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クルドのドキュメンタリー「Baglar」 [クルド]

今年2月から3月にかけて開催された第15回ifイスタンブール・インディペンデント映画祭の上映作品のひとつで、Melis Birder監督とBerke Baş監督、二人の女性監督による共同監督作「Baglar」(2015)。
トルコ南東部の都市ディヤルバクル。ここの住民の多くはクルド人で、Kurdistan Workers’ Party(PKK)とトルコ軍が絶えず衝突を繰り返している地域。劇中には、トルコ兵士めがけて投石を繰り返すクルド住民たちの、実際の生々しい映像も所々に織り込まれているが、作品の中心はスポーツ。ここのBaglar地区のバスケットボールのクラブチームの成長を追った魅力的なドキュメンタリーだ。
身体能力はあるが、街が荒れて貧しい暮らしぶりを強いられている若者たちをバスケットボールの世界へと引き込んでいくのは、見た目はかなりでっぷりとした、40歳手前ぐらいの熱血監督Yildirim。もとは小学校の先生だそうだが、私財も惜しまずチームづくりに人生を捧げている。後々、彼はトルコバスケットボール協会から、青少年の健全育成に貢献したとして表彰されることになるのだが、彼の持論はユニークで「石を投げるな、ボールを投げろ」。若者たちがクルド兵士に身を投じないで済むよう、バスケットボール選手として食べていけるよう、そういう願いが込められている。なかなか立派な人物で、バスケットの技術以上に、コーチングの才に長けているのだと思う。
だから逆に「これは戦争だ!」と、Yildirimは試合中でこそ叫んで、選手を鼓舞する。彼らの試合のシーンは、ラップ調の音楽も添えられていて小気味いい。もちろん彼は、試合に勝つことだけを考えているのではなく、チームの若者たちの私生活のことも親身に考えている。軍と住民の衝突や、住民の決起集会やデモなどの現実社会のできごと、また軍の空爆によりまだ若い命が犠牲になるという悲劇に並行して、チームは勝利を目指す。それがYildirim流の、クルドのまちづくりでもある。
トルコ国内2部リーグへ!という夢、そのためには宿敵アナトリア・ライオンズを倒さなければならない。エンドロールによると、本作はサンダンスの支援で撮られているそうだ。
(2016年3月15日)

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18th BIFFから/クルディッシュ・ウエスタン(西部劇)「My Sweet Pepper Land」 [クルド]

10月5日にMegabox Haeundae Mで観た、ヒネル・サリーム監督の最新作「My Sweet Pepper Land」(2013)は、期待以上におもしろい、あっぱれというべき傑作だった! あとから詳しく書くけれども、ヒロイン役のイランの女優ゴルシフテ・ファラハニにも注目! 劇中で、何っていうんだっけ、大型タンバリンのようなこの地方の伝統楽器も演奏するマルチタレントぶり。おっと、この地方というのは、ヒネル・サリーム監督がいつも自作で故郷への愛情を込めて描いているクルドであって、本作はフランス=ドイツ=クルドの合作で、今年のカンヌのある視点部門の上映作品だそうだ。
では、どうしてあっぱれなのかというと、これが、サリーム監督の持ち味であるテンポのある軽妙さやユーモアが存分に活きた、“クルディッシュ・ウエスタン(西部劇)”であるからに他ならない。昨年のBIFFではイランの西部劇映画を観て、中東の砂漠というロケーションが意外にも死角だったことに気付かされたが、この「My Sweet Pepper Land」は、ドラマとして、ばっちり、西部劇の枠組みに収まっていて何とも痛快。クルド問題に関心を向けるという点でも、これだけひねりが効いていると目立ちに目立って、うまく差別化が図られるというものだ。
西部劇というからには、まずは保安官だ。2003年のフセイン政権崩壊後は、クルドにおいても民主主義のために法による秩序が必要。独身男のBaranは、何度も結婚相手を押し付けようとする母親から逃れるために、志願してトルコ近くの国境の町に赴任した。この地では、車ではなくて馬が移動手段だというところが、またウエスタンの絵面。保安官のBaranが銃を手に馬に跨がる姿は、西部劇のヒーローそのものだ。
Baranはその町の酒場Pepper Landで、赴任の道の途中で出会ったゴルシフテ・ファラハニ演じる女性教師Govendに再会した。彼女も無理矢理に嫁に出そうとする家族から離れて、この町に来ていた。しかし、BaranもGovendもこの町を牛耳るボスAziz Agaにとっては歓迎されない。Baranの前任者もAzizによって殺されたというのだ。
このAzizは、自分らはトルコやイランとも戦ってきた、この地は力で守るものだと主張し、一方、クルドはこれからは法で守る国になるのだ、法はこの私だ!というBaranとの間での思想の対立もある。親たちが子どもを学校に行かせないという町をあげてのボイコットはマシな方で、Azizの手下たちは何度もGovendを襲う。彼女を守るBaranとGovendの間で、抱擁、口づけ、そして一晩…という展開もあるが、話の本筋はBaranがこの地をどう治めるかであり、細かいところは割愛するが、BaranとAziz一派との間は常に緊張状態で、激しい銃撃戦が何度も繰り広げられる。そこにはトルコから流れてきた武装した女性ばかりのレジスタンス派も絡んでいく。
こういうジャンルの映画の視線でクルドをみていくことの不思議な感覚。ゴルシフテ・ファラハニは、昨年のBIFFで観たアフガニスタン映画「The Patience Stone」に続いての存在感。実力派である彼女の居場所は、中東の広い範囲に必ず用意されている。
ラスト近くで田舎から連れ戻しにやって来た兄たちに向かってGovendが、サダムのようだ!と叫ぶ場面もあり、自由に生きたいという想いが、この映画の信念として、スクリーンに刻まれる。ついにAzizを倒したBaranの、彼女を探す呼び声と彼女の返事が重なり合っていくラストに、単なる男女関係のハッピーエンドではなく、もっと壮大なこの地の希望について感じなければならないのだと思う。
以上、ヒネル・サリーム監督を、お気に入りのリストに入れたい理由でした。
(2013年11月5日)


