会と繋がっている。その兄を失ったことで、彼の父親は精神を病んでしまった…。
分離主義者でも何でもない普通の若者、携帯電話やバイクに夢中だったラティークたちは傷つき、そして最後には命を落とす。しかしそれはチンピラ映画のなかで無常に死んでいくやんちゃな若者たちとは明らかに違う。撃たれて路上に転がったラティークの体は、物語中盤にでてきたムスリムのイード祭の羊の生贄にようにみえてしまって仕方ないのだ。プロデューサーを兼ね、脚本もアーミル・バシール監督の筆によるもので、監督の父親に捧げられた作品であることがラストにクレジットされている。
どこかでみた顔と思っていたラティークの父親役は、「運動靴と赤い金魚」から「すずめの唄」までマジディ作品でおなじみの、同じイスラム圏のイランの俳優レザ・ナージ。エンドロールの謝辞にマジド・マジディ監督の名を見つけて、やっと頭の中で繋がった。出演のいきさつはよくわからない。
(2012年1月9日)

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アジアフォーカス2011/400字レポート⑦ 「妻は、はるか日本に」 [インド]

アジアフォーカス2011/400字レポート ⑦
「妻は、はるか日本に」(10) インド アパルナ・セン監督

監督の父である、映画批評家のChidananda Das Gupta氏が今年5月に89歳で亡くなられている。まずここで、謹んでご冥福をお祈りしたい。
さて、アパルナ・セン監督の作品を観るのは「15 Park Avenue」(05)以来かと思う。インド版「私の頭の中の消しゴム」とは例えになっていないかもしれないが、精神病を患う女性役のコンコナ・センシャルマーと、その恋人役ラーフル・ボースのコンビによる、魂を揺さぶるような力あるドラマだった。それに比べると本作は、最初から最後まで随分とくすぐったい。冒頭のクレジットでは、Rを尺、Bを日、Aを一棒足りない月、と漢字のようにデザインしたタイポグラフィーから始まって、ほぼ全編にわたる邦楽。日本人として気恥ずかしい部分もあるが、ピュアというよりも、もじもじした感じのストーリー展開が続く。文通によって結婚したものの、インドと日本とに離れたままの二人は、20年程だろうか、最後までとうとう顔を合わせることはない。それぞれの土地に暮らし、差し出す手紙の文面を互いがナレーションで語る。作品は、数学教師をしている夫スネホモイの住むインドの田舎からの視点であるので、日本女性の方の描写は乏しく、妻から手紙が来るごとに、スネホモイは会ったこともない彼女への想いを、一人芝居を繰り返すことで表現する。Eメールに添付ファイルといった世界は、貧しい彼にはまったく縁がないから、なおじれったい。もともとこの二人が結婚することじたい現実感のない設定だが、ここまでプラトニックに描いた世界を、メルヘンでなければ、どう受け止めればいいのだろう。
純粋だが極めてダサイ男スネホモイ役のラーフル・ボースの好演はとにかく光る。母親や、家に転がり込んでくる子連れの未亡人と絡みながら、まあ、ありえないこともないだろうキャラクターを上手く作っている。その点、日本側の部分は、インドからみた彼方の世界として、スネホモイの言動を導いていくために説明的に出てくる程度で、神秘性を狙ったのか実感に乏しい。もちろんこれは演じる女優の責任ではないが。
(2011年10月2日)

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アジアフォーカス2011試写室レポート:インド映画「僕はジダン」 [インド]

