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21st BIFFから/ブリランテ・メンドーサ監督がプロデューサーの「Expressway」 [フィリピン]

ブリランテ・メンドーサ監督の名前がプロデューサーとしてあがっていることで、俄然注目して観たフィリピン映画「Expressway」(2016)。Ato Bautista監督の作品で釜山がインターナショナル・プレミア。プロデューサーの名前から想像したとおりのピノイ・テイストのドラマだ。「きよしこの夜」の調べから静かに始まるが、それはひと仕事前の殺し屋の瞑想の時間に過ぎず、スクリーン上では、無口で職人気質の殺し屋Benと若く熱しやすいその相棒Morrisによる、非情な仕事が繰り返されていく。
Benの流儀には納得できずやたらと暴走気味のMorris。クリスマスの季節感に包まれたこの街で、銃弾の乾いた音が響き、飾られたツリーの前に死体が転がる。そのコントラストがフィリピンの気鋭の監督のひとつの美学だ。そしてこれを最後に足を洗うつもりのBenがピアノで弾き語る「きよし…」のメロディには、贖罪の意が込められているかのようだ。
ここでは詳しく書かないが、BenとMorrisには過去から運命的な因縁があった。だからラストシーンでMorrisがBenに銃口を向けることは、ある意味で神様による巡り合わせだった…。銃声だけが夜空に響いて、このドラマはストンと終わる。誰が誰を撃ったのか。
キャストとスタッフのクレジットは、最初に冒頭の「きよしこの夜」の調べにあわせて出てしまっているので、作品は銃声を最後にもう本当にストンと終わって劇場内は直ちに明るくなる。
あまりにも潔い余韻のなさ。それは殺し屋が銃弾一発で確実に仕留める作法のよう。ヤラレた。
(2016年11月17日)

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WOWOWで観た、サンダンス観客賞の「メトロマニラ〜世界で最も危険な街」 [フィリピン]

※結末を書いています

劇場未公開やDVD未発売の洋画を日本初放送する、WOWOWの特集プログラム「ジャパンプレミア」で、2013年サンダンス映画祭ワールドシネマ部門のドラマ観客賞を受賞したというイギリス=フィリピン合作の「メトロマニラ〜世界で最も危険な街」(2013年)を1月12日に観た。監督・原案・脚本・撮影は、英国のショーン・エリス監督で、オールフィリピンロケで臨んだ本作については、「ザ・レイド」などインドネシアを舞台にして製作活動をしているギャレス・エヴァンス監督を引き合いにする見方もある。
マニラが世界で最も危険な街であるのかどうか、実際にそうなのかは別として、それを作品から見出すには正確な邦題ではない。ただ少なくとも、貧困層を多く抱えていて治安の悪いマニラ首都圏における現金輸送という警備員の業務が、戦地に派遣される兵士を別にすれば、危険な職業のひとつであることは間違いないだろう。このドラマにおいてその仕事に就くしかなかったのは、貧しさから逃れるために家族とともにマニラに上京したものの、有り金すべてを騙し取られ、とうとうスラムに住みついてしまったオスカーという主人公。
しかし妻や幼い子どもたちを養わなくてはならない彼にとって、仕事にありつけるということはありがたいばかりだった。元警官だったという先輩警備員オングの導きで、その彼の相棒として仕事を覚えていくが、現金輸送には命がけのリスクがあった。殉職しても、遺族には未払いの給料と遺品が事務的に届けられるだけなのだから…。
メトロマニラという異様な世界に飛び込み、どん底生活が続く主人公のドラマからはわずか数分先への不安と緊張が常に伝わってくるが、それは生活者でなくストレンジャーの視点からであり、英国のエリス監督としては快心の撮影かもしれない。観ていて確かに映像展開に釘付けにされてしまうところはある。ただしそれは、ブリヤンテ・メンドーサ、アドルフォ・アリックス・Jr.、ローレンス・ファハルドといったフィリピンの代表的作家による、街に根ざした活写術とは異なるものだ。
前半はそういう社会派タッチだが、オスカーが職に就いてものごとを理解するようになって後半からは、クライムサスペンス的なドラマへと様変わりする。
現金輸送業務は危険と背中合わせであると同時に、横領という誘惑とも戦っていかなければならない。しかしオスカーは、オングの推薦によってその相棒として就職できた時点で、欲に心奪われたオングの策略にすでに乗せられていたのだ。過去強盗に略奪されたことになっている現金ケース、それがじつはいまだオングの手元にある。共謀してそのケースの鍵を事務所から失敬できれば、二人は大金を掴むことができるのだ。オングはなかば強引にオスカーをその作戦に引き込んだ。
しかしオングは暴漢に殺されてしまい、ついに単独で鍵の型取りを決行したオスカーも、最後には命を落としてしまう…。施錠されたままの現金ケースがオスカーの家に残されることになる。ラストで、規則どおりオスカーの妻に未払いの給料と遺品が届けられたが、その遺品の中には射殺される間際にオスカーがマスターキーから取った鍵の型があり、それが映し出されることで、この作品の冒頭に述べられていた、しかしすっかり忘れていた、「道は長くとも、必ず教会にたどりつく」という言葉がついに思い出された。
後半の展開は、このドラマがメトロマニラでしか成り立たないものなのか、むしろ例えば香港を舞台にした犯罪ものでみられそうな話ではないか、そう思いながら観ていったが、きっと教会へたどりつくのだという神への信心は、それが筋を通してきちんと描かれているかどうかは別として、ヤクの取引で大儲けする者がいる一方で貧困に苦しんで水商売に走らざるを得ないような人々を抱え、歴然とした格差を骨格とする街マニラを舞台にしてこそ、馴染むものだといえないか。
なお、上空の飛行機から飛び降りて逃亡しようとするハイジャック犯のエピソードが出てくる。ショーン・エリス監督がシナリオハンティングして盛り込んだ話かもしれない、同じような話がレイモンド・レッド監督の「マニラ・スカイ」でも描かれていたので、実際にフィリピンで起きた事件なのだろうと思うが、これもまた命がけの危険な行為だ。貧困から脱出するには、とにかく命を張る必要があるということか。
(2014年1月22日)