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17th BIFFから/クルドの現実を訴える女性たちの「111 Girls」 [クルド]

10月7日にはBusan Cinema Center Cinema 1で、New Currents部門に出品されている、クルドの現実を訴えた「111 Girls」(2012)のワールドプレミアを観た。これも「Student」同様に釜山での後、東京でも上映されているが、こちらは東京国際ではなくて第13回東京フィルメックス(111人の少女)。
バフマン・ゴバディ監督の姉Nahid Ghobadi監督が、同じクルドのBijan Ztmanpira監督と共同で撮ったという点も関心を持つところだが、まず英語題名にそそられる感じのインパクトを感じた。違う題名だったら観なかったというわけではないけれども、「101 Dalmatians(101匹わんちゃん)」みたいと思っちゃったのはわたくしだけ? とにかくゴバディ家の名とガイドブックの紹介を読めば、まずは期待感をもって臨むはず。上映会場のCinema 1は400席ぐらいで大きめなのだが、相当に埋まった。
エンドロールからもイラク・クルド自治区の作品であることがわかるが、描かれる物語はとにかく奇想。男手が不足しているという実情を背景に、「結婚相手を見つけてくれなければ集団自殺する」という内容の手紙が、111人のクルドの女性たちからイランの大統領へと届く。その状況把握と阻止を命じられた役人たちのタイムリミット48時間を描いたロードムービーだが、表現法が人を食ったように、詩的でもあり、ドタバタでもありの不思議映画である。
フィルメックスで紹介済みなので、わたくしの乏しい理解によるストーリーのなぞり書きは避けますが、まず最初に女性の髪の毛が貼り付けられた、大統領あての血判状が登場して驚いた。相当に重たい映画なのかと覚悟したが、その後は政府からの役人とその運転手、通訳を兼ねた現地の少年が、女性たちを訪ね進む珍道中を繰り広げていく。それはクルドの問題に、離れもせず、グイグイと踏み込みもせずといった巧みな語り口である。そして、ビチャビチャと濡れた女性たちとの交差、池に身投げした女性たちを引き上げる光景といった幻想では、その黒髪が輝くように美しく見えた、わたくしには。
クルドの地は、イラン、イラク、トルコの母と劇中では例えられながらも、希望が消失した土地として描かれる。女性たちの陳情事件はCNNにも取り上げられる。彼女たちの墓も作られ始めるのは、自虐的にもみえるのだが、この作品の製作者たちにとって、この陳情には本当のところ、どういう意味が込められていたのだろう。女性たちは隠れているところが最後に発見され、その姿がピンボケになっていき、この物語はおしまいとなる。
監督からの訴えであるメッセージの受け止めは、この作風全体からも、物語のオチからも、観る者に大きく委ねられたような気がする。クルドの女性たちからの訴えを受け取った主人公たちのように。
(2013年2月9日)