いま振り返ってみても、2年前のアジアフォーカスで取り上げられた「ようこそサッジャンプルへ」(08)は素晴らしかった。シャーム・ベネガル監督としてはとても珍しいコメディ作品で、まずは当然に大いに楽しく笑わせてくれるのだが、一方でヒジュラーや寡婦、犬との結婚といったような社会の描写や民衆の信仰を通じて、インドの一面を皮肉ってみせるという姿勢があり、無駄な場面は何ひとつなく、巨匠らしい風格をもってバランスよくまとまっていた。その年のインドからのチョイスとしては的確だったのだろうし、フィルムアーカイヴに残して次世代へと伝えていきたい傑作であった。
今年のインドからの選択作品は、コメディ「僕はジダン(Little Zizou)」(07)である。冒頭にミーラー・ナイール・プレゼンツと出てくるが、本作のスーニー・ターラープルワーラー監督は、「サラーム・ボンベイ!」などミーラー・ナイールのいくつかの監督作品で脚本家としてコンビを組んでいる人物のようだ。
さて残念だが、わたくしには、この「僕はジダン」からは、パールシーという拝火教徒コミュニティを背景としながらも、何の風情も感じられなかった。まあ、作品を通して異文化への理解を求める日本人の方が身勝手だとしても、エキゾチックな舞台背景は壁紙のようなパターンに過ぎず、東西を越えてコメディという骨格を極めようと試みた作品という風にしかみえなかった。しかしながらコメディとしても、筋が、あれこれ支流を作っているだけで締まりがなく乱雑、そして抜けきれていないところがあった。
話の本流は単純で、主人公の青少年兄弟二人を子に持つ、パールシーの指導者にならんとしている父クダーイージーと、その批判記事を出している112年の歴史を誇るロスタム・ソフラーブ新聞社の社長(兄弟の生活に絡んでくる姉妹の父)の対立の騒動劇である。
気になるところはいろいろある。例えば最後の方からひとつ拾うと、産院にカナダからボーイング747の整備士をしている女性アルカが訪ねてくるというのは、ちょっと唐突で都合が良すぎていて、それもどうしてそもそも魅力的な女性なのか。
母なき子である兄弟のその母親は、父親クダーイージーから殺されたことがサラッと前提になっていて、それは「クダーイージー氏=悪党」を図式化するだけで 何のドラマもなく、もちろんこれはユーモアでもない。展開の中で軽く語られるだけに笑えない異質な部分である。
何よりも、題名「Little Zizou」に使われている弟ザークス少年の仏のサッカー選手ジダンへの憧れも、どちらかというと兄アートのコミック執筆や、ジャンボ機のコックピットづくりなどの軸の方が目立っていて、観ている方もジダンのことはラストになって思い出される程度である。
観る前は、インドに渡ってきた拝火教徒のコミュニティを舞台にしているという点が関心事だった。拝火教じたいは中東の映画でも描かれているところを何度か観たことがある。本作でも、聖なる火が祀られていたり、儀式だったりとその様子をうかがい見ることはできるが、社会派ではなくコメディ作となると、物語の背景としてどういうスタンスで描いているのか、どうしてもその真意は測りにくかった。ただ、二人の兄弟の父が権力の座を得るために宗教を操っているということからすれば、拝火教といえども、現代のインドにおいては、その神秘性うんぬんを問う存在として描くというよりも、集団化の手段に過ぎなくなっているということを風刺したかったのだろうか。
新聞社の社長が倒れる場面で、出動してくる救急車の車体にパールシーと書かれてあったようだが(一瞬だったので見間違ったかも…)、果たしてこれがどういうコミュニティなのかも、もっとよく知りたかったところだ。社長夫人の母が経営しているホテルについても、拝火教が初めてインドに上陸した海岸地にあるらしいが、これに限らず、史実をいろいろ丁寧に描いてほしい気持ちは、コメディにおいては欲張りな要求だろうか。
作品に用いられている美術や音楽は、むしろ好感が持てて良かったが、それをもって、このコメディの雑然ぶりを和らげるものではなかった。
(2011年9月7日)

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大阪アジアン映画祭2011の私的掘り出し物は「彼が23歳だった時」 [インド]

今年の大阪アジアン映画祭2011(3 月5日~13日)での掘り出し物は、インドの新鋭アタヌ・ゴーシュ監督の「彼が23歳だった時」(10)だったと断言したい。
冒頭からいきなり、インドの水着美女がプールサイドに登場したり、露出度がかなり高い服装の女性のダンスシーンが出てきたりして驚いてしまうが、これはじつは、本作の主人公で、まもなく23歳を迎える青年トモディプが観ているインド国産のポルノ映画のワンシーン。彼は、“セックスの女王”の異名をとる女優モヒニに、ゾッコンなのである。
この手の映画は主に労働者階級に支持されているようだが、トモディプは裕福で成績優秀な家系に生まれ育った好青年である。大学を出て、研修を経て医者としてLL病院に勤務するようになった。そんな彼が、家では息子を一人占めしたい母親に溺愛されながらも、陰ではスクリーン上のモヒニを愛好し、そしてまた一方で、ネットで知り合った若い女性スリポルナと待ち合わせを約束し、初めて顔を合わせてみる。
このスリポルナはもう、15人以上のチャット相手の男と実際に会ったりして、ちょっと危険な目にも遭ったりする娘だ。そんな彼女と同世代的な会話を楽しむ一方で、また、高校時代から憧れていた女性教師でバツいちの年上女性メグナがFMラジオで担当している番組を聴くことも、トモディプには欠かせない。と、交通事故に遭った女優モヒニが、何と自分の勤める病院に入院することになった! 病室から逃げ出そうと試みるモヒニには、何か事情があるようだ。
こう書いていくと、トモディプは、好き放題に、周囲の女性たちとの関係を保ちながら青春を謳歌しているやんちゃな若者のようにとられるかもしれないが、この青年はとても誠実純粋であって、本作は相当に繊細なドラマとしてまとまっている。そのへんの感性がまた国境を越えて共鳴する部分でもある。アタヌ・ゴーシュ監督は、大人へと成長するトモディプにとっての、それぞれに大切な女性との関係の機微をうまく描き出しており、それでいて、ベンガル語映画らしい、観る者の知的好奇心をくすぐる演出でもある。
母親を含めた4人の女性同士が、それぞれ交錯していく模様もちょっと刺激的で、彼が選ぶのは、憧れの女優、同世代の女性、年上の初恋の女性、まさかの母親、のうちの、さていずれなのだろう…。
その答えとして、エンディングでトモディプは、この中のひとりと一緒に、父親に買ってもらった赤い車を走らせる。それが誰かは、この映画の観客だけにわかった方がいいので、ここではちょっと書けない。
(2011年4月26日)