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18th BIFFから/「死の行進」を映すフィリピン映画「Death March」 [フィリピン]

例えば、アジアからノルマンディーまで捕虜として生き抜いた運命を壮大なスケールで描いた、オダギリジョーとチャン・ドンゴン出演の「マイウェイ 12,000キロの真実」のような大作とは対極のスタイルにあるといえる、驚きの戦争ドラマが、10月4日にLotte Cinema Centum City 9で観た、フィリピン映画「Death March」(2013)だ。
第二次世界大戦中の1942年4月。日本軍がフィリピンのバターンに侵攻し、米軍・フィリピン軍あわせて7万5千人を捕虜とした。そこへ、その捕虜全員を徒歩で128km離れた収容所まで移動させろと命令が下る。これが、本作の題材であり、題名にもなっている「死の行進」。何万人もの捕虜が連行中に命を落としたそうだ。
フィリピン・インディペンデント映画の雄として世界の国際映画祭へ向けて作品を次から次へと発表し続けるAdolfo Alix Jr.監督の、歴史の悲劇へのアプローチは、極めて特殊なドラマツルギーで構築されている。ほぼ全編が異色のセット撮影なのだ。それも、シュールレアリスム風の美術セットで、演劇舞台の書き割や装置の手法を用いて、風景背景を表現している! 森も林も建物もベニヤ板か何かに描かれた絵であって、池にはビニールが敷かれている。そういう背景なので必然なのか意図的なのか、カメラは景色よりも人物をかなり寄り気味にとらえている。B&Wに仕上げられていることも、残虐性のほか、粗を抑える効果も考えているのかもしれないが、少なくともこれらの工夫が、低予算という限られた条件で、悪夢のような状況における人間の心理に接近して浮き立たせることには成功している。
写実的な光景ではないが、かといって決してステージプレイをカメラで写した舞台収録のような程度のものではないことを付け加える。
ジュネーブ条約で捕虜は注意して扱うことになっているそうだが、現実はそうなってはいない。しかしその中で、ジャッキー・ウー演じるタガログ語の話せる日本兵ハットリは、捕虜に対して思いやりを持った人物として描かれている。ジャッキー・ウーといえば、大阪アジアンで上映された同じAdolfo Alix Jr.監督の「リベラシオン」で作品プロデューサーにして主役の日本兵を演じていたが、本作でも主演俳優である前にエグゼクティブ・プロデューサーである。
日本軍が強いた捕虜たちの死の行進は、爆撃も受けながらも歩を進めていくが、激しい体力の消耗や飢え、またマラリアに冒されて、眼に映るものが、幻覚なのか現実なのか区別のつかなくなった者も出てくる。上官は、死にそうな奴は焼いてしまえと命令する。その日本兵に歯向かう者、脱走を考える者、地獄のような扱いは捕虜たちを狂わせていく。
ビビアン・リーやクラーク・ゲーブルの映画が好きでハリウッドに行きたかったという日本兵ハットリは、米兵とも親しくし、弱ったフィリピン兵との間には友情を感じていた。このハットリの口からは、まるで平和をプロパガンダするようなストレートな言葉が次々に溢れ出てきた。「捕虜も同じ人間だ」「戦争は大きな悪魔だ」「人殺しをしない日本人に生まれ変わりたい」。科白にウエートのかかる撮り方だけに、観終わっても、耳に残っているものばかり。
しかしというか、当然に、上官に従わないハットリは射殺された。生き抜きたいと強く望んだフィリピン兵が、ハットリの幻をみながら、脱走を遂げたそのとき、それまでのセット撮影からロケーション撮影へと静かに場面が移ったことをスクリーンで確認できた。そして映画のテーマ性は、予算の大小だけでは測れないということをあらためて深く感じた。
(2013年12月1日)



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アジアフォーカス2013/400字レポート ④ 「果てしなき鎖」 [フィリピン]

アジアフォーカス2013/400字レポート ④
「果てしなき鎖」(2012) フィリピン ローレンス・ファハルド監督

貧しい一家の稼ぎ頭としてスリを生業としている青年ジェスはきっと、その窃盗行為は、正当な富の再分配だとでも思っているのだろう。通報を受けて、警官たちがその彼を追い詰めていく。動体視力の高いそのカメラワークは、獲物を狙ったら逃さないハイエナの如き警官たちの捕獲劇を活写する。それほどの給料をもらっているわけでもない警官たちは、なぜこれほどにも、市民を守り奉仕するという正義的任務に忠実なのだろう。その疑問はおって氷解する。ジェスがぶち込まれた警察署の留置場の檻は、まるで虫カゴのようにみえる。その中に捕らえられた犯罪者たちは、ほんとうに虫のようだ。警察は虫ケラどもを採集しているのだ。取り調べの責任者である警部ドミンゴは、映画冒頭の犯罪者に貢がせている暗示的場面ではサングラスのためよくわからなかったが、無気味なほどに澄んだきれいな眼の持ち主で、被害者からは信頼を得ていて、だからこそやっていることが尚更に怖い。暴力でジェスに罪を認めさせたうえで、不起訴にするという恩を売るような形で、今後の獲れ高は折半するよう固く約束させる。
スリが悪いとか悪徳警官が悪いとかを断じる話ではなくて、ただとにかくこの作品には、生まれながらに貧富があったり、悪事で大儲けしたりもできるという人間社会の不条理を、できれば眼を背けたいしかしどうしても避けられない、人間の最も嫌な部分として否応なしに突きつけてくる衝撃に満ちている。フィリピン発のその衝撃からは到底逃げられない。
(2013年9月18日)

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17th BIFFから/父子の絆をパワフルに訴えるフィリピン映画「Breakaway」 [フィリピン]