Ghobadi.jpg
写真は、釜山のGala Presentation部門で上映されたバフマン・ゴバディ監督の「Rhino Season」。こちらは同じ第13回東京フィルメックスではクロージングだったようだ。ちなみに「111 Girls」では、バフマン・ゴバディ監督はプロデューサーとストーリーでクレジットされていた。


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スイス=イタリア合作映画「クルドの花(1988レジスタンス~戦場の勇者たち)」 [クルド]

昨年の終わり頃にWOWOWで、2010年製作のスイス=イタリア合作映画「クルドの花」という、劇場未公開作のオンエアを観たが、それがこの度、「1988レジスタンス~戦場の勇者たち」というタイトルに変わってDVDリリースされているではないか。同じ映画とは思えないその題名をみて、WOWOWで観たときの戸惑いをそっくりそのまま思い出した。
この作品はフセイン像が倒壊する2003年から始まる。キルクークの街で、花畑を前にクルドの初老の男が回想するのは1988年。物語はイラン=イラク戦争の時代にさかのぼる。フセイン軍はアンファル作戦でクルド人大虐殺を進めていた。
主人公のアラブの女性は女医の卵。留学先のイタリアから戻ってきた理由は、姿を消してしまった彼女の恋人を捜すため。しかし指輪も交わして結婚の約束をしていたその相手はクルド人である。ドラマは、アラブとクルドの間の許されない恋愛というアプローチから物語は始まる。
クルド地区に入り、やっとのことで男を見つけて再会したとき、彼女の恋人はクルドゲリラの一員になっていた。二人の間に、彼女の許婚を名乗る軍の中尉の存在が絡んでいきながら、銃撃戦の果て、彼女の恋人は軍に捕らえられてしまう。
確か、ここまでで映画の半分くらい。一時間ほど経過していて、クルド人が不当な扱いを受けている時代を背景とした、ロミオとジュリエット的な恋愛を軸とした作品なのだろうとその時点で感じた。運命に弄ばれていく二人の、絆となる赤い日記帳の花の絵。それが、象徴としての、「クルドの花」というタイトルなのだと勝手に納得もした(英語題は「The Flowers of Kirkuk」だった)。
けれども物語の後半になると、少し印象が変わっていく。その後に女性は軍医になり、収容所のクルド人を見つめる位置になった。少年たちは射殺され、少女は湾岸諸国に売られていくという悲劇的な光景を目の当たりにし、少女たちに薬を注射をして伝染病に見せかけて、売買を阻止せんと試みる。そして大量虐殺の証拠を国際人権団体に渡そうと苦心するのである。
もちろん彼女は、捕えられた恋人の解放にも動く。急患の搬送を装って脱走させ、国境の川を渡らせて、恋人をイランへと逃がす。しかし、彼女の方は罪を問われ、軍によってあまりにも簡単に処刑される。ドラマの中盤に「犠牲者と死刑執行人、どちらかを選べと言われたら、わたしは犠牲者を選ぶ」という彼女の言葉があるが、それが現実となってしまうのである。
クルドの人々の命を守るために、戦下で、人としてのまっとうな生き方を貫いたアラブのヒロイン。作品を観ていくと、最後にはそういうみえ方になって、「1988レジスタンス~戦場の勇者たち」という邦題も充分に納まりうることとなった。でも、それを認めてしまうということは、作品の主題が複眼になり、焦点がちょっとぼやけたということにもなってしまう。主演の女優の熱演ぶりは評価できるのだが。
監督のFariborz Kamkariはクルド出身で、イランで映画製作を学んだ。
(2012年6月6日)


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アジアフォーカス2010/400字レポート④「風のささやき」 [クルド]