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春の定番になってほしい、大阪アジアン映画祭で観たインド「デーヴ D」 [インド]

昨年から春先に「沖縄国際映画祭」と「大阪アジアン映画祭」という、配給業者のついていない海外の作品をとり上げる映画祭が誕生したので、アジアフォーカス、東京国際、フィルメックスと続く秋のシーズンに対抗する春の風物詩になろうかと、ひそかに期待して注目していた。
厳密に言うと「大阪アジアン」にはその前身となる映画祭があったそうだが、昨年リニューアル。その昨年は、日本では未紹介で終わるかもと思って以前にこのブログに書いたインドネシア映画「Blind Pig Who Wants to Fly」、タイ映画の「Handle Me with Care」と「Chocolate」を上映しているが、さて今年もなかなかのプログラムだ。で、「大阪アジアン映画祭2010」の会場ABCホールに足を運んで、DVDで視聴済みのタイ映画「ジージャー:頑固に、美しく、猛々しく」(まるで劇場公開予定のような邦題だが…)、このブログで絶賛したフィリピンのインディー映画「Squalor」(「見捨てられた青春」という題になっている)などを除いて6本を観た。
ゲストが少ないのがとても残念だったが、なかなか意欲的な作品選択だ。
インド映画の「デーヴ D」。サトウキビ工場を経営する有力者の息子で、ロンドン留学を経験するデーヴ、その彼とは幼いころから恋仲の使用人の娘パロ、猥褻写真のネット流出で家庭が崩壊してしまい、高校中退して売春宿で働きながら大学を目指す少女レニ、この3人の人生が絡む物語だが、原作小説があってインドでは9度も映画化されているというポピュラーなドラマだそうだ。
あまりにも刺激的にアレンジしていて、凝りに凝った、インド映画のネクスト。ロック調の曲と相まって、ガツン、ガツン、ガツンと攻めるような三部構成になっていて、まず「パロ」の章で、韓流ドラマ風に少年少女期から始まったカップル、デーヴとパロはちょっとした誤解から別れてしまい、パロはデリーの実業家の息子との結婚を受け入れてしまう。
「チャンダー」の章。女子高生レニは交際相手に撮られた猥褻画像がインド中に流出して家庭は崩壊、辿り着いた先の売春宿でチャンダーと名を変えて働きながら大学に通う。(多言語テレクラ嬢とは何ともインド的な!)
パロを失って以来、酒とドラッグに溺れてしまったデーヴが、チャンダーの部屋に転がり込んでからは「デーヴ」の章へ。ここに来て、何の関係も感じられなかったふたつの章が見事に繋がっていくのである。絶妙な位置にインターミッションが入って、後半では、デーヴがパロと再会する展開に…。とにかくデーヴは傷ついて傷ついて身も心もボロボロになってしまう。もちろん、パロもチャンダーも皆、心に闇を抱いた女性なのだが、この「デーヴ D」は、どちらかというと男の側の、そのナイーブな男心に切り込んだ秀作である。同性としては涙が出るほどだ。
アヌラーグ・カシヤプ監督は斬新な映像を駆使して、これでもかこれでもかとデーヴの人生を貶めながら、ラスト5分を使って、鮮やか過ぎるデーヴ自身の改心で決着を付ける。これは決してご都合主義ではない、みごと芸術的なエンディングなのだ!
まずは、この「デーヴ D」が、大阪アジアンを象徴する一本ということで。
(2010年3月29日)

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リトゥポルノ・ゴーシュ監督の円熟が感じられた「The Eternal」 [インド]