マリルー・ディアス=アバヤ監督の訃報を、釜山から帰国してから知らされて、ずっとショックでいる。どれくらい前だっただろうか、映画人育成にも力を注ぎ始めたところで監督が癌に侵されておられることを知り、しかし、きっと映画監督として復活されるに違いないと強く信じ続けてきた。精力的で、男性監督よりもかえって勇ましくフィリピン映画界を牽引してきたアバヤ監督が逝ってしまうとは、本当に悔しくてならない。
じつは、亡くなられた10月8日、わたくしは釜山国際映画祭にいて、偶然にもアバヤ監督のことを思い出し考えていた…。
それはもう今から15年も前、マニラに行った際のことである。滞在中に、編集をやっと終えたばかりの当時の最新作「マドンナ・アンド・チャイルド」を、1ロールごとにみせていただいた。そればかりではなく、ケソンにあるアバヤ監督の御宅にまでお邪魔させていただいた。「マドンナ-」は香港に出稼ぎに行くため、我が子と離れざるをえなかった母親とその子どもの心揺さぶる運命の物語で、そこからは児童労働の問題もみえてきて、涙なしではエンドロールを迎えることができない感動作。
偶然にもそのアバヤ監督のこと、そして「マドンナ-」で描かれた親子の絆をあらためて思い出したのは、アバヤ監督の亡くなった10月8日にLotte Cinema Centumcity 4で観たフィリピンの新鋭Ian Lorenos監督によるインディペンデント映画「Breakaway」(2012)が訴える、感情ほとばしる父と子の絆に、「マドンナ-」のそれが重なってみえたからである。今となっては、天に召されたアバヤ監督がこの「Breakaway」と巡り会わせてくれたのではと思うほどである。
妻を亡くし、10歳ぐらいの息子Brianと二人で暮らしているRobert。Brianは明るくイキイキしていて、父親Robertにとってはかけがえのない存在である。会社の営業の職は収入も高くはなく、息子を私立学校に通わせていることもあって、家計は苦しい。だから愛してはいても、生活のつらさをついつい息子にあたってしまうこともある。ある日には、Brianが学校で喧嘩をしてしまって校長から呼び出され、Robertは息子を厳しく叱る。けれどもその夜には息子を優しく抱いて眠る。そこには彼なりの強い自責の思いがある。父ひとり子ひとりの日々の日常が、それぞれの気持ちに対して素直に描かれていくが、その所々には、Robertがひとり、街をさまよいながら泣き崩れる姿が、何の説明もなくインサートされていく…。
叱った、叱られた翌日、二人は仲直りでショッピングモールへ行く。ここらあたりで上映時間は半分を経過。そして、それまで説明を省略されてきたインサート場面の理由がみえてくる形で、映画はシャープなトーンへと急旋回する。〔以下、映画の結末まで書きます〕
息子を一人トイレに残し、Robertが宝くじを買って戻ってくると、Brianの姿がない! それまでの極めて日常的な日々に、いやおうなく突然に強引に児童誘拐という犯罪が割り込んでくる。観ていて息が止まる。Robertは懸命に捜し回るが閉店になっても息子は見つからず、防犯カメラを調べてもらうと、不良少年に連れていかれる映像が! 警察はその不良少年が犯罪組織の下働きであることを確認する。
Robertはその不良の居場所を独力で探るために、夜の街へ。真夜中の公園の遊具では大勢の幼い子どもたちが喜々として遊んでいる。今でも頭から離れない異様なシーンである。Robertの焦燥の時間が続く。やがて不良少年は死体で発見される。その不良殺しの犯人と思われる坊主頭の男を捕らえ、Robertは単身で児童売買の組織へと近づいていく。潜入したアジトには、年齢も様々な多くの子どもたちが、吐き気を催すような環境の中で囲われている。大金をかき集めて香港行きの船からBrianを買い戻すしかない…そう決心したRobertが試みた取引は、警察の介入により、仲介の男が射殺されたことで不調に終わってしまう…。
映画が終わって劇場が明るくなると、わたくしの数列前の男性が立ちあがり大きな拍手を浴び始めた。上映前も後も特に紹介はなかったが、男性はRobert役を演じたJericho Rosalesだ! 喝采に値する熱演であったし、本作のインターナショナル・プレミアとしては最高の滑り出しだったと思う。
Ian Lorenos監督が力強い映画言語で語る、あまりにもエモーショナルな88分。Brianを演じた子役の演技も素晴らしいだけに、ごく普通の親子の日常が、児童売買の犯罪という極限まで飛躍する展開と結末には、観終えたところで、心はもう立ち直れなくなってしまう。
最後の10分間が、観客の感情としても複雑なエンディングである。Brianを取り戻すことができずに終わって何年後なのだろうか、Robertは年齢的にも中年にさしかかり、香港に来ている。明確な説明はないが、再婚してティーンの息子がいるようだ。なぜ香港にいるのか、Brianを今でも捜しているのか、Brianはどうなったのか…。と、Robertは街中で盲目の物乞いを見かける。その物乞いの手には、昔Brianに買ってあげたハーモニカがある。Robertは眼のみえないその物乞いを強く抱きしめる。その瞬間、わたくしの眼には理由の説明できない涙が流れた。
(2012年11月27日)

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アジアフォーカス2012/400字レポート⑧ 「アモク」 [フィリピン]