アジアフォーカス2010/400字レポート④
「風のささやき」(09)イラク シャフラム・アリーディ監督

これも「マニラ・スカイ」同様、昨年の第22回東京国際映画祭で上映されていた注目作。製作にはクルド地域政府の文化省が名を連ね、イランのクルド地域出身のシャフラム・アリーディ監督が、類を見ない自由で豊かな想像力と溢れんばかりの詩的な映像表現力で、他の誰にも真似できない、不思議な魅力に満ちた作品を生みだした。
クルド人掃討のためのアンファル作戦が実施された1988年。主人公の老いたマム・バルダルは、検閲されて届けられない郵便に代わって、クルドの村々にラジカセに録音したメッセージを運ぶという、我々には到底思いもよらないような仕事をしている。
東京国際ではチラシにたった一言だけ”“クルド版山の郵便配達ならぬ、山のボイスメッセージ配達”と比喩されていたが、これは単なるメッセンジャーではない。青いポンコツ自動車を走らせて巡る彼は、明日をも知れない運命に震えながら生きるクルドの人々の祈りや訴え、愚痴、嘆きの受け止め役となっているのだ。もちろん、イラク軍が横行しクルドのゲリラたちが隠密に活動しているような緊張した状況では、必ずしも配達は達成されるものではない。ある少年サッカーチームの挑戦状の届け先の村はすでに廃墟になってしまっていて、対戦相手の少年たちの体はすでに固くなって土砂の下に埋まっていた。だから彼はまた、悲劇の証人でもあるのだ。
この作品では例えば、小人症の男が、バルダルの自動車の泥まみれのビニールシートに恋人あての愛のメッセージを指でなぞる。それが雨に打たれて流れていく。そのような、哀しいほど美的な場面が次から次へとスクリーンに繰り返され、そこに生きている人々の命が、いっそうに尊いものに感じられていく。
(2010年9月29日)

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「クルドはバミューダ・トライアングル」と語る、映画「Dol」 [クルド]

釜山から戻るや、「トルコ政府、クルド勢力掃討のためイラク国境越えも辞さない」といった新聞記事を目にして、釜山国際映画祭で観てきたばかりの、ヒネル・サリーム監督の最新作「Dol」(10月7日/CGV Daeyeon 4)のことを思い出さずに入られなかった。
報道の内容は、イラク北部を拠点にクルド人による独立国家を目指して武装闘争を続けるクルド労働者党(PKK)掃討のため、トルコ政府はイラクとの国境を越えた作戦行動を可能にする法案を国会に提出したというものだ。記事では、トルコ軍の越境行動はイラク国内で比較的治安が安定している北部クルド自治区に新たな火種を生むのではと懸念している。
映画「Dol」の物語はこの報道とは直接は関係ない。しかし、ひとりのクルドの男性の逃亡の軌跡を追いながら、トルコ国内のクルドの村で始まって、再びトルコに戻って終わるクルドの物語だ(以下、結末まで書きますのでご注意下さい)。主人公のAzadはゲリラを監視するトルコ軍兵士によって愛する女性との結婚式を台無しにされた挙句の果て、国境を越えてイラクのクルド地区へと逃げ延びる。彼はそこで、姉の葬儀のために亡命先のヨーロッパから帰ってきた男、小さな頃イラク軍に拉致され身売りされたが今やっと故郷に戻ってきた女性など、同じクルドの血と同じ不幸な身の上を持つ人々に遭遇する。そして彼は、クルド人のアイデンティティーという問題に直面する。「クルドはバミューダ・トライアングル」という自嘲的なセリフが劇中で交わされる。
Azadが故郷のトルコ側の故郷の村に戻ってのラストシーンはとても衝撃的である。Azadとフィアンセの二人は、とうとう最後にトルコ軍兵士に追い詰められて銃で乱射される。銃弾に何度も何度もはじかれていく二人の体は、まるで舞い踊っているようであり、村人たちが奏でる何とも陽気な音楽がそれを包み込む。それは哀しいカーニバル、しかし何故だか微妙に生の人間の温もりを感じてしまうのがヒネル・サリーム監督の世界である。空には高く、そしてしらじらしく「幸福とは、トルコ人であること」というスローガンが書かれたアドバルーンが風にのって泳いでいる…。
ヒネル・サリーム監督の、「キロメートル・ゼロ」(05)に続く最新作である。監督は現在はフランスに活動拠点を置いているが、サダム・フセインの圧政が続く17歳のときにイラク北部から亡命したクルド人である。カンヌ国際映画祭コンペティション部門で上映された「キロメートル・ゼロ」やヴェネチア国際映画祭コントロ・コレンテ部門でサン・マルコ賞を受賞した「ウォッカ・レモン」(03)といった監督作は、日本でもシネフィル・イマジカでテレビ放送されている。
「キロメートル・ゼロ」は2006年のアジアフォーカスでも上映された。イラン=イラク戦争時、同じイラク軍として砂漠の旅を続けるクルドとアラブの二人の男の反目の日々を通して、所々はユーモアを交えながらも、ヒネル・サリーム監督は故郷クルドに対する想いを、今回の「Dol」にしてもそうだが、一貫して熱く込めている。
じつは、ヒネル・サリーム監督が書いた、世界20以上の言語に訳されたという小説「父さんの銃」が今夏に日本でも白水社から出版された。紹介文をそのまま引用すると「フセイン政権下の苛酷な状況で、次第にクルド人としての誇りと芸術に目覚めていく少年と、家族の絆、郷土への想いを描いた話題作」。イラクから亡命し、イタリアを経てパリに移住、今はクルド人映画監督として活躍を続けているヒネル・サリーム監督本人の自叙伝的な小説である。映画の脚本も自ら手掛けているヒネル監督の世界を、小説の側からも堪能することができる。
(2007年10月17日)