インドのリトゥポルノ・ゴーシュ(Rituparno Ghosh)監督については、結構多作な映画監督なので、その名を高めた「19 April」(94)以降、要所要所の作品を観てきたように思う。日本においても、代表作のひとつ「Crossfire」(97)は「クロスファイアー」と題して、98年のアジアフォーカスによって紹介された。
リトゥポルノ・ゴーシュ監督の作品に対しては、ベンガル語映画らしく知的で、けっこうセリフの多い会話劇(英語字幕を読むことに終始してしまってスクリーン全体を観ていないことも!)であり、中流階級かそれ以上の社会を描いたものが多いという印象を持っている。
2003年の10月、第34回インド国際映画祭で観た「Thereafter」(03)は、まるでアガサ・クリスティーの小説みたいと感じて観ていたら、本当にミス・マープルシリーズの「鑑は横にひび割れて」をベースにしたものだった。これはとくによくしゃべる映画だったと記憶している。
第24回香港国際映画祭で観た「Malaise」(98)も、次の第25回香港での「The Lady of the House」(99)も、確か映画界と結びつけたドラマ展開だったと思うが、今年の第14回釜山国際映画祭に出品されていた「The Eternal」(09)も、観念的ではあるが重厚な演出で、ひとりの映画監督の時代を、幾層にも重ねた構成によって風格ある作品に仕上げられていた。(10月11日、CGV Centum City 7にて)
コルカタで、あるベテラン映画監督の死を伝えるニュースが流れる。ベンガル語映画界の一時代を築いた監督Aniketは病身の晩年、息子のApuに向かって、フィルムと違ってビデオは撮り直しがきくのに…と、自分の人生を振り返っていた。
自分の映画の女優と恋に落ちて結婚し、息子Apuを授かったAniketだったが、歳を重ねてまた、息子と年齢もあまり変わらない若い娘Shikhaと出会ってしまった。Aniketはオーディションで彼女を次回作に起用するが、Shikhaは女優Srimatiとなって眩いばかりの輝きを放ちながら、スターとして成長していくとともに、フィルムをとおしてAniketの心を奪っていく。その存在は若かりし頃の妻Pidiと重なっていくのだ。一方でAniketと妻との関係は冷えていき、妻は目に見えて不機嫌になっていく。
劇中映画があって歌や踊りの場面もあり、登場人物たちの関係も時間を越えて重なり合い、気品を保ちつつ濃密にまとめられている。シャーム・ベネガルやゴータム・ゴーシュなどの実在映画人の名前も出てくるが、物語じたいはフィクションである。ただし、この映画はサタジット・レイとその家族をモデルにしたともいわれている。
音楽の道に進んでいたApuは、母Pidiの勧めもあって映画製作に転向し、父親であるAniketのスキャンダルを表沙汰にすることも厭わなくなっていく…。
しかし、Aniketが病に倒れ、体がいうこともきかなくなってからは、親子として理解し合える関係に戻っていった。
人間の運命として、その虚しさをひと際強く感じたのは、若い娘Shikhaが初めて映画監督Aniketを訪ねてきた姿と、スターとなった彼女が葬儀のため、Aniketの家を再び訪ねてきた姿が、作品を観ているわれわれの心の中で、自然と重なり合った瞬間だった。
(2009年12月5日)

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インド・マハラシュトラ州マレガオンの、自主製作パロディ映画 [インド]