アジアフォーカス2012/400字レポート⑧
「アモク」(2011) フィリピン ローレンス・ファハルド監督

ちょうど一年前の釜山国際映画祭で話題に上がっていて観たかったのだが、上映が重なっているエジプト映画の方を選んだのでちょっと心残りだったが、これで安心。評判どおり、惹きつける力の強い作品だ。始まりの4、5分でもう気に入ってしまう。
路上の少年たちのラップから始まる。マニラ首都圏パサイの街の、蒸し暑い生活を冷ややかに歌っている。アモクというのは制御不能という意味だということが後でわかるが、汗ばむ街の通りの人々の生活が、嫌な感じで宿命的に絡み合ってしまう。バス停でバスケチームのレギュラー入りのことを話している学生とその父。串焼き売りの女とその幼い娘。アパートの窓から街の喧騒を眺めている老俳優は買った娼婦が男だったことに激昂している。渋滞に巻き込まれた中年の姉弟の車。ゲイのカップルはタクシーに乗車拒否される。保険金のために老婆に放火を依頼する男。その他その他。モンテスキューは「法の精神」で気候が人の精神に対して作用することを説いたが、ほんとうにここでは街のクソ暑さが治安を悪くし、事件を引き起こしてしまうのではないかと思えてしまうほど。そしてこれらスラムのモザイク風景は、ほんとうに制御不能な状態で、悲劇の連鎖を繰り返していく…。交差点に立つ“注意”の看板の皮肉。
フィリピン映画において、街は、そのものとして飽きない“食材”になっていて、まだまだ無限の可能性を秘めている。
(2012年10月23日)

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フィリピン映画の鬼才ブリランテ・メンドーサ監督の紹介番組を観た [フィリピン]

3月22日のNHK「ほっと@アジア」のアジア発おもしろTVのコーナーで、「フィリピン映画の鬼才・メンドーサ監督」と題して、隣国シンガポールのTV局メディアコープ製作の番組が紹介された。進行の吉井キャスターの「過激な映像スタイルで、いま最も注目されているひとり」という紹介はいいとして、「監督歴7年でそれほど作品数は多くはないものの」という修飾語はちょっと「?」マークだったけれども。
このシンガポールの番組は、フィリピンの映画監督ブリランテ・メンドーサの国際的な活躍を紹介しながら、彼の映画づくりへの思いにも迫るものだった。
2009年の第62回カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞した「キナタイ」(09)の映像を流しながら、タランティーノの「大胆で型破りな映画」という賛辞の言葉を借りて、この番組はメンドーサ監督の国際的躍進を伝える。(補:同年のコンペ部門はパルムドールがハネケの「白いリボン」で、他にパク・チャヌク監督「渇き」、ロウ・イエ監督「スプリング・フィーバー」、ジャック・オディアール監督の「預言者」、トリアー監督「アンチクライスト」に「イングロリアス・バスターズ」と粒ぞろい。)
「キナタイ」は、今度日本でもDVDリリースされるが、警察学校で学ぶ青年が、金を稼ぐために戸惑いながらも裏社会と関わるようになっていくさまを描いたサスペンス・ドラマだそうだ。女性の体を切り刻むなど暴力的な場面には賛否両論だった。(NHKで流される映像に問題となりそうなものは何もない。)しかしメンドーサ監督はこれらの批判も真摯に受け止め、「この賞のお陰で自分の信じる道を突き進めるようになった」と語るインタビューが流れる。
2005年の第58回ロカルノ国際映画祭で第一作「マニラ・デイドリーム」(05)がビデオ部門の金豹賞を受賞し、華々しいデューとなったメンドーサ監督は、キャリア7年で10本の作品を撮り、数々の世界的な賞に輝いたわけだが、映画づくりのきっかけは、それまで20年以上TVCMの美術監督として活躍してきたメンドーサ監督に、友人が30万円の資金を提供し、映画を作ってはどうかと挑戦を促したからだという。(補:この「マニラ・デイドリーム」は、東京国際レズビアン&ゲイ映画祭2006で上映されていることからもわかるとおり、貧しさから足を踏み入れた世界で官能に溺れていく青年を描いたゲイ・ムービー。)
「(一貫して社会的弱者を取り上げているのは、)貧困にあえぐフィリピン社会を知ってもらいたいから」。「リアルに作るようにしている。現実とかけ離れている映画ではなく、現実を反映した映画を常に意識している」。自然な姿を引き出すため、セリフは俳優のアドリブ。「キナタイ」の主演俳優ココ・マルティンは、「海外で、これはドキュメンタリーか?あなたは一般の人か?と訊かれた」と証言している。
番組はさらに、監督作「Lola」(09)の撮影風景を背景に流れていく。このようなドキュメンタリー風の手法は、メンドーサ監督を知らしめる作風となった。ついでに言うと、以前わたくしも観た、マニラのスラム街を舞台にした「Tirador」(07)になると、手持ち中心のカメラ・ワークは、内容とからいうことではなくて、激しいブレから船酔いするかのような気分の悪さもあった。
フィリピン映画の個性としては、ラテン気質から、情熱的で過激だとは以前から言われてきたが、メンドーサ監督は、「現実に目を向けてほしいから映画を作っている。暴力や性描写に批判があることはわかっている。けれども、そういった嫌悪感も意図していることだ。暴力を肯定しているのではない、暴力の存在を考えてほしいだけ」。「映画には真実を見つめ直す役割がある」と最後に結んだ。
最新作は、今年2月の第62回ベルリン国際映画祭で上映された第10作「Captured」(2011)。フィリピンで誘拐されたNGOの外国人活動家と、イスラム過激派のテロリストとの交流を描いた作品。フランスのベテラン女優イザベル・ユペールが主演を務めているそうだ。
(2012年4月17日)

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16th BIFFから ~ 大御所ローリス・ギリエン監督と俊英アドルフォ・アリックスJr.監督の新作 [フィリピン]