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シャウキャット・アミン・コルキ監督と会って、クルドの映画人の輪を感じた [クルド]

アジアフォーカスに長編デビュー作「Crossing the Dust(砂塵を越えて)」をたずさえてイラクから参加しているシャウキャット・アミン・コルキ監督と、コーヒーを飲みながら話をする機会を得た。コルキ監督はイラクとはいっても、クルド自治区のクルド人の監督である。メーンの言語はクルド語であるが、英語が堪能な方なので大丈夫(イランに逃れていたためにペルシャ語もできる。アジアフォーカスでの舞台挨拶はペルシャ語通訳で行っていた)。
イラクから福岡までは遥かなる旅路であるし、まず日本の査証をとるのがひと苦労である。バグダッドの在イラク日本大使館はいまも業務停止状態にあるので、イラク国籍者の場合、隣国ヨルダンのアンマンにある日本大使館で査証申請をしなければならない。つまりコルキ監督は査証取得のためにいったんクルド地区からヨルダンまで渡る必要があるのだ。映画祭参加のような公的な目的であれば日本外務省のお墨付きをもらえばよいが、一般には、テロ厳戒態勢でもありイラク国籍者の審査は厳しいようだ。同じクルドの監督でも、監督作「少女ジヤーン」で2005年アジアフォーカスに参加したジャノ・ロジェビアーニー監督の場合は、アメリカに亡命していた関係で米国のパスポートを持っており、来日は比較的容易だった。
イラク映画界をひと言でいうと、ディアスポラである。バース党の独裁で表現の自由は失われ、湾岸戦争、イラク戦争にいたっては映画製作は不可能、映画作家を含む多くの芸術家たちは志を閉ざすか、活動の地を国外に求めるしかなかった。クルドの映画人でいうと、ジャノ監督のほかにも「キロメートル・ゼロ」のヒネル・サリーム監督がいて、フランスで映画を撮り続けている。また「酔っぱらった馬の時間」のバフマン・ゴバディ監督はイランのクルド人監督だ。そのなかでコルキ監督やジャノ監督はフセイン政権崩壊後、故郷クルドに戻っている。コルキ監督はジャノ監督と親友だという。ジャノ監督が始めた短編映画祭の審査員を頼まれてやった仲だそうだ。コルキ監督によると、ジャノ監督は新作を撮ったらしい。またヒネル・サリーム監督とも親交があり、彼の最新作「Dol」は今月の釜山国際映画祭で上映されるとのこと(以前、ヒネル監督のメルアドはジャノ監督に教えてもらった、まさに友達の輪のようだ)。
イラン・テヘランの第25回ファジル国際映画祭でも上映されたコルキ監督の「Crossing the Dust(砂塵を越えて)」はシンプルで力強い作品である。フセイン政権の残党が戦乱を繰り返す2003年、迷子になってしまったアラブの少年の世話をすることになった二人のクルド兵の物語である。クルド語とアラビア語、二人と少年はコミュニケーションをとることもできない。乾いた大地を人情が潤すが、平和はまだまだ遠い…。少年の名前はサダム。独裁者フセインにあやかって、当時多くの少年たちにはこの名が付けられたが、いまとなってはそれも傷跡である。
クルドの監督たちが映画を通して放つメッセージは共通している。そしてそれは、数多くの国際映画祭に取り上げられることで、世界に向けて発信されている。しかし国内で上映できる機会はなかなかないという。70年代までは映画が娯楽の中心だったイラク、けれどもいま国内には、そしてクルド自治区にも商業映画館はないとコルキ監督は言った。われわれが普通にひとときを楽しむような空間は、まだいまこの地にはないのだ。
(2007年10月2日)


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