NHKの放送番組は、おおむね良質で視聴者におもねる姿勢のないものが多いので、いつも気にしている。特に、海外で製作された番組の輸入や、NHKが海外と共同制作したものは貴重な情報源としてありがたいといつも思うのだが、その広報については不満もある。
同じように視聴料を支払っているWOWOWからは毎月、放送予定を詳しく知らせるプログラム誌が郵送されてくるが、NHKにはそのようなサービスはない。テレビだけでも5局あるが、新聞のテレビ欄においてNHKの枠は小さく、BSやハイビジョンは特に小さくて、短い番組が多いこともあるためか、例えばひとこと「アジア」と表記されているだけで、それが情報番組かドキュメンタリーか紀行なのかさえわからない。根気よくホームページの放送予定表をみることもなかなかできないので、結構、見逃してしまうことも多くて、残念に感じるのである。
秋から年始にかけては、BSハイビジョンで、見応えのある番組があった。特に中国とインドは、国際的な注目を集めるなかで、企画の対象としてよく目立っていた。
なかでも11月24日から27日にわたってシリーズで放送された「ドキュメンタリー熱インド」では、急激な経済成長を遂げるインドにおいて今、伝統や社会の変貌に直面する女性たちに焦点をあてた8つの短編が紹介されたが、観てみてどれも大きな収穫だった。
どれもコルカタ(カルカッタ)のサタジット・レイ映画TV研究所(SRFTI)の協力で制作されたものだが、いくつかを特記する。
シュデシナ・ボシュ監督の「おとぎ話はバスルームで」はコルカタ、ビシュヌ・ハルダー監督の「ベッドの上のデリー」はニューデリーと、都会生活に身を置こうとする女性たちの模索がよく描かれている。伝統と現代をもっと対立的にみせるのは、ナムラタ・ラオ監督の「TVの中・窓の外」。テレビをみる側のケララ州の老女、テレビに登場する側の女性キャスター、ふたりの日々を交互に追う。
マハラシュトラ州の、ガンジーの精神にのっとった農場で働く若い女性(マダビ・タンジェラ監督の「糸車日記」)、アッサム州でHIVに感染した女性たちの救済に身を尽くす、同じ感染者である女性ジョナビ(デブジャニ・ムクヘルジィ監督の「わたしはジョナビ」)、どちらの生き方にも、大きく心を揺さぶられる。
題材になった西ベンガル州メディニプールにブッダの時代から残るという伝統芸能ポト・チトロ(絵巻紙芝居)がとても美しく、素晴らしくて、8作品の中でもとりわけ興味深く観たのが、シュプリオ・シェン監督の「美を継ぐ者」だ。
普通の農村のおばさんが、美術館に展示されたり、オークションで高額取引される、素晴らしい絵を次々に描き出している。この女性ルッバーンが、今やテレビに押されて娯楽文化としては衰退してしまったポト・チトロを復興させてきた主役だ。本来は男性がやってきたことを、今は彼女が巻紙に絵を描いて、村を巡業して歌い語る。そしてその技は仲間たちだけでなく、さらに彼女の娘にまで継がれようとしている。たくましいインドの女性の情熱である。新鮮な発見を与えてくれた。
そして今回、正月の夜に何となくテレビをつけていて、同じくNHKのBSハイビジョンで観たのが、発掘アジアドキュメンタリー「インド・マレガオンのスーパーマン」(1月4日)。最初に08年7月29日に放送したものですとテロップが出てきたので、当時知らずにいて、見逃してしまっていたものだ。今回たまたま観ることができてラッキーだった! とそう思える内容だ。
あとからNHKのホームページでみたところ、これは、NHK、メディアコープ(シンガポール)、KBS(韓国)の3つの放送局による国際共同制作のドキュメンタリーで、07年に行ったアジアン・ピッチ(アジア公開提案会議)で提案のあったアジア9か国の130本の中から、採用された3つの企画のうちのひとつだそうだ。
提出した企画が採用されて製作した監督は、インドI-pot Filmsのファイザ・アハマッド・カーンという女性ディレクター。
ムンバイ(ボンベイ)の北東300キロに位置するマレガオンの街で、ハリウッドとボリウッドを強く意識しながら独自の映画を自主製作する若者たちの姿を追いかけたものである。
ここで監督を務めるシャイク・ナシール(Shaikh Nasir)は、ヒンディー語映画なんてつまらないと、以前インド映画「SHOLAY(炎)」のパロディを製作して街の人気を集めた。そんな彼が今回挑戦するのは、スーパーマンのパロディだ。マレガオンの街を舞台にした、街中の人々が熱狂する映画をつくりたいのだ。映画づくりなど正式に学んだことはない。ハリウッド映画の見よう見まねだ。役割ごとに製作スタッフがいることもよく知らなかった。
彼は、アクラム、ファロ、ハミドといった仲間たちとアイデアを出し合い、脚本を作っていく。主演はシャフィークという、縫製工場で働く、SMAPのクサナギツヨシによく似た青年だ。ガリガリで貧相な体つきのシャフィークが、胸にM(マレガオンのM)の字のコスチュームを着て、空を飛ぶ。この、空を飛んだりするクロマキー撮影が、今回の映画の目玉だ。何とか仕入れたパソコンソフトを使って、「マトリックス」に挑戦! と連中は息巻く。
しかし撮影の舞台裏では次々と醜態が繰り広げられる。緑色のシートを幕にしたその前で、体を吊ったシャフィークが、宙を縦横無尽に飛び回っているように動く“フリ”。風でマントをはためかせる工夫も(しかしもちろん仕上がりの合成シーンはかなり荒い)。体を張ったアクションにも取り組む。オートリキシャに飛び乗ったり、ローラースケートを履いて自動車と格闘したり、水に飛び込んだりと、まるで「タケちゃんマン」か「はねとび」のコントのようだ。コメディ映画なのだから、取り巻く見物人たちも大爆笑だ。クレーン撮影や自転車を使ったズーム撮影も彼らなりのアイデアだ。一方で、撮影していたビデオカメラを川に落としてしまうアクシデントも(修理で撮影が遅れる)。
歌とダンスも重要な要素だ。「♪ スーパーマン、私はマレガオンのスーパーマン、織機の音に乗って街中を飛び回る。ヒンドゥ、イスラム、シーク、キリスト、みんなが愛するスーパーマン ♪」と、シャフィークとヒロインが、哀愁のあるメロディに乗って、ちょっともじもじと踊る。
彼らの作品「Malegaon Ka Superman」はおバカそうな映画だが、大人たちが、そんな映画づくりにも大真面目で取り組むさまは、抱腹絶倒の果てに、感動さえ覚える。この映画の披露試写に集まる街の人々ももちろん大喝采だ。
シャイク・ナシール監督は言う。これはコピー映画ではない。舞台もストーリーも音楽も違うじゃないか。これはインド文化にあわせたインドのものだ、と。
1年ほど前に、カフルーシャという男が自作自演のヒーロー映画を撮る姿を追ったチュニジアのドキュメンタリー映画のことをこのサイトに書いた。それに通じるものがここにはあるが、このインドの場合、マレガオンの若者たちの恐るべき映画づくりへの執念にプラスして、インドの風土がそこにあるようだ。なぜ、素人たちが映画づくりなのか? インドだからなのか?
たとえば“インド人は365日3食カレーを食べるのか”などという発想は、インド人はこうあって欲しいという、われわれ外国人の期待を含んだ見方だけれども、ごく普通のインド人が映画づくりに走るというドキュメントは、われわれの期待に大いに応える、映画大国インドならではの風景ではないか。
「ドキュメンタリー熱インド」も「発掘アジアドキュメンタリー/インド・マレガオンのスーパーマン」も、外国からの視点ではなく、インド発のレポートというところが重要なところだ。
(2009年1月18日)

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インド映画ふたつ。サントーシュ・シヴァン監督の「Tahaan」とナンディター・ダース監督の「Firaaq」 [インド]