このところ国際映画祭で上映されるフィリピン映画といえば、貧困やスラムに身を置いた人々の物語がよく目立つ。作家がテーマとして撮りたいことは、どうしても、社会の負の側面になりがちであることは想像に難くない。そういうなかで、昨年の釜山ではチト・ローニョ監督のミュージカルドラマを観る機会に恵まれ、今年の収穫は、大御所ローリス・ギリエン監督の最新作「Mask」(2011)のインターナショナル・プレミアだった。10月10日、Lotte Cinema Centum City 2にて。
作品は、Robert F. Martinezというベテラン男優が語る演技についてのインタビューから始まる。それは、その妻EllenがPCで再生している映像である。夫が語る演技論をかなりしっかりとみせた後、Ellenは花を買い、彼の墓へと向かう。一連の描写から、愛し続けた存在を失ったばかりの女性の静かな悲しみが伝わってきて、最初からちょっとウルウルとくる。
Ellenは、夫の遺品を整理し始め、その中に手紙の束を見つけて驚く。それは彼女の知らない、彼の娘Annaから、彼宛てに書かれた手紙であった…。
時間が多少前後しながら、物語は、この世を去ったRobertの実像を探るように進んでいく。彼にゆかりのある、親しかった俳優仲間が集まり、彼との思い出を語り、歌を歌ったりして感動的な場面をつくっていく。一方では、彼の隠し子であるAnnaが、当時、学校での出来事や父への思い、心遣いへの感謝を伝えるために、離れている父Robertに向けて綴った手紙の朗読がオーバーラップしていく。
筋をたどっている途中で話をはさむが、冒頭のインタビュー映像の存在こそリアルだが、もちろんRobert F. Martinezという俳優は実在しない。けれども、劇中の彼の友人たちのやりとりには演技というには妙に現実味がある。じつはBIFFの公式HPでは、この作品「Mask」は“True Story”と印付けられていた(HPでは上映作品のジャンルを50ぐらいに分けている)。本作の内容との細かい関連性は断言できないが、ローリス・ギリエン監督の夫は2009年に亡くなったフィリピンの大物俳優Johnny Delgadoである(振り返ると筆者も何本もその出演作を観ていた)。そして、この作品の脚本担当であり、ラストの15分で登場する、劇中の隠し子Anna役を演じているのは、彼のじつの娘Ina Feleo。
物語の筋に戻すが、妻Ellenは、もう成人して結婚しているらしい夫の娘Annaを地方まで訪ねていく。Annaはとても清楚な感じの女性である。部屋中にRobertの写真やポスターが飾られていて、そこには彼が描いたAnnaの肖像画もあった。観客であるわれわれは、冒頭のインタビューが、テレビ番組などではなく、娘のAnnaじしんが撮った、父Robertに対して行ったプライベートのインタビューだったことを知る。そして、離れて育ったAnnaの手元にも、父から届いた多くの手紙が同じように残されていることがわかり、涙を抑えきれないAnna同様に、こちらもジーンときてしまった。
センセーショナルな言い方をすると、“亡き夫の知られざる過去”という、ヤラシイ話であるのに、この作品には“愛”が、溢れるほどに存在しているのだ。Robertが娘Annaの存在をなぜEllenに隠していたのか明らかにならず釈然としないが、そういう謎も抱えながら、普通、人は故人を偲ぶのだと思う。
ちょっと嬉しかったのは、新作が久しくご無沙汰のマリルー・ディアス=アバヤ監督の名前を、エンドロールの謝辞に見つけたこと。ギリエン監督と並んで80年代以降のフィリピン映画界を支えてきた、アバヤ監督の作品もまたいつか観たいものである。

そして、90年代以降のフィリピンの大手映画会社の作品ではよく見た顔のひとり、女優のCherry Pie Picache(読み方がわからないので、チェリーパイ・ピカチューと昔から勝手に呼んでいた。幾つになったのかなあ)主演の最新作も、ここ釜山で上映された。10月11日、 Lotte Cinema Centum City 3で鑑賞。
俊英アドルフォ・アリックスJr.監督のインディペンデント作品「Fable of the Fish」(2011)であるが、こちらの方はスラムを舞台にしていて、人間ではなく魚を産んだ夫婦の物語である。表情がちょっと独特の、女優Cherry Pie Picacheという素材がよく活かされている。
まともな職に就けず、ゴミの山でゴミを拾って生計を立てている夫Miguelと妻Lina(Cherry Pie Picache)。バラック小屋の安い家賃さえなかなか払えず、蒸し暑い夜も扇風機もなく耐えしのぐ、貧しい暮らしである。ある日Linaは、堆積したゴミの中から、マリア像を拾い上げる。その後から腹痛が始まり、Linaは40も過ぎて妊娠したと喜ぶ。そして腹も大きくなってきた夜、激しい暴風雨により小屋の中まで浸水しているときに陣痛が始まり、足まで水につかった状態でLinaが産み落としたのは、なんと魚だった! 夫の名にあやかってMiguelito(小さなMiguel)と名付け、嬉しそうに金魚鉢の中の魚を見つめる妻と、憮然とした夫との関係は途端に悪くなり、会話もなくなる。
教会では息子としての洗礼を断られたり、夫の飼う猫に襲われそうになって、怪我をして病院に連れて行っても断られたり、という展開は、Linaのまっすぐな母性愛からみれば不条理このうえなく、だが観客からみれば少々ブラックであり、時として苦笑いしてしまう。しかしこれは、寓話とか風刺とかいう次元のものではない。アドルフォ・アリックスJr.監督が訴える、社会の歪みそのものなのだと思う。だから彼女は変人扱いされるわけではなく、スラムの仲間たちは皆Linaに好意的であるし、“魚を産んだ女”としてゴシップ的に追いまわしていた女性レポーターも、Linaを応援し始める。
やがて、夫妻は裕福な生活をするようになる。ゴミの山で大金を拾ったのだ。これをMiguelitoのお陰と信じるLina。依然として夫Miguelは魚を捨ててこようとしたりするが、「妊娠したとき、男の子でも女の子でも、神のままに」と言ったじゃない! と泣くLinaの、息子Miguelitoへの愛はゆるぎない。
水槽をベビーカーに乗せて、わが子と闊歩するLinaの姿はたくましい。これを演じるCherry Pie Picacheの悦にいった表情は、また見事である。何かが憑依しているかのようだ、だから、彼女が泣き崩れるラストの場面には、そこからまた大きな落差があって、歪んだ、いや歪められた生き方が幸せには繋がらないという運命を強烈に見せつける。結末として、彼女の留守中に自宅が火事に遭って、夫Miguelと息子Miguelitoが焼け出されるのである。号泣するLinaが胸に抱くのは、“裸の王様”的にはっきり言うと焼き魚なのだが、物語の最後まで来ると、これをみても観客はもう誰も笑えない。
相変わらず力強い、アドルフォ・アリックスJr.監督の作品である。
(2011年11月8日)

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アジアフォーカス2011/400字レポート⑩ 「車の影に」 [フィリピン]

アジアフォーカス2011/400字レポート ⑩
「車の影に」(09) フィリピン アドルフォ・ボリナガ・アリックスJr.監督

過去に開催されていた「アジア海洋映画祭イン幕張」で、長編第一作「DONSOL」(06)、台湾F4のケン・チュウ主演の「バタネス」(07)といった作品を取り上げられている、フィリピンの俊英、アドルフォ・B・アリックスJr.監督の佳作である。低所得者層を描いた物語だが、まだ若い母親ノーラがひとりで遊園地の観覧車に乗り込む冒頭のシーンひとつで、この貧しい主人公の行き着くところはすべて見通せる。埠頭のトレーラー駐車場。そこでの、長距離運転手の夫、まだ小さい娘サラとの、野宿のような暮らしは劣悪だと思うのだが、借金や給料の前借り、また身体を売って稼ぎながら、ノーラは、国が用意する住宅よりもマシと言い切っている。けれども、映画を観ている者にとっては案の上のこと、悲劇へと繋がっていく。娘サラは車に轢き殺されてしまう。それも学芸会用の天使の羽根をつけたままで。ノーラは、長い慟哭を経て、娘の復讐へと走る。
削りに削って、残ったエッセンスだけで構成されたような70分。その剥き出し感を追求するには、モノクロの世界でなくてはダメだった。どん底の生活なのに、ほとんど詐欺ではないかと思われる障害者募金に、小銭を渡してしまうノーラの場面があって、これからの彼女を占うには、そのイノセントなワンシーンで十分だった。
(2011年11月8日)

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ミュージカル映画「Emir」は、フィリピンの出稼ぎ労働者たちへの讃歌 [フィリピン]

振り返って考えると、歌と踊りをふんだんに盛り込んだミュージカル仕様のフィリピン映画には、残念ながらこれまでわたくしはお目にかかったことがなかった。この「Emir」(10)は、スケール感たっぷりでダイナミックなミュージカル映画、主人公の半生は波乱万丈で苦労苦難もあるのだが、全体的に陽気で楽しい娯楽作品に仕上がっている。
わたくしの場合90年代半ばに、30作品余りをまとめて観たのがフィリピン映画との本格的な出会いになるが、そのときから映画を通して感じていたフィリピン人の気質に、ミュージカルというジャンルは向いているのではと今更ながら思う。
「Emir」は、チト・ローニョ(Chito S. Roño)監督作品である。フィリピンには膨大な数の作品を精力的に撮っている映画人が何人かいるが、チト・ローニョもそういう大御所となったひとりで、たまに国際映画祭などの舞台に名前が出ていると、自然と注目してしまう監督である。本作は、歌もダンスもハイレベルであるのはもちろんのこと、全体的に高いクオリティを備えており、中東で働く出稼ぎ労働者(OFW)やフィリピンの文化を扱っている点が、フィリピン映画としてのアイデンティティーを印象付けることにも成功している。
最初にお断りしておくが、第15回釜山国際映画祭の上映(2010年10月11日Lotte Cinema Centum City 2にて。観客は60名弱だった)ではハングル字幕しかなかった。舞台が中東に移ってから時々話されるアラビア語に英字幕が付くことと、アラブ人とフィリピン人の会話が英語であること以外はタガログ語だけなので、ミュージカルとして視覚的に物語を把握した次第である。
主人公はAmeliaという女性である。物語の幕開け時点ではまだ二十歳前ぐらいだろう。フィリピンのどの地方なのかはわからないが、トウモロコシの収穫や色鮮やかな機織りといった、田舎の村の日常的な風景が、これまた色彩的に素晴らしくカラフルに、大勢が歌い踊りながらの作業場面として表現される。Ameliaは出稼ぎのために、この村から中東へと旅立つ。冒頭からのこの15分余りは圧倒の連続である。
そしてAmeliaは、砂漠にひとり立ってソロで熱唱。…さてAmeliaは、中東(おそらく架空の国)のある王室の宮殿のメイドとなる。何十人もの使用人がいることは、お掃除場面の派手なダンスシーンからみてとれる。
Ameliaはやがて、雇われてまだ2か月余りであるのに、生まれたばかりのAhmed王子の世話役に抜擢される。誕生の宴もこれまたゴージャスに繰り広げられる。そのAhmedの成長や、Ameliaの出稼ぎ仲間たちとの交流、そのメイド仲間の恋物語などのサイドストーリーなどいろいろが、歌ありダンスありで語られていく。もちろんアラビックなテイストもふんだん。大勢の使用人を連れて一家がロンドンへ行く!となったときには、メイドたちは浮かれ踊る始末である。
節目節目で、フィリピンの出稼ぎ労働者たちにとっての楽しいクリスマスがある。そしてAhmedが10歳ぐらいになったころ、戦争なのかクーデターなのか、が勃発して、王族はもちろんのことAmeliaも巻き込まれる運命に! 宮殿のなかで突然に銃撃戦が始まり、Ameliaは何とかAhmedを連れて脱出して砂漠の中を逃げるが…。
物語の時間はさらに経過していくのだが、尻尾の先まで餡の入ったタイ焼きのように、最後の最後までエンターテインメントの128分。ビデオ作品なので、60分経つとテープ交換のためにインターバルが入る(中断する)。これだと何だかインドのミュージカルみたいである。
Amelia を演じるFrencheska Farrという女優さんは、最初はちょっとフレッシュな印象があり、庶民的な、イイ感じの親近感を抱かせるが、しかし物語の展開に合わせて次第にたくましく成長していくさまが、1,000万人ともいわれるフィリピンの出稼ぎ労働者の夢と努力の象徴となって描かれる。本作はまさに、チト・ローニョ監督が放つOFWたちに捧げた讃歌であり応援歌である。
Ameliaに恋心を抱き、彼女を支える青年役として、マリルー・ディアス=アバヤ監督の「ムロアミ」(00)の出演によりアジアフォーカスでの来福経験もあるジョン・ヒラリオの顔がみられる。
(2010年11月7日)