昨年の釜山国際映画祭(PIFF)で観て、このサイトでもふれたサントーシュ・シヴァン監督の「Before the Rain」。そのときの記憶もまだまだ鮮明で、もうあれから一年たつのかしらと思いながら、今年のPIFFではさらに、シヴァン監督の最新作「Tahaan」(08)のインターナショナル・プレミア(10月6日、Megabox Haeundae 6にて)を拝見した。もちろんシヴァン監督は今年、New Currents Awardの審査員として参加されているので、この日の上映には舞台挨拶もある。
先に言うと、「Tahaan」もこれまた素晴らしい作品であった。カタログ上の表記はインド映画だが、プロデューサーとして、旦匡子さんの名前がクレジットされていたので、いずれ日本でも公開されるのだろうか。
前作「Before the Rain」の主演ラフル・ボースが、本作にも顔を出しているが(行商人の甥Zafarの役)、主人公は、作品の題名になっているTahaanという8歳の少年だ。
映画の舞台はカシミール地方。つい最近の、日本人も犠牲になったムンバイのテロ。その実行グループとされるイスラム過激派「ラシュカレトイバ」の動機は、印パが領有権を争うカシミール地方で多くのイスラム教徒がインド軍に殺害されたことへの復讐とみられているだけに、いま振り返っても生々しいドラマだったと感じるのである。
Tahaan少年には父がいない。5年前に行方不明になったままなのである。少年は、羊飼いをしているおじいちゃんと姉、そして障害のある母と暮らしている。Tahaan少年にとっては、むかし父が買ってくれたロバBirbalが友達だ。しかしおじいちゃんが突然亡くなってしまい、借金のためにロバはやむなく売られてしまう。そして転売されたロバは行商人Subhan Daarのもとへ。Tahaanは返してくれないかと何度も哀願するが、それは無理なこと。ロバと離れたくない彼は、行商人の山越えに同行する手伝いを始める。
父が行方不明になったというカシミールの山中を行き来するようになったある日、Tahaanは、ロバを取り戻してやるからと、ひとりの青年から荷物の運搬を持ちかけられる。軍の検問警備を潜り抜けるため、ロバの荷に紛れ込ませてTahaanに武器運搬をさせるつもりなのである。無垢な少年が、インド軍とムスリムたちの対立にのみ込まれんとするドラマの構図…。これは、同じくPIFFで観た、パキスタンの社会派映画「Ramchand Pakistani」に通じるものがある。
シヴァン作品には、相変わらずさすが、内面心理を増幅させるカメラワークに唸らせるところがあり、手榴弾を投げるよう指示されたTahaanの動きには、心臓がバクバクさせられる。書いてしまうのはとても野暮なのだが、Tahaan少年にとっては、ロバはイコール父である。ロバを返して欲しいが為の、少年の危険な旅への決意には、紛争地帯カシミールに生きる子が、父に対して握り持つ強い絆があるのだ。それは平和な世に呆けていては、消失してしまいそうな、人生において大切な大切なものである。
一方、同じくシヴァン監督の前作「Before the Rain」にでていた国際派女優ナンディター・ダースの初監督作品も、今年のPIFFで観た(10月5日にPrimus Haeundae 4劇場にて)。
彼女が俳優として出演しているパキスタン映画「Ramchand Pakistani」は翌10月6日に観て、先にこのサイトに書いたので、そちらの方もよろしければご一読いただきたい。
ナンディター・ダース初監督作品は、タイトルが「Firaaq」(08)。これも注目すべき映画で、ヒンズー教徒とイスラム教徒の衝突を、市井の生活者の視点で露出する作品である。映画の出だしから、2002 年3月のインド・グジャラート州における暴動が背景になっていることがわかる。物語は、双方の応酬に巻き込まれていく犠牲者たちを描いた群像劇の形式をとっている。
リキシャの運転手をしているHarifとその妻Muneeraはムスリムの夫婦。暴動によって家を焼かれてしまい、小さな赤ん坊を抱えて路頭に迷ってしまう。怒りに震えるHarifはムスリムの仲間たちと報復計画を企てる…。
街が血に染まった暴動以後、その恐怖の幻聴に悩まされ続けるヒンズー家庭の中年主婦Anati。彼女の手首にはいくつもの傷痕が自らによって付けられている。封建的な夫はAnatiに対して暴力を振るう一方で、ムスリムを虫けらのように思っている。
暴動で孤児になってしまったムスリムの少年Mohsin。彼は Mohanと名乗らなければ、抗争が続く街では生きていけないのだ…。
デリーに移ろうとしているブルジョアの夫婦がいる。ヒンズーの妻とムスリムの夫…。男はムスリムであることを隠してきたが、ついにカミングアウトすることに…。
このほか多くの登場人物が、殺りくにまで発展した暴動に心を激しく揺さぶられて、それぞれの立場から、自分の信じる道をたどっていく。殺し合いの連鎖に巻き込まれてしまった人々には、どちらが正しくて、どちらが間違っているという烙印をつけることはできない。そして…映画を観ていて、ただただ胸を痛めるばかりである。
ラストシーンは孤児の少年の顔。それは、いまだ帰結しない、変わらない現実を映し出している。
初の監督業に徹していて、俳優としては出演してしないナンディター・ダースなのに、決意あふれる彼女の真摯な表情が、まるでスクリーンを通して透けて見えてきそうな力作である。
(2008年12月29日)