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アジアフォーカス2010/400字レポート⑧「ばあさん」 [フィリピン]

アジアフォーカス2010/400字レポート⑧
「ばあさん」(09)フィリピン ブリヤンテ・メンドーサ監督

メンドーサ監督作品の以前のカメラワークを想像して、“船酔い”してしまうのではと、ちょっと自信なく見始めたが、主役は老女ふたりということで、さほど心配するほどではなかった。カメラのぶれとそのスピードの絶妙な調和と、マニラの雨期がもたらす重苦しさをスクリーンを通して伝える色調に、むしろ感心するばかり。
マテオ・ブルゴスという殺人容疑者を間に挟んで、ふたりの老女の人生が交錯する。一人は殺された被害者青年の祖母にあたるホセファ。もう一人はこの容疑者の祖母のプリン。孫の葬儀費用も捻出できないホセファと、違法な路上販売で生計を立てていて示談金が用意できないプリン、それぞれの苦悩が、高齢者特有の、ちょっとじれったいくらいのテンポと震えを介して描かれる。
いろいろあって、ホセファ・キンポによってマニラ地裁に出された告訴は最終的には取り下げられるのだが、どちらの老女の顔も最後まで晴れ晴れとはしない。洪水に遭った街というロケーション設定が最後の最後まで、そこに生きる人々の不安をみせる。さらに裁判所でトイレまでたどり着けず、おしっこを漏らしてしまうホセファばあさんの場面があり、その一瞬の表情は、彼女たちの心の内のすべてを表している。漏らしてしまえば、もうどうにもならない、あっけないものである。観ているこちら側にまで絶望的な気分が届く。
(2010年10月4日)


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アジアフォーカス2010/400字レポート③「マニラ・スカイ」 [フィリピン]

アジアフォーカス2010/400字レポート③
「マニラ・スカイ」(09)フィリピン レイモンド・レッド監督

都会での成功を夢見てきた主人公のラウルだが、いつもいつも血管が切れそうなくらい怒っている。貧困が引き起こす事件や、不況で庶民の暮らしぶりが良くならないことを伝えるテレビのニュースを見ては怒鳴っている。たったの一日休みをくれない上司に向かって激怒している。海外への出稼ぎのために役所に手続きに行っても、書類不備で受け付けてもらえないことに逆上している。
そんな彼が、仲間たちとの強盗計画で、いざというときになって尻込みしてしまって、ついに失敗してしまうところが滑稽であり、大笑いである。いや笑ってはいけない、他の仲間たちは殺されてしまうのだから。強がりをみせながらも、いざという時に何もできないのが小市民の哀しさであり、皮肉にも笑わざるを得ない悲劇である。
ところで、ラウルが日々、布を集めては縫っていたものが、手製のパラシュートだったことが、彼がのちにハイジャックを決行したところからわかる。パラシュート作りからみると計画的、しかし乗っ取りの要求が、故郷ロンブロン島上空からの飛び降りというのは、何だかあさはかとも思えるが、人間おかしくなってしまうと、もう止められない。
彼の飛び降りが、貧しさからなかなか脱することができない“運命”という遺伝子的なものが、島の村人たちへと連鎖していくことを暗示させるエンディングが、ひと味あって見事である。昨年の第22回東京国際映画祭でワールドプレミア上映され気になっていた、久しぶりに観たレイモンド・レッド監督の痛快な作品。
(2010年9月28日)

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貧困のなかで疾走する若者たちを比のインディー映画「Squalor」にみる [フィリピン]

フィリピンの新人Giuseppe Bede Sampedro監督による傑作「Squalor」(09)。大都市マニラのスラムでの生活で希望に向かって全力疾走する若者たちの儚さをインディペンデントらしい自由な構成と手法で描いていて、ついつい惚れてしまう一作であった(10月11日、CGV Centum City 5にて)。彼らの姿は、鮮烈な残像となって脳裡に焼き付いた。今年の第14回釜山国際映画祭のNew Currents部門でインターナショナル・プレミアされ、最終日にイラク映画「Kick Off」に次いでNew Currents賞スペシャル・メンションを受賞! 「Squalor」が放つ衝撃は、仏のジャン=ジャック・ベネックス監督、タイのペンエーグ・ラッタナルアーン監督、トルコ「パンドラの箱」のイェシム・ウスタオウル監督などの審査員によって確実なものになった。
4つのパートからなるオムニバス形式をとっているが、それぞれのドラマは少しずつ重なり合っていて連鎖する。ラップ音楽に乗せたおしゃれで凝ったタイトル部分から、この勢いで90分間走り続ければ傑作になるゾと予知させる出だしである。しかし…、それぞれのパートの主人公たちは、皆、どうしてこんなにも神様からそっぽを向かれているのか!
女子高生Elginはネットカフェで知り合った男Gerryと結ばれる。しかしGerryは偽名で大学生というのも真っ赤なウソ、本業は偽造文書の裏取引。何人もの女性が騙されていてElginもそのひとり。それを知ったElginの兄は復讐に動く。
二番目の主人公は、母親の保釈のために有り金をすべて叩いてしまい、近く迎える妻の出産費用にも困ってしまった男。彼は、妻のことを想って男に体を売る決心をするが…。
第三話はRonaldの悲劇である。彼は父親の残した土地を売るためにマニラに来た。しかしやっとのことで得た土地の売上金を娼婦に奪われてしまう…。
最後に物語は戻る。Basteは大家族という環境のなか、勉学に励む大学生である。妹が男に騙されたと知り、街でその男Gerry(Ariel)を襲う。一方で妹Elginは薬を大量に飲んで自殺を図る…。
それぞれの主人公が別のパートでは脇に登場し、そのへんは監督の緻密な計算というか、見事な構成力に溢れているのだが、ここでいちいち書くと興ざめになると思うので失礼する。
近年のフィリピンのインディペンデント映画(最近はデジタル)を観ていると、やたらとスラムに生きる人々の世界に行き当たるが、いずれも独特のアプローチをしていて、個性があって飽きない。
今年の釜山映画祭で時間が足りず、観ることができず残念だったのは、フィリピン=韓国の友好60周年を記念したフィリピンのインディー映画特集で取り上げられた、フィリピン映画で初めてベネチア国際映画祭で上映されたという「Genghis Khan」(1950)以降、現在までの作品である。
とくに、いま、パッケージで観てみたいと思うのは、フィリピンの最新インディペンデント作品である。
(2009年12月15日)