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NHKアジア・フィルム・フェスティバル作品の放送にあたって(サントーシュ・シヴァン監督) [インド]

昨年11月の第7回NHKアジア・フィルム・フェスティバルで上映された後に劇場公開もされた、インドのサントーシュ・シヴァン監督作品「ナヴァラサ」(05)が10月17日にNHK衛星第二で放送される。そこで、サントーシュ・シヴァン監督のことを少し書きたい。
もともとは撮影監督として活躍していて、マニラトナム監督の「ザ・デュオ(The Duo)」(97)や「ディル・セ/心から(Dil Se)」(98)、シャジ・カルン監督の「最後の舞(The Last Dance)」(99)などの際立った映像表現で知られていた彼だが、監督作品が初めて日本で紹介されたのは「テロリスト」(98)が最初だったと思う。1999年のアジアフォーカスが、その初の舞台となった。91年の自爆テロによるラジブ・ガンジー首相暗殺の実話に基づいて、テロリストとして育てられた少女の生命に焦点をあてた社会派の力作である。シャープな映像美とそして小気味いい展開のリズムに対して、これまではわりとマッタリとしたインド映画に数多く接してきたこともあって、インド国際映画祭でこれを初めて観たときには衝撃を覚え、驚嘆させられたものだ。この「テロリスト」は、その後ギャガが権利を取得して「マッリの種」という邦題で、アジアフォーカス上映から3年経って劇場公開もされた。
と、こんなことを書きながらも、じつは私は、サントーシュ・シヴァン監督には一度もお会いしたことがない。けれども彼の父親であるシヴァン監督には何度も出会っている。映画一家のシヴァン監督には息子さんが3人いて全員が映画製作者、サントーシュ・シヴァン監督は真ん中の2番目だったように記憶している(記憶は少し不確かである)。シヴァン監督自身は監督作「旅路(The Journey)」(98)と「ぼくの家出(Shelter)」(91)でアジアフォーカスに二度参加している。2005年ケーララ国際映画祭の野外のオープニング式典会場では偶然シヴァン監督夫妻に出くわして、家(オフィスのシヴァン・スタジオのこと?)に一度寄るように声を掛けられたものだ。ちなみにこの時のオープニング上映作品はディーパ・メータ監督の「Water」(05)だった。
さて、そして「ナヴァラサ」だが、今年3月にはオフィスサンマルサンの配給で劇場公開もされているので、やはり相当の価値は認められたことになる。南インド・クーヴァガム村に実在するゲイの祭典が舞台。13歳の少女シュエータは、30万人もの人が集まるというこの祭に参加するために向かった叔父のあとを追う。女装癖のある叔父は、体は男性だが心は女性という性同一性障害だったのである…。少女にとっては異次元的な世界を、サントーシュ・シヴァン監督は絶妙に美しくてそして自在なカメラワークで撮り上げている。少女と旅をともにするオネエ・キャラの男ボビーが何ともいい味を出している。
ついでに。第12回釜山国際映画祭に参加してきて、つい先日10月9日に帰国したが、サントーシュ・シヴァン監督の最新作「Before the Rain」(07)を観てきたばかりなので(於:Primus Haeundae Cinema 10)、それについても。米英の出資で撮られた、これまた素晴らしい作品だった。舞台は1930年代の南インド・ケーララ。イギリスが統治している時代では、主人公である青年T.K.Neelanの村にも英国人が入り込んでいた。その英国人の農場主Henryとの情事が夫に知られてしまったメイドのSajaniは自殺を図ってしまう。しかし事件の真実を知っているのは、同じく使用人として働いている青年T.K.だけ。彼の心は、主人であるHenryとの友情と、父親が村長を務めるこの土地の一員としての正義感との間で激しく揺れ動く…。水と緑豊かなみずみずしいケーララの自然を活写しながら、T.K.の心の葛藤までも研ぎ澄ますかのような、風格さえ漂う映像。ベンガル出身の俳優ラフル・ボースが主人公T.K.をみごとに演じている。アパルナ・セン監督の「Mr. & Mrs.アイヤル(Mr. and Mrs. Iyer)」(02)やブッダデーブ・ダスグプタ 監督の「霧の中の記憶(Memories in the Mist)」(05)で、その印象的な存在感にずっと注目してきた俳優だ。メイド役のナンディター・ダースも実力ある美人女優で、ディーパ・メータ監督の「Fire」(96)、「Earth」(98)などに出演、2年前にはカンヌで審査員を務めた経験もある。サントーシュ・シヴァン監督は、世界にアピールするにふさわしいドラマ性の高いシチュエーション設定と確かな俳優陣を得て、国際派監督としてさらに飛躍した。
(2007年10月11日)


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福岡天神で開幕したAQFFと、思い出されるインド映画「炎の二人」 [インド]

8月23日から「アジアン・クイア・フィルム&ビデオ・フェスティバル(AQFF)」が、福岡天神の三菱地所アルティアムで始まった。じつは、昨日まで5日連続で足を運んでいる。「東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」のラインアップと重なっていることから、自分としてはその趣旨はよくわかるし、作品として魅力ある映画が含まれていることも充分承知している。一般的にはクイアというと伝わりにくいが、セクシャル・マイノリティーに焦点を当てた作品選定によるテーマ映画祭だ。新しい映画祭が福岡に生まれたことは現象として喜ばしいことであるし、定着して欲しいと願う。まあ、作品についてのことは改めて書こうと思う。
いま、まず思うことは、テーマ映画祭の意義についてだ。たとえば今回のAQFFではインドネシア映画「分かち合う愛」を通して、一夫多妻制における女性側の、性的な人生の苦さを知ることができた。テーマという点で、これはたいへんに良い作品セレクトだと思う。実際過去には、いただけない映画祭もあった。2年前に開催され、昨年も継続開催を発表しながらも土壇場で中止となった「Fukuokaヒーローフェスタ2005」だ。オープニング上映(「東京ゾンビ」)で、同映画祭ディレクターは、子どもからお年寄りまで楽しんで欲しい映画だと紹介していたが、果たして実際この作品を見た人はそう思うだろうか。この映画祭自体の見識の低さと志のなさが感じられる発言で、忘れることができない(「東京ゾンビ」の質を問うているわけではない)。また毎年9月には幕張で「アジア海洋映画祭」が開催されている。これもテーマ映画祭で、海に関わる映画を上映することになっている。このブログで今年3月に紹介した台湾映画の「奇蹟的夏天」や「練習曲」が次のラインアップに入っているが、テーマから導き出されるべき一貫性が弱い気がするのだが…。海のシーンさえあればいいのかと思ってしまう。
AQFFに話を戻すと、観客はいまのところとても少ないようだ。だが足を運んでいる観客は、アートを求めて来ているように見受けられて安心した。安心したという意味は、クイア層でなさそうだからということでは決してなく、“テーマ”が“映画祭”に先立っていることもなく、かといって埋没しているというわけでもない、つまりテーマがよく浮かび上がる作品選定になっていて、映画祭として作品レベルも維持している、バランスの程よさが感じられたからだ。ひとつケチを付けたいことに、主催スタッフ(福岡?)が映画祭を運営しているという認識に弱いということがある。海外の国際映画祭でも時々トラブルがあるが、DVD上映は観客にとってよろしくない。機器の不具合で映像が乱れたり止まったりするからだ。実際に試写をやったのかどうか疑いたくなる。それとフォーマットがフィルムのものでも、DVDで上映している。それについて断りがないうえに、“フィルム&ビデオ・フェスティバル”と名乗られては困る。
さて「東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」から連想して、ディーパ・メータ監督の「炎の二人」(96)を思い出したので、これについても書きたい(原題は「Fire」)。これは1999年の第8回東京国際レズ&ゲイ映画祭で上映されたものだが、このたび来月開催されるアジアフォーカスで再び上映されることになっている(邦題が「炎」と替えられているので注意)。筆者は1997年に南インド・ケーララ州で開催された第28回インド国際映画祭でこれを観た。男中心の伝統的な価値観のなかで互いに理解し合っていく義理の姉妹の同性愛を大胆に描いた衝撃的作品で、当時、同映画祭ではセンセーションを巻き起こした。翌年インドでは検閲が通り成人映画として劇場公開されたものの、ヒンズー至上主義を唱える極右グループが、社会の秩序を乱すとして次々にニューデリーやムンバイの映画館を襲撃、上映中止に追い込んだという事件は日本でも報道されている。10年前にインド女性の性愛と欲望を大胆に描いたという点では意欲と進歩があり、レズ&ゲイというテーマを超越してこの映画を評価すべき点があったと思う。
この映画は厳密にはインド=カナダ合作で、ディーパ・メータ監督はインドからカナダに移住した女性監督である。日本ではその前作にあたるブリジット・フォンダとジェシカ・タンディ主演の「カミーラ/あなたといた夏」(94)が劇場公開されている。この「炎の二人」でもインドのトップ女優シャバナー・アーズミーが、レズに目覚める義理姉役に起用されている。10年前に観て驚いたことは「炎の二人」の音楽が、その前年にハワイ国際映画祭で観たマニ・ラトナム監督のインド映画「ボンベイ」と同じだったことだ。A.R.ラフマーンの曲なのだが、そのときにはすぐに気付かず、映画を観ながらこの曲どこかで聴いた気がするなあと、ずっと考えていた。
最後にもう一度「東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」に話を戻すが、今年夏の同映画祭では、このブログで今年3月に紹介した台湾映画「刺青」(監督:周美玲)が日本初上映されている。軽視してはいけない映画祭だと思う。
(2007年8月28日)


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