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釜山で観たフィリピンの青春映画「Philippine Science」が良かった [フィリピン]

釜山国際映画祭で観たフィリピン映画「Philippine Science」がとても良かった。前にこのホームページでご紹介した「マキシモは花ざかり」のアウレウス・ソリト監督の劇映画3作目にあたる最新作だ。この英語題名だけ聞くと、どんなジャンルの映画なのだか想像つかないが、原題は「Pisay」。Pisayと呼ばれる、科学の才に長けたフィリピンの超エリートの生徒たちが集まるPhilippine Science High Schoolを舞台にした青春ドラマだ。ソリト監督が実際にここの卒業生で、自分自身を投影したようなキャラクターも登場し、その少年も数えて8人の個性豊かな生徒たちの卒業までの日々が描かれる。
背景となる時代は、20年にわたるマルコスの独裁政権に対する国民の不満が爆発した1986年(入学から4年後のこの年に生徒たちは卒業する)。反マルコスの筆頭だったベニグノ・アキノが凶弾に倒れ、その遺志を継いだ未亡人のコラソン・アキノが“ピープルズ・パワー”による革命で大統領選挙に勝利し、フィリピンが新しい時代を迎えたその年にPisayを巣立ち、未来への一歩を踏み出す若者たちが主人公なのだ。しかし特に政治的な匂いはこの作品にはなく、明るい青春グラフィティーである。
生徒たちの役名を覚えていない(覚えられない)ことと、幾つものエピソードの積み重ねられた4年間の物話であることから、ストーリーとしてはうまくまとめられないので、個々のキャラクターやエピソードの内容を少し書き出してみる。
父親は中東に出稼ぎに行っていて決して豊かではない家庭の少年。しかし学校では成績トップクラスで、物理の先生も彼には注目している。けれどもどうやらクラスで人気の美少女に恋をしたようで、成績が伸びなくなり、恋愛と勉強の板ばさみに…。
故郷ではたぶん神童のような存在だったのだろうか、今は親元を離れて寄宿舎生活の少年。ちょっとホームシックでもあるようで、落第してしまって不運にも学校を去らねばならなくなる(仲間たちの卒業式には顔を出して、クラスメートそして観客をも、安心させる)。
芸術に目覚め、勉強そっちのけで演劇活動にのめり込んでしまう少年、これはソリト監督の分身のようだ。この他にも、政治活動をしている父を持ち、家庭に悩みを抱えている少女、ハレー彗星を待ち続ける難病を抱えた少年…。エリート学園であっても、彼らはみなジレンマを抱え、けれども青春を謳歌し、いきいきと輝いている!
この作品はデジタルシネマだ。フィリピンでは今、映画製作本数が激減するなかでデジタル作品の製作がめざましく、インディペンデントから新しい作家たちが続々と登場してきていると聞く。アウレウス・ソリト監督はそのなかでも、今後の活躍をさらに追い続けたい一人である。
(2007年10月31日)


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フィリピン映画「マキシモは花ざかり」~AQFFから [フィリピン]

いくら9月がアジア一色で盛り上がる「アジアマンス」だとはいえ、まさか福岡でこの作品を見ることができるとは思っていなかった。それも、“クイア”とカテゴライズされたイベントのなかで(AQFFのチラシによると、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーなどの、セクシュアル・マイノリティたち。そして既成概念を壊し、軽やかに生きる人々のことをクイアと呼ぶという)。
本作はモントリオール世界映画祭最優秀新人監督賞、ロッテルダム国際映画祭NETPAC賞のほか、ベルリンの児童映画祭などでも受賞。昨年の東京フィルメックスでもとり上げられた注目作なのである。これら映画祭の数々の受賞歴をみれば、この作品が特殊な作品ではないということがお分かりになると思う。“クイア”だからと、変に思い込まずに観て欲しいと願う。
主人公は12歳の少年マキシモ。父や二人の兄と暮らし、母の死後は男ばかりの中で家事を担い、女装してオシャレを楽しむホモセクシャルだ(ベルギー・仏・英合作の「ぼくのバラ色の人生」(97)に出てくる少年よりもう少し大きい)。マキシモは不良に襲われたときに助けてくれた若くてハンサムな警官に好意を抱くようになるが、一家は盗品の売買を生業としているため、そして警官の方は任務に忠実で“その気”もないため、マキシモの想いは成就されない…。少年の成長を時には切なく、時にはコミカルに描き、映画アートとしてはとても魅力的なエンディングで締めくくられる。
世の中にはいろいろな愛の形があり、この映画の場合、少年の憧れは年上の女性でなくてタマタマ男性なのだということであり、少年マキシモの心は透き通っていてとても美しい。舞台がたとえ薄汚いマニラのスラム街であっても…。ゲイは、キャラクターの典型としてフィリピン映画ではよく普通に登場するが、真正面に向き合ったものとしては、観た限りでは10年程前にマニラで出会った「真夜中のダンサー」(94)以来ではなかろうかしら。
監督のアウレウス・ソリトはこれが長編劇映画第一作だが、ドキュメンタリー「神聖なる真実の儀式」(02)が山形ドキュメンタリー映画蔡で上映されている。
(2007年9月8日)